ギザのピラミッド
久しぶりに多和田葉子を手に取った。『尼僧とキューピッドの弓』である。わたしがある修道院を訪れた話である。そこの尼僧院長が弓の指導者と恋仲になって出奔したので次の尼僧院長を探すという。帯文は「時と国境を超えて女性の生と性が立ちのぼる」というのだが多和田葉子は性描写などせずかなり観念的ゆえ興奮はしない。この小説で作者が何を言いたいか200字でまとめなさい、という宿題が出たら小生は困惑する。多和田作品はどうも摑みにくい。
けれど随所にスパイスの効いた箴言のような文言がある。
さる尼僧に「専門家の独裁政権の方が烏合の衆の民主主義より正しいと思います」と言わせるのもその一つ。
これは俳句結社にズバリ当てはまる。
俳句結社の主宰という存在はまさに民主主義を否定した専制君主である。門外漢が俳句結社を見れば、主宰に隷属していると見てもいたしかたないのである。むろん小生も民主主義でないことは熟知して主宰についている。隷属ではない。彼の人格、技量等に敬意を抱いて教えを請うているのである。嫌になったら逃げられるのである。
湘子は専制君主を気持ちいいほどあらわにした。「晴子(飯島晴子)が採っても俺が採らなきゃ投句できないぞ」とよく言った。「その句に愛着があるなら句集を編むとき入れるんだな」という助け舟は出したが鷹には自分が採った句しか載せなかった。
軽舟主宰は湘子ほど強面でなく自身が採らないくても奥坂まやや加藤静夫など側近が採ったとき「まやさんが(静夫さんが)採ったのだから採ってもいいかな」と妥協するやわらかさを見せるがこれは優柔不断ではなく、主宰として懐が深いのである。けれど本質は湘子と一緒で専制君主である。
湘子のとき小句会である句に対して評価が割れて議論が伯仲した際、「天の声を聞いてみましょう」ということで決着した。湘子に白黒をつけてもらおうということである。主宰は「天の声」なのである。
鷹の同人を13名集めて「流星道場」をやっている。ここでの最高得点句は8割がた軽舟選に入るが「ひこばえネット」や「シベリウス」の最高得点句が軽舟選に入る率はがくんと落ちる。この二つは鷹以外のメンバーがいるせいもある。
「高点句に名句なし」と以前から言われてきた。烏合の衆がいいね、いいねと言い合うのはつまらないという意味である。ずば抜けた一人の目利きが白黒をつけることでこの文芸は発展してきた。
最近、小生はできた瞬間「いった!」という句を句会へ出さないことがある。出しても点が入らないだろうと推測できるからである。そういう句は誰の目に見せずに主宰とさしで勝負すればいいのである。句会のメンバーの力量を図る意味でその句を「流星道場」試しに出してみた。採ったとして一人だろうと予測してそうなった。一人いてよかった。俺が集めたメンバーなんだから。この句が鷹に載ったあかつきには採ったK女に電話するつもり。
主宰と真摯に向き合うことで自分の俳句に主宰の色がついてくるだろう。主宰の感性が乗り移ったと感じることは多々ある。真似ではない。それが専制君主と付き合うメリットではないかと思うこのごろである。