補足~1
黄檗僧の渡来とともに、
長崎には北画の系統が伝えられましたが、
当初は一部の人がそれを学んだに過ぎませんでした。
享保16年の沈南蘋の渡来と前後して、
伊孚九や費漢源が来舶して南画の画法を伝えると、
長崎の画人達に注目され、
一方では、中国趣味を尊んだ
文人達の間に定着して行きました。
さらに、19世紀の中頃になると、
江稼圃などの渡来によって、
長崎の南画は本格的なものとなり、
長崎三画人と呼ばれた鉄翁祖門、
木下逸雲、三浦梧門などによって大成されました。
そして、これら南画は、
文人画とも呼ばれて全国に広まり、
池大雅・与謝蕪村・田能村竹田・谷文晁などが活躍、
江戸時代後期のわが国画壇に
主要な地位を占めるようになりました。
当時長崎は全国から画を志す画人が多く集まりました。
古美術崎陽
長崎の歴史
黄檗僧の渡来とともに、
長崎には北画の系統が伝えられましたが、
当初は一部の人がそれを学んだに過ぎませんでした。
享保16年の沈南蘋の渡来と前後して、
伊孚九や費漢源が来舶して南画の画法を伝えると、
長崎の画人達に注目され、
一方では、中国趣味を尊んだ
文人達の間に定着して行きました。
さらに、19世紀の中頃になると、
江稼圃などの渡来によって、
長崎の南画は本格的なものとなり、
長崎三画人と呼ばれた鉄翁祖門、
木下逸雲、三浦梧門などによって大成されました。
そして、これら南画は、
文人画とも呼ばれて全国に広まり、
池大雅・与謝蕪村・田能村竹田・谷文晁などが活躍、
江戸時代後期のわが国画壇に
主要な地位を占めるようになりました。
当時長崎は全国から画を志す画人が多く集まりました。
古美術崎陽
長崎の歴史