古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

幕末期-3

2009-05-12 12:09:25 | 長崎の歴史
(3)
 ときの長崎奉行岡部駿河守長常はポンペと良順に好意的で

 医学校建設に助力を惜しまなかった。

 1859年井伊大老から突然オランダ人海軍伝習教官の帰国命令が出されたとき、

 良順は岡部駿河守と共に医学伝習の存続に骨を折り、ポンペは残留した。

 1860年ロシア兵の長崎寄港の際、遊女の梅毒検査を実施した。

 1861年9月養生所が完成、良順はその頭取となった。

1857年11月、ポンペによる開講で医学伝習所は市内外浦町に所在したが、

年内に大村町に移転。

医学伝習所の後身たる養生所・医学所は小島郷字稲荷岳に 開設され、

「小島養生所」と称された。この小島校地は精得館・医学校へと継承され

第五高等中学校時代まで存続した。



   「養生所建設には大変な苦労があった?」

 幕府に良順とポンペが願いをしていた(小島養生所)の建設許可が下りた。

 当時の大老・井伊直弼が良順たちの要望を受け入れ許可と予算をつけた。

 井伊直弼は、開国派の中心的な人物であった。良順たちの理解者・井伊直弼。

 安政7年(万延元年)3月3日、雪の桜田門外で暗殺。


  「医学は長崎から」

 浦上にある長崎大学医学部に行くと。キュンストレーキや良順の資料、

 解体新書や人体解剖図の本、永井隆先生の直筆報告書。

 などがあるそうです。 


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