古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

幕末期 長崎で活躍した人  坂本 龍馬

2009-05-21 09:57:03 | 長崎の歴史
『坂本 龍馬』天保6年11月15日(1836) - 慶応3年11月15日(1867年)
 

 別名才谷梅太郎、諱は直陰(なおかげ)のち直柔(なおなり)

 幕末の日本の政治家・実業家、土佐藩脱藩後

 貿易会社と政治組織の亀山社中・海援隊の結成、薩長連合の斡旋、大政奉還。

 文久2年(1862年)沢村惣之丞と龍馬は脱藩、江戸の千葉道場に身を寄せる。

 千葉重太郎を介して幕府政事総裁職の松平春嶽から紹介され、勝の弟子となる。

 文久3年(1863年)勝の進言する神戸海軍操練所を開設にはたらく。

 また神戸海軍塾の塾頭になり、元治元年(1864年)、神戸海軍操練所が開設。

 勝・松平春嶽の働きで脱藩の罪を山内容堂から許され護衛に龍馬は岡田以蔵をつけ。

 藩の弾圧で龍馬は再脱藩、京の尊攘過激派の弾圧が激しく、

 禁門の変は池田屋事件の報復。

 京の尊攘過激派の弾圧が激しくなりを、禁門の変は池田屋事件の報復。

 海軍塾は長州側がいたために幕府から弾圧、勝も解任された。

 龍馬は勝の紹介で西郷吉之助を頼って大阪の薩摩藩邸に庇護される。

 慶応元年(1865年)京の薩摩藩邸に龍馬の所に中岡慎太郎がくる。

 薩長同盟への働きを中岡と共に始める。

 亀山社中、のちに海援隊を土佐脱藩の仲間と共に薩摩藩の働で開設。

 物産・武器・軍艦の貿易を行った。

 グラバー商会(イギリスのジャーディン・マセソン商会の直系)の信用を得ていた。

 薩摩藩名義で香港のマセソン商会の信用状で、

 長崎のグラバー商会から買い付けた銃器弾薬を長州藩に売った。

 大久保利通の命で「非義勅命は勅命にあらず」書簡を

 龍馬は重大な任務を受け長州藩重役に届けた。

 西郷隆盛と桂小五郎(木戸孝允)は坂本龍馬の働きで薩長同盟が結束。

 盟約書の裏書を桂の求めで龍馬が書いた。

 一介の素浪人が保証を、大藩同士の同盟に行った。

 この時代に龍馬の信用が大きい物であった判るでしょう。

 寺田屋で裏書の時、幕府に襲われ、鹿児島に傷の静養に妻おりょうと行く。

   (日本初の新婚旅行と言われてます)

 第二次長州征伐で亀山社中の船・ユニオン号

 薩摩藩名義でグラバー紹介より買い「桜島丸」となり、

 長州藩に渡され「乙丑丸」となり長州藩海軍を支援。


 慶応3年(1867年)、土佐藩の働きにより海援隊を開設。

 4月、いろは丸沈没事件で御三家紀州藩に損害を賠償させる。

 船中八策を龍馬がつくり、後藤象二郎が土佐藩主をとうして将軍に進言する。

 大政奉還を実現させた、龍馬の働きは日本の宝になると筆者は思います。

 京都の近江屋で何者かに龍馬(龍馬の誕生日は命日)と中岡慎太郎は暗殺された。

 明治4年、龍馬の姉千鶴の長男高松太郎を龍馬の跡継ぎとする。

 龍馬の跡を継いで坂本直。 墓は京都霊山護国神社参道中腹。

 靖国神社に祀られている。


 慶応3年11月15日の暗殺された日に龍馬は風邪を引いた。

 その日に岡本健三郎(土佐藩士)中岡慎太郎(陸援隊)画家の淡海槐堂等が訪ねてきた。

 その後、十津川郷士数人に近江屋の母屋の二階で惨殺

 龍馬達は襲われた時油断しており、刀をさしていなかった。

 中岡は重傷だったが意識もあり事件の証言をして数日後亡くなる。

古美術 崎陽