「大浦慶」
(5)
エピソード~2
幕末に海外へ密航しようとした人は、
吉田松陰を初め、たくさんいる。
だが女性となると、あまり思い浮かばない。
長崎の大浦お慶は、その中で異彩を放つ。
密航後、大貿易商になり、維新の志士を支える女傑となる。
事実確認の資料は無いが、まことしやかに語られている話。
ちょうど浦賀にペリーが来航し、
長崎にもロシアのプチャーチンが軍艦を引き連れて来航。
世相は大きく動いていたとはいえ
そのために海外視察を決行したことは大胆極まりない。
大きな箱に身を隠してオランダ船に乗り込んだのだった。
そして訪れたのは、上海にインド。
この時代に商機ありと命懸けの試みを行ったことは感嘆の一言。
そして無事帰国すると、テキストルに託して
肥前の嬉野茶の見本をアメリカ、イギリス、アラビアの3国に送る。
35カ月後に巨額の注文が舞い込む。
とても、調達できる量ではない。
しかし、お慶は諦めずに九州一円を走り回り
6000キロほどをかき集めてアメリカに輸出する。
おかげで九州はお茶の一大生産地へと発展した。
また、自宅の裏に製茶所や製茶工場をも建設している。
長崎におけるお茶の歴史は古く、
平安時代末期、遣唐使の時代に
禅僧・栄西が大陸から平戸の地に
禅とお茶を持ち帰ったのがはじまりで、
それらが後に本格的なお茶の栽培として、
全国各地に広まったといわれている。
特に15世紀に釜煎りによる製茶法が西九州に伝えられると、
東彼杵町で盛んに栽培されるようになり、
その後、元禄年間(1688~1704)に
大村藩主の奨励によって栽培が拡大し、
茶業の基礎が作られた。
日本茶が海外へ輸出されたのは、
平戸に来航したオランダ東インド会社によって
ヨーロッパに向け船積みされたのが最初で、
鎖国時代、唯一の窓口だった長崎から
オランダ人によって日本茶が世界へ伝わっていった。
そして、幕末から明治にかけては、
九州各地の釜煎り製玉緑茶が集められ、
長崎から盛んに輸出された。
お慶は、海外へ見本を送るという当時では斬新な発想と
等級別に梱包するという細やかな心配りを持っていたようだ。
お慶の茶貿易の成功のお陰で九州の茶業は発展する。
古美術崎陽HP
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