天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

孫のことなど話したくもない

2024-06-06 05:59:26 | 身辺雑記

三鷹「福松」のうなとろ丼


「人生案内」というコラムは案外おもしろい。ときどき新聞のそれを見る。
きのうの讀賣新聞の「人生案内」に相談を持ち掛けた千葉のC子さんのテーマは、「友人が孫の話ばかりで苦痛」であった。
C子さんは60代前半の年齢で夫と二人暮らし。子供は息子と娘がいて結婚しているが双方に子供がいない。双方とも子供を産むように見えない。よってC子さんは孫が欲しいが孫を抱くのは半ばあきらめている。
C子さんにはママ友が5人いて彼らはみな孫がいるので集まると孫の話題に花が咲く。自分は話すことがなくその場にいるのさえ辛い。
もう彼らと付き合うのを辞めるべきか困惑している。

これに対して尾木直樹という教育評論家が、とりあえず焦って極端な選択をせず当面その集まりを欠席してはどうか、と無難な回答をしている。
さらに、互いの生活環境が変わったのであるから以前と同じ関係を望むのは無理でしょうと転じ、この際このママ友5人とは距離を取り、今あなたが楽しめること、興味が持てそうなことにトライしてみたらいかが、とアドバイスしている。
要するに群から離れて自分自身が喜べる世界を開拓しなさい、という方向。回答者の8割がそう答えるだろうという穏当な内容であり、小生も支持する。
相談のおもしろいのは、相談するのはみな似たような市民であるにもかかわらず自分とは雲泥の隔たりを感じることである。

小生も孫がいるからその点で5人のママ友と同じだが、同じ境遇の人と集まって孫の話をするなどあり得ない。60代70代の女たちが集まると孫の話ばかりするのか。まずそのことを異様に感じた。
そもそも小生は友と呼べる存在が昔から極めて少ない。人が集まってワイワイやる意味がほとんどわからない人間である。その時間と中身はほとんど無意味ではないかと思っている。一人想像力の世界に遊んで俳句を考えたり、それに飽きたら別の想像力の所産である本を読んだり、それも飽きたら身体を使って筋肉の躍動や汗を感じたりして清新な気分になるほうが上質ではないか、と考える。

回答者はC子さんにあなたが興味を持てそうなことを見つけることを言っているが実はそれがむつかしい。
俳句を年取ってから始めた人は、つい孫を書いてしまう。「かわいい」ゆえにい孫を書くのだがそれが困る。「かわいい」から書いてはダメという真意がわからない。俳句は元来硬質な詩であり俗っぽいものを寄せ付けたくない。孫など俗の極みである。
小生は孫を煩悩の連鎖の結果と見ている。若いとき女に手を出して子をつくってしまった。その子が同様なことをして子をつくってしまった。煩悩が煩悩を生み、孫を生む。一時かなり厭世的な気分で人間界を眺めた。そのうち煩悩の連鎖ばかり言っていたらこの世は成り立たないことを痛感して諦めた。孫を守るのは自分の煩悩の所産に若干の責任めいたもの、苦みを感じているからである。

孤独、孤高といった精神が人には必要。むやみにつるむようでは自分にとって新しいことも見つからないのではないか。
俳句は句会があるから友をつくりたければA句会、B句会、C句会……とどんどん出て行けばいい。それは可能だが小生はそうしない。そんなに人と話し懇意になっても仕方ないのである。いま与えらている茄子と今月はずっと付き合っていて人間とおしゃべりしたいと思わない。
俳句をやれば人との交際を増やそうと思えばできる。反面、そうしなくてもいいという心理も発生してくるからおもしろい。
森羅万象、草木虫魚と付き合っていれば足りるのである。
孫と付き合う機会は多いから孫のことは五七五として書きつけてはいる。けれどそれを鷹などへ出す気はない。「かわいい、かわいい」のレベルから抜け出ないと作品たりえない。
C子さんが自分自身を確立するのは至難のような気がした「人生案内」であった。



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