司馬 凌海 幕末~明治初期の蘭方医。
天保10年11月28日(1840)‐明治12年(1879)(新潟県佐渡市)生まれ。
諱は盈之(みつゆき)、凌海は通称。本名は島倉亥之助
1850年(嘉永3年)江戸に出、のち下総国佐倉の順天堂で蘭学を学ぶ。
57年(安政4年)松本良順に従って長崎にいき、ポンペから医学を学んだ。
帰郷して開業後、68年(明治元年)東京に出て医学校三等教授となり、
のち少博士、兵部省病院、文部省・宮内省五等出仕などを歴任し、75年退官。
この間、東京下谷練塀町で日本初のドイツ語塾春風社を開く。
語学の天才で通じない外国語はないといわれた。
独・英・蘭・仏・露・中の6か国語に通じていた。
特に松本順、ポンペ・ファン・メーデルフォールトに師事していたことから、
医学用語の日本語訳を多く作っている。
安政4年(1857年)18歳で、師の松本良順と長崎へ行き
オランダ軍医ポンペ・ファン・メーデルフォールトに学ぶ。
文久元年(1861年)、ポンペに破門される
文久2年(1862年)、「七新薬」を著し、尚新堂から刊行。
肥前国松浦郡平戸で平戸藩医師・岡口等伝の娘の婿になる。
子が生まれる(長男・司馬亨太郎)
祖父伊衛門により佐渡に連れ戻される 横浜に出る 、
江戸の下谷練塀町で私塾「春風社」を開く
教え子に生田秀(ビール醸造)、清水郁太郎(医学者、東京大学教授)
明治元年(1868年)、医学校(現・東京大学医学部)三等教授。
明治3年(1870年)3月、少博士・正七位、
明治3年(1870年)7月、少助教
明治5年(1872年)1月、大学大助教 後に文部大教授
明治5年(1872年)、日本最初のドイツ語辞典「和訳独逸辞典」を出版。
但し、「孛和袖珍字書」という辞典も同時期に出ている。
日本初というのは辞典、辞書の定義によると思われる。
明治8年(1875年)5月、元老院少書記官
明治8年(1875年)12月に辞職、
明治9年(1876年)公立医学所(後に愛知医学校、愛知県立医学校と改称)
(現・名古屋大学医学部)教授 教え子に後藤新平
明治10年名古屋で開業
明治12年(1879年)3月11日に肺結核で死去。享年39。
著書 [編集]
七新薬 (司馬凌海 著、関寛斎 校)
和訳独逸辞典(日本最初のドイツ語辞典)
独逸文典字類 (明治4年)
ドイツ語はドイツ草書体で表記していて、品詞も記載されている。
アルファベット順(ドイツ語)で記載。
朋百氏薬論 (訳、明治2年) ポンペの薬物学講義を翻刻したもの
薬物学(別題「百氏薬性論」)
古美術 崎陽
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