天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

赤レンガ倉庫で絵を見る

2016-05-11 16:14:17 | アート


大野静子さんから「スウェーデンから来た現代アート展」の知らせをいただき、初日の今日、横浜の赤レンガ倉庫を訪ねた。

大野静子さんの略歴は次のようなもの。
1945年~。父は彫刻家、母は洋画家。
1994年 第12回上野の森美術館大賞展・佳作賞(フジテレビ賞)
1995年 第12回上野の森美術館大賞展入賞者展〔吉井画廊、東京/パリ〕
以後たびたび個展を開催し、2001年SJP国際展〔スウェーデン日本芸術交流プログラム〕を開催するなど、最近では外国のアーティスト、特にスウェーデンの画家たちとの交流展を盛んに行っている。
今回の展覧会もスウェーデン人、日本人の混合作品展の趣である。

大野さんはぼくの母校、上智大学独文科の5年先輩。
芸術家一家に生まれた彼女がなぜ上智大へ入りさらに独文科を選んだのか、ずっと不思議に思っている。
5歳年上だと同じ大学でも知り合う縁がないはずなのになぜ顔見知りかもいまもってよくわからない。
ときどき彼女から展覧会のお誘いが来る。
そのつど書かれている字ののびやかさ、闊達さに「ああ大野さん元気なんだ」と思う。

「叫ぶ花」

ぼくは「叫ぶ花」がいちばんよく大野さんを表していると思う。
大野さんは制作のコンセプトを次のように語る。
「人知では測り知ることのできない巨大な空間の中に存在する命。命は死により限定されている。誰もが避けることのできない死に対する、ささやかな抵抗が私を絵画制作に向かわせる。」
大胆でエネルギッシュ、という印象をぼくは大野さん自身にまた描く絵に持っていた。


「Cosmic Composition」

けれど今日見た「Cosmic Composition」は何がテーマなのか、何を言いたいのかわからなかった。
文字通り「宇宙」を感じるのだが山がない、ポイントがない。「叫ぶ花」にある花いうか目玉は絵の中心でブラックホールのように効いている。
しかし「Cosmic Composition」には中心がなく散漫である。妙なたとえだが鉄道に乗ってシベリア旅行しているような平板さである。どこで降りても似たような風景、それがえんえんと続くシベリアの大地。
俳句でいうといろいろなものを見過ぎていて芯がない、という感じ。ゆえに押してくるものがない。大野さんの心はいま平安なのだろう。

現代アート展というのだから作品は「絵画」でなくていいのだがぼくは大野さんには筆に顔料をつけて塗布するという伝統的な技法でいってほしい。
日本紙の上に、岩絵の具も使っているが8割がた金属箔を貼っている。貼絵で貼るものが金属だと絵画という気がしない。
そのへんを語りあいたかったが、彼女は約束の時間に来なかった。

しかたないので京極夏彦の『魍魎の匣』を読み終えた。
ここで無器用な木場刑事が登場する。彼は箱の中身より箱の外側を大切にする人間。つまり自分が刑事であることが大事。好きな女がいても捜査対象にならないと口も利けないのだ。つまり箱の外側が箱を律するという立場である。
この考えには大層刺激を受けたし納得できるのである。
この線をおしすすめると、画家は何を描いてもかまわないが画家であるなら箱の外、つまり技法は筆で顔料を塗るということに徹してよ、という結論が導き出される。
大きな意味でのアートを否定するのではないが餅屋はあくまで餅屋でいてほしいのだ。

いつか大野さんと箱の外と内の話ができるか…生きているうちに。
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