天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

湘子『黑』9月上旬を読む

2024-09-10 04:23:50 | 俳句




藤田湘子が61歳のとき(1987年)上梓した第8句集『黑』。荒行「一日十句」を継続していた時期であり発表句にすべて日にちが記されている。それをよすがに湘子の9月上旬の作品を鑑賞する。


9月1日
氷菓舐め愛の詩もなく成長す
自分の娘のことだろうか。アイスクリームを舐めて体だけは大きくなって、こいつ、詩心というものがあるのか、と冷めた目で見ている。父親らしい感慨。
木の股を呼ぶ木の股や秋高し
おもしろい発想。空気が乾いているとき木の股がクリアに感じるのはわかる。が、「木の股を呼ぶ木の股」という発想を作者以外の誰が持つか。句会で点は入らないだろうが作者の名を聞いて納得するという句。
新松子(しんちぢり)人のいふほど酒飲まず
先生は底知れぬ酒豪ですね、と言う人がいるけれど俺がそうは飲まないよ。言い訳じみていていい。新松子は新しい松毬。季語がほどよく効く。


9月2日
鱸汁贔屓話の昂じけり
鱸汁(すずきじる)をすすっていて俺はあいつが好きだ、いや私はあの人のファンよ、と言い合っている。下世話なおもしろさ。
葡萄の種吐くや十年老いずあれ
「老いずあれ」という命令形が意表をつく。おまけに葡萄の種を吐くことで。無理だと思うが俳句は何で言える楽しさ。
母は死へ膝立てて我が涼む間も
実際に母が膝を立てているのではあるまい。母の状況を比喩的に叙述する。「我が涼む間も」という非情がところを得ている。
ほそりゆく命見えけり秋の風
「ほそりゆく命」は観念だが「見えけり」が効く。「秋の風」は決まりすぎなほどだがここへ変な季語はもってこれない。

9月3日
病院の子も旅の子も星月夜
作者に娘が二人いる。その一人が入院していてもう一人が旅にある、と読んでみた。臥せっていても立っていても星は公平に輝く。
音なめらかに秋の夜の白襖
静かな襖の動きを感じる。音が幽か。いかにも秋の夜である。

9月4日
うすき色ながれて萩にとどまりぬ
「うすき色」は萩の花の色のことだろう。「ながれて」で風にさざめく萩であろう。短歌調の書き方に作者の抒情の本質がある。作者は本質的に硬派ではない。
蓑蟲の枝ごと切つて瓶にあり
やったことをそのまま言葉にしている。俳句はそrで充分のことがある。この句もそうだ。

9月5日
母見舞ふ心となりぬ蓼の花
母はもう寝たきりなのか。「母見舞ふ心となりぬ」には、ためらいというか進んでそうしたくない気持ちも垣間見える。季語が作者の心中をよく表している。
母死なむ蚊帳吊草にわが立てば
こういう句は季語の働き次第。「蚊帳吊草にわが立てば」ははかなくてどうしようもない。
     

9月6日
赤とんぼ巡礼行の散華とす
散華は、供養のために花を散布すること。赤とんぼがその花っであるという。格式のある表現を楽しみたい。
病む母へ行く秋蝶のうしろから
臨終の母の句をたくさん書いている。「秋蝶のうしろから」という屈託は湘子ならではのものであり、沁みる。
秋の風病母の見たる虚空かな
「病母の見たる虚空かな」はいいようがない。まさに虚空である。おまけに秋風。
秋澄めり人形の眼を母に遣れ
母の目はもう曇っている。人形の眼は澄んでいる。かたや命がありかたや無機質のものだが逆転しているように感じている。憐れの極致ではないか。母シリーズで出色の出来。

9月7日
薄明や大楠に棲む露の玉
この句にも臨終の母を感じる。そういう前提がなくてもこの無常観はえも言われぬよさ。浮きそうな「薄明」がところを得て磐石の重み。
秋の夜や生きて身体のつぼの数
「生きて」で自分のことを言っている。「身体のつぼの数」は端的でいい。
顎乗せし枕と露の夜にあそぶ
「顎乗せし枕」という設定がいい。小生はこうしたことがないがついていける。

9月8日
雲迅き九月はこころ病む月ぞ
台風が来る九月は雲が迅速に動く月。「こころ病む月」と断じて潔い。
母が死も誰が死も同じきりぎりす
母の死から離れて死という普遍的なものを見ている。「きりぎりす」はこれ以上ない季語。

9月9日
露の玉土蔑みて落ちずあり
小生のできない発想である。露の玉が葉に長くあるのは土を軽蔑しているからであるとは。土の上に落ちたとたん玉ではなくなる。

9月10日
戀せむに髪の乏しき西鶴忌
頭が禿げてきたら恋どころじゃないな。髪のあるうちが花である。西鶴忌を付けた洒落を楽しみたい。
下り来るは山芋掘の孫二郎
「日本むかし話」ふうな味付け。その人を呼び止めて「君の名は?」と聞いたのではないだろう。その人は山芋を持っていたのであろy。いかにも山芋掘という人が見えて乙だ。
山々は大河に遅れ秋の暮
山にいて利根川のような大河を見下ろしている。川は広い平面であり、山は入り組んでいる。日差が届かぬところから暮れる。平野が暮れるころ山は夜に近づく。これだけの措辞でかくも大きな景色をまとめる能力に感嘆するばかり。
湘子の句の中でこの句がそう人の口に上らない理由がわからない。
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