天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

セクハラ研修を受講したい

2018-06-08 05:11:50 | 世相


きのうの讀賣新聞に「省庁セクハラ研修会定期化」という記事があった。
これはやらないよりやったほうがいいとは思う。けれど、どういう内容なのか。どういうシステムでどんな講師がきて教材を使うのか、講師の話をただ聴くだけなのか、そのへんを記事はまったく伝えていない。世間へ向けて努力はしていますというアドバルーンを上げただけではないか、と勘繰られてもしかたないだろう。

文学作品は差別に関しては鋭い発信をする。天童荒太の『ペインレス』はセクハラ、男女差別、心の痛みということに関して一級品の資料であろう。
たとえば次の万浬の感慨をみてみよう。

「原子の人たちって、子孫を残すための交尾しか知らなかった動物から進化して、こと性に関しては、あまりの快楽に驚いたんじゃないかな。そっと系のホルモン分泌が盛んになったろうし、男女ともに、もっともっと、って求め合った気がする。どんどん相手を変えて大胆に、公平に、楽しんでいたんじゃないかと思うの。けど脳がさらに発達する段階で、たぶん男たちが性をさらに自分本位に、独占的に楽しみたい願うあまりに、女を力で従わせる文化が進んだのじゃないかしら。道徳も法律も宗教も、男たちに都合がいいのは、だからだと思う。でも不公平な快楽の追求は、女たちには耐え切れなくなって、防衛的に慎ましくするしかなかったのよ。結果、生身の相手を失った男たちは次第に脳内の幻想にすがるしかなくなって……たぶん、経済という数字の上下に性的快感を見いだしたのね。財力を誇る人の顔にも、物欲しげに羨む人の顔にも、性的な優越感と劣等感がはっきり見て取れる。」
(『ペインレス』下24ページ)


これなどまさにセクハラ原論といっていい内容だろう。
ぼくがセクハラ研修担当なら資料にこの部分を抜粋して載せるだろう。これを読んで役人諸君が自分たちの置かれている地位こそ男女差別の砦と認識してくれればいいがそこまで期待はしない。
セクハラをれっきとした成人男性に教えることは、小学1年生に公衆道徳を教えるよりはるかに至難である。それでもセクハラに対して意識を芽生えさせる必要はあるだろう。

次の会話は女医と無痛患者の性行為における会話であるが、女性の立場から性行為の本質を鋭く指摘し、男と女の違いを浮き彫りにしている。
森悟「きみを激しく求める行為が、痛みを招いたとしても……それは愛情とは伝わらない?」
万浬「ええ。相手がそのつもりでも、わたしは痛みを愛情とは感じない」
森悟「どれほど、きみを欲しいと願う行為だとしても?」
万浬「荒々しく欲することも、愛情表現の一つだとする、男の都合に合わせた文化に、侵されているだけではないの?」

(『ペインレス』下32ページ)


『ペインレス』は痛み、差別に関して本質的な提言をしている名著といっていい。小説はこれに限らず差別を扱うものは多い。
文学作品を教材にしてもいいだろう。
ただし書いたものを読んでも差別意識はなくならないだろう。研修というしつらえられた条件の中で差別意識を取り除くのは至難。
講師として招かれるのは女性だと思われるが、その女性に対して奇異の目、好奇の目を向けることさえあるだろう。それがセクハラのもととも気づかず……ほんとうはそこが問題なのだ。

そう考えるとセクハラが露見してしまったから何かするのではなく、職員採用のとき差別意識の少ない人を採るしかないように思う。
セクハラ問題は絶望的なのだが、中央省庁のセクハラ研修の中身は知りたい。出席したいほどである。研修会の作り方、そこにすでに差別が発生すると思うのである。
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