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あるネット句会に出たTくんの句を酷評した。
買ひ置きの缶詰開くる台風裡
台風が来るので食糧、それも調理せずすぐ食える缶詰を買っておいたのでは詩として立ってこない。
台風裡に代わる季語を仲間からいくつか出されたTくんは、どんな季語にしても季語は動くんじゃないの、と反発した。
それはそうだ。季語以外の措辞に彼らしい発見があるわけでもないし、そう味わい深い工夫があるわけではないから。
しかしTくんのような素直な疑問が俳句というもの、季語というものを考えるきっかけとなる。
Tくんには「季語が動かない句はない」と答え、さらに「動かないように思わせてしまうことを意味する」と踏み込んで解説した。納得したようだ。
俳句業界で佳句を褒めるのに「季語が動かない」と平然と書く習慣があるがこれはもう改めたほうがいい。ぼくは「季語が動かない」と書く評者を信用していない。
そうとういい句でも交換可能な季語はいくつかあるものだ。
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蟇誰かものいへ声かぎり 加藤楸邨
鰯雲人に告ぐべきことならず 同
高名な俳人の二句。
ぼくはいつごろからかこの二句の季語は入れ替えたほうがわかりやすくなるし深みも出るのでは、と思っていた。すなわち、
鰯雲誰かものいへ声かぎり
蟇人に告ぐべきことならず
「声かぎり」という措辞は遠くのものに対して発したほうが効きそうだし、「告ぐべきことならず」というわだかまりはやはり生き物で言葉を解しない存在に対して発するほうが懊悩を形象化できるのでは、と考えた。楸邨は季語に対する歴史的認識が甘いのではと。あるとき、中央例会あとの懇親会で藤田湘子が人間探求派の三俳人を話題にしたことがあった。
湘子は「人間探求派の中では楸邨がいちばん下手だな」というので聞き耳を立てた。
はたしてこの二句をとりあげて
「この二つなんて季語を入れ替えたほうがずっとすっきりするよ」とおっしゃったのでびっくりした。まさか先生がぼくと同じ見解を持っていたとは……。
このとき先生は季語作家だとあらためて認識しその弟子である自分を自覚したものだ。
「楸邨が下手」についてはもっと聞きたかったところだがたぶん湘子の中に兄貴分の石田波郷の切れ味のよさがあったのではなかろうか。
楸邨には〈天の川わたるお多福豆一列〉という絶品をはじめあまた秀句がある。
下手発言は湘子にして言えることであるが、
季語に関してはどの作家の場合でも、その使われ方でのめるかどうか、読み手がそれぞれ考えていい問題である。
そこから季語への認識はまた深まる。