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寺田博(てらだひろし)氏(元「文芸」「海燕」編集長)5日、結腸がんで死去。76歳。告別式は近親者で済ませた。
1961年、河出書房新社に入社。「文芸」編集長として、古井由吉氏ら「内向の世代」の作家を押し出し、中上健次氏の代表作「枯木灘」を手がけた。
81年からは福武書店(現・ベネッセ)の「海燕」創刊編集長を務め、島田雅彦氏をデビューさせ、海燕新人文学賞を通じて、よしもとばなな氏、小川洋子氏らを世に出した。
94年の退職後は文芸評論家として、時代小説の魅力を紹介した。著書に「百冊の時代小説」「ちゃんばら回想」など。
小説は好きだが、文芸雑誌などは滅多に読まない。
そんな僕が珍しく、書店でしばらく購入していたのが「海燕」だった。
もちろん、「文芸」編集長の時代から名前を知られていた寺田さんが創刊編集長だった。
寺田さんはその前には、結構ユニークな復刻本などを出していた作品社の立ち上げメンバーでもあった。
「海燕」の新人賞には懐かしい名前が揃っているが、当時はこの賞が、芥川賞の登竜門のように目されたこともあったのではなかったか。
「海燕」は教育事業の福武書店(ベネッセ・コーポレーション)から創刊された。また翻訳本などでずいぶん買い込んだ「福武文庫」もなつかしい。
ベネッセの知人が何人かいたが、余計なお世話であるが体質が好きになれない会社だった。
そのなかでは、この「文芸」路線だけは、いいじゃん、と思ってもいたが、その後、文芸路線からはすべて撤退し、一部上場企業らしい儲け道を直走っているのかもしれない。
あの、人体をデザイン化したCIロゴもなんだかうさんくさく感じてしまう。
まあ、そんなことはどうでもいいのだが、編集長を辞められた寺田さんの晩年は、「時代小説」の伝道者のようでもあった。そして、いま、「時代小説」は花盛り、歴女ではないが時代小説ファンの女性も急増しているようだ。やはり、名物編集長の嗅覚のようなものもあったのだろう・・・合掌!
1961年、河出書房新社に入社。「文芸」編集長として、古井由吉氏ら「内向の世代」の作家を押し出し、中上健次氏の代表作「枯木灘」を手がけた。
81年からは福武書店(現・ベネッセ)の「海燕」創刊編集長を務め、島田雅彦氏をデビューさせ、海燕新人文学賞を通じて、よしもとばなな氏、小川洋子氏らを世に出した。
94年の退職後は文芸評論家として、時代小説の魅力を紹介した。著書に「百冊の時代小説」「ちゃんばら回想」など。
小説は好きだが、文芸雑誌などは滅多に読まない。
そんな僕が珍しく、書店でしばらく購入していたのが「海燕」だった。
もちろん、「文芸」編集長の時代から名前を知られていた寺田さんが創刊編集長だった。
寺田さんはその前には、結構ユニークな復刻本などを出していた作品社の立ち上げメンバーでもあった。
「海燕」の新人賞には懐かしい名前が揃っているが、当時はこの賞が、芥川賞の登竜門のように目されたこともあったのではなかったか。
「海燕」は教育事業の福武書店(ベネッセ・コーポレーション)から創刊された。また翻訳本などでずいぶん買い込んだ「福武文庫」もなつかしい。
ベネッセの知人が何人かいたが、余計なお世話であるが体質が好きになれない会社だった。
そのなかでは、この「文芸」路線だけは、いいじゃん、と思ってもいたが、その後、文芸路線からはすべて撤退し、一部上場企業らしい儲け道を直走っているのかもしれない。
あの、人体をデザイン化したCIロゴもなんだかうさんくさく感じてしまう。
まあ、そんなことはどうでもいいのだが、編集長を辞められた寺田さんの晩年は、「時代小説」の伝道者のようでもあった。そして、いま、「時代小説」は花盛り、歴女ではないが時代小説ファンの女性も急増しているようだ。やはり、名物編集長の嗅覚のようなものもあったのだろう・・・合掌!
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