「大浦慶」
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しかし、1860年代が終わろうとすると、
輸出に陰りが見えはじめる。
九州より大きい茶の産地である静岡からの
茶の輸出が増えていき、違う商品の貿易を考えていた。
おりしもの明治4年(1871)6月
熊本藩士の遠山一也が現れる。
遠山は品川藤十郎の通詞で
イギリスの商人、オールト商会との
熊本産煙草15万斤の売買契約した
この取引の保証人になってほしいと慶に嘆願した。
熊本藩から派遣されたと装い、
勝手に同藩の福田屋喜五郎の名を使い、
連署人として偽の印を押した証書を見せた。
品川もやたらと連判することを慶に勧めた。
やむなく保証人を引き受けたが、
それが不運のもととなった。
遠山に手付金3000両を差し出したが
期限になっても煙草が全く送ってこない。
そして、オールト商会からは手付金を返すように求められ、
熊本藩との交渉で
遠山家の家禄5ヵ年分に相当する約352両の支払いを受けたが、
オールト商会に納めることしかできなかった。
実は遠山は輸入反物で失敗し、
借金を返済するために慶を騙したのであった。
これが、後にいう遠山事件。
晩年のお慶は不遇であった。
明治5年(1872)1月、
慶はオールト商会から遠山、福田屋喜五郎と共に
長崎県役所に訴えられ、
慶自身も遠山と福田屋を訴えた。
7月から8月にかけての判決で、
遠山は詐欺罪で懲役10年の刑を受けるが
慶は連判したということで、
1500両ほどの賠償金の支払いをすることとなる。
負債の3000両(現在の価値でいえば約3億円)と
裁判費用及び賠償金を払うことになった。
お慶は毎月63両余・20ヵ月返済という形で弁償することになる。
これにより、大浦家は没落し、家財も差し押さえられてしまう。
明治17年(1884)当時県令であった石田英吉が
農商務省の農商務権大書記官であった岩山敬義に
慶が既に危篤状態であるため、
生きているうちに賞をあげてほしいと要請したところ、
4月5日に受賞の知らせを西郷従道から電報で伝えられ、
翌日に石田の使者が慶の家に出向いて受賞をしらせた。
明治政府は慶に対し、
日本茶輸出貿易の先駆者としての功績を認め、
茶業振興功労褒賞と金20円を贈った。
その1週間後、慶は57歳で生涯をとじたのであった。
慶は死ぬまでに借金を完済していたとされる。
墓所は長崎市高平町曇華院跡大浦家墓地。
古美術 崎陽 HP