藤田湘子が60歳のとき(1986年)上梓した句集『去來の花』。「一日十句」を継続していた時期にして発表句にすべて日にちが記されている。それをよすがに湘子の7月上旬の作品を楽しみたい。
7月1日
風ゆくと鮎につかひし箸を置く
鮎を食べているのは街の料亭というより山辺の四阿のような店という感じ。「風ゆくと」で風が店を吹き抜ける感じ。「鮎を食ひたる」としなかった湘子の美意識を見る。われわれが「食む」と書くと「食ふ」でいいんだ、と指導した湘子であるが時と場合を心得ている。
芋の葉のまだいとけなき旱かな
「芋の葉のまだいとけなき」で7月の小さな葉を思う。旱に対して上五中七は新鮮。
蕗のうへ影と揚羽と來て合へり
一読して「寒鴉己(し)が影の上におりたちぬ 芝不器男」を思った。湘子もおそらくこの句を意識しただろう。ある物とその影とを見て興を感じるのは万人に共通のようである。似た感覚の積み重ねを伝統というのかもしれない。
7月2日
荒草やつよき七月われに來よ
小生には書けない句で目をみはる。「荒草や」と季語でないものを冒頭に置くこともだが、「つよき七月」というふうに抽象的なものに強さを求める発想も興味深い。
秋櫻子夫人白髪夕簾
師匠の奥さんである。「夕簾」が効いて白髪の楚々とした老婦人を想像する。動詞のない句は楚々と立つ。
7月3日
日盛りや老いて澁谷の出前持
何の出前持か。蕎麦か。かんかん照りの下元気で働く老人を謳歌。読んで心地いいので出前持をいっそう元気だと感じる。
7月4日
失ひし扇に思ひ到りけり
初心者の作れない句で、ずるくて巧いというたぐいである。眼前に扇はない。失くしてしまっている。初心者は句に思いを書いはいけない、物を書けと指導されるが、この句は「思ひ」があるだけである。しかしその先におぼろげに扇が見える。
ふと見たる臍の奈落や半夏生
湯上りか、裸である。作者は夏痩せしていたのではないか。「臍の奈落」がおもしろいが哀れもあってよい。季語も当を得ている。
7月5日
炎天に堪へず道邊の花盗む
炎天に堪えられないと花を盗むのか、ユーモアがある。「道邊」なら「盗む」が妥当ではない。もしかしたら人の敷地か道かわからぬところの花をいただいたのかもしれない。発想の転換の妙を味わいたい。
7月6日
人の世を涼しくせむと帽かむる
「終戦忌頭が禿げてしまひけり 湘子」があるけれどこれはもっと年を取って詠んだ句。このころ先生は禿げていなかったはずであるが頭髪は薄かったか。いずれにせよ帽子が好きであった。頭を見せないことが礼儀であるかのような意識がおもしろい。
雲上に月夜あるべき四葩かな
四葩は紫陽花のこと。雨の季節、雲の上の空を想像している。
7月7日
吹かれゐる萩よりかろし子かまきり
萩の葉の上にカマキリの子がいて吹き飛ばされそう。危うい。俳句は見ることが大事という手本のような句。
七夕の白髪美(は)しく酒舗にをり
誰を書いているのか。男か女か。老婦人と見るのが妥当。そうとう酒の飲める人で湘子と話が弾んでいるようである。秋櫻子夫人ということはあるか。
7月8日
出奔の弟子はいづくぞ光琳忌
誰のことか。鷹は入る人も出る人も多い結社である。厳しい指導が好きな人は定着しそうでない人は去る。光琳忌なる季語をこの局面につけるのは意外性あり。
病葉のごとくに思ひひるがへる
「病葉のごとく」であるから思いが揺れることを作者は喜んでいない。巧い一物俳句である。
7月9日
わが裸草木蟲魚幽(くら)くあり
句の構造からして興味深い句である。小生は去年の夏、御嶽山の宿坊に泊ったときこの句を思い出した。宿の窓をあけると木々が枝を交わし下草が繁茂し鳥の声がした。湯上りの身に涼しい風が来た。この景色を図案化すれば「曼荼羅」かと思った。おそらく湘子も裸で窓の外を見ていて感じたのだと思う。森羅万象の幽玄さに打たれたのだと思う。夕方とか曇天で景色が暗いのではない。「幽さ」というのは自分を受け入れてくれる静けさであろう。自分を囲む草木や虫や魚などの動物の世界のはかり知れない情趣に感じ入ったのである。裸ゆえ五感がいっそう冴えたであろう。冒頭にそっけなく置いた「わが裸」に作者の覚悟のようなものを思う。すなわちこの句は湘子流の花鳥諷詠といえるだろう。
甚平翁勲章せちに欲しがりぬ
俗で楽しい。甚平を着るようなざっかけない人が勲章を欲しがるとは、おかしい。
7月10日
合歓の花散りて下葉を染めなせる
花と下葉の関係がよく見えないし、「染めなせる」もわからない。情緒におぼれていないか。
氏素性悪しきも力合歓咲けり
合歓の木に氏素性があり作者の見ている合歓の木は「悪しき」だというのか。人間に関して「氏素性悪しきも力」というのはわかるのだが。