(2)
ポンペの医学校建設の志に共鳴した良順は
まず医学伝習を海軍伝習から独立させるよう努力した。
そのころ蘭医学は禁じられていたので、
他藩からの医師は良順の弟子ということにして
ポンペの講義を受けることができるように取り計らった。
1857年11月12日ポンペは西役所の一室で(現在の長崎県庁)
松本良順とその弟子達12名に最初の講義を行なった。
その日が長崎大学医学部の創立日である。
ポンペは、この日から五年間、生徒たちを、熱心に教育した。
また診察治療は1万3千人以上になる。
次第に多くの医師が集まり手狭となった西役所の一室から
大村町の元高島秋帆宅に移った時、
良順は病院を付置した医学校建設を決意した。
(後の長崎大学と付属病院である)
古美術 崎陽
ポンペの医学校建設の志に共鳴した良順は
まず医学伝習を海軍伝習から独立させるよう努力した。
そのころ蘭医学は禁じられていたので、
他藩からの医師は良順の弟子ということにして
ポンペの講義を受けることができるように取り計らった。
1857年11月12日ポンペは西役所の一室で(現在の長崎県庁)
松本良順とその弟子達12名に最初の講義を行なった。
その日が長崎大学医学部の創立日である。
ポンペは、この日から五年間、生徒たちを、熱心に教育した。
また診察治療は1万3千人以上になる。
次第に多くの医師が集まり手狭となった西役所の一室から
大村町の元高島秋帆宅に移った時、
良順は病院を付置した医学校建設を決意した。
(後の長崎大学と付属病院である)
古美術 崎陽