隣国同士でありながら、長い間敵対してきたイスラエルとエジプトの市民が音楽を通じて交流を深める夢のような一夜の物語。1990年代のイスラエルを舞台に、ユダヤの地に迷い込んだエジプト人と、現地のユダヤ人のほのぼのとしたやりとりをじっくりと見せる。誇り高き団長を演じるのは、イスラエル映画界を代表する名優サッソン・ガーベイ。民族や言葉が違っても、心を通わせることができるというメッセージが胸を打つ。[もっと詳しく]
「映画の魔法」そのものが、この作品に隠されているかもしれない。
京橋にある警察博物館に行った事がある。
ピーポー君も脱力の、なんの工夫もない官製博物館なのだが、ひとつオヨっと思ったのは、警察音楽隊の空襲から焼け残った楽器や楽譜がそれなりにスペースをとって保存されていたことだ。
日本では、警察音楽隊は、戦前からあったのだが、軍隊に取られたりして解散状態であったが、終戦の年にはすでに再編されている。その後、警視庁音楽隊、皇宮警察音楽隊、全国47都道府県に各専任音楽隊が存在する。
もちろん、陸・海・空の自衛隊の軍楽隊や、海上保安庁、消防庁などにも、独自の吹奏楽を中心とした楽団や、カラーガードといわれる視覚演出がミッションの音楽隊もある。
警察音楽隊の専任の場合は、音楽学校の卒業生でかつ警察学校の卒業生という条件がつくことになる。
学校の吹奏楽や器楽同好会とは訳が違う。
きちんとした専門家集団であり、また統率の取れた警察学校の訓練生でもある。
なんとなく「君が代」演奏や、行進曲(マーチ)演奏や、元気のいい古典POPSなんかが中心なのかなぁ、という気がするがよくは知らない。
きさくな会などでは、クラシックや和製ポップスや演歌やご当地ソングや映画音楽のヒットメドレーなようなものが演奏されたりもするのかもしれないし、それはそれでいいことだなぁと、思う。
制服姿の職務としての堅苦しさと、音楽学校の卒業生であることのアーチスト性が、微妙な平衡をとっている様態が、微笑ましくもあり憎めないところのような気がする。
「迷子の警察音楽隊」の8人の楽団員は、エジプト警察に属するアレキサンドリア警察音楽隊の面々である。
団長のトゥフィーク(サッソン・ガーベイ)以下、20年以上にわたって音楽隊を維持しているが、どうやら出番も月2回から3回しかなく、リストラに怯えて、疲れが滲んでいるような気配もある。
色男であるカーレド(サーレフ・パクリ)のような団長にも楯突く若手もいるが、概ね、中年から初老の集団だ。
物語はこの音楽隊が、イスラエルの新しく設立されたアラブ文化センターからの招待で、イスラエルの空港に降り立ったところから始まる。
目的地のペタハ・ティクバ(希望を開く)行きのバスを尋ねたが、誤ってベイド・ティクバ(希望の家)行きを教えられ、降りたがいいが、そこは砂漠の中の荒れ果てた小さな町、バスは1日1本しかなく、ホテルもない。
食堂を経営する女主人ディナ(ロニ・エルカベッツ)の親切で、8人は食堂に3人、ディナの家に2人、客のイツィクの家に3人に別れ、一夜を過ごすことになるのだが・・・。
この作品は、2007年カンヌ映画祭「ある視点」部門で、国際批評家監督賞、ジェネス賞、そしてこの作品のために急遽用意された「一目惚れ」賞の3賞に輝いたほか、東京サクラグランプリでも、最優秀作品賞を獲得するなど、世界で34冠を獲得したイスラエル=フランス合作の話題作である。
若干34歳のイスラエルのエラン・コリリン監督。
もともと、イスラエル映画というものにたいして馴染みのない僕だが、オープニングから引き付けられっ放しとなってしまった。
この数年の映画鑑賞で、こんなにある場面では声を出して笑いある場面ではクスっと頬が緩み、頬杖をついて画面を見やりウンウンと深く頷き、悲恋映画や悲運映画をみての涙とまったく異なり身体の奥底から緩やかに涙腺を刺激され、エンドロールの後は茫然と「世界は複雑であり単純だなぁ」とひとり静かにしみじみ黙考した、というような体験をした記憶はそうはない。
「映画の感動」というものの、ひとつの原点に触れたような気持になったのだ。
「一目惚れ」賞というのは、作品中の一見すると慇懃で四角四面なトゥフィーク団長と一見すると奔放で豪胆な女主人ディナの、敵対する国家を超えたじれったいような「一目惚れ」の優れた描写を指してユーモアを込めて贈られた賞かもしれないが、僕はこの作品そのものに、すっかり「一目惚れ」してしまったのである。
この作品に対しては、ひとつひとつの場面について、幾晩でも映画好きと語り合ってみたい気がする。
また、少ない知識しか持ち合わせてはいないが、1990年代初頭の、時代的にはイスラエルのラビン首相とアラブのアラファト議長の歴史的握手があり、隣国ヨルダンとの平和条約が成立した、結果としては幻想に終わったのだが、短い「希望の時代」に想いを寄せることも無駄ではない。
エジプトとイスラエルは1979年に平和条約を締結してはいるが、「冷たい平和」と評されたように、決して民衆同士の連帯が在った訳ではないことを、改めて認識する必要もある。
けれど、作品中にも出てきたが、1980年代にはことにイスラエルの大衆が、僕たちも馴染みの「アラビアのロレンス」のアラブの伊達男であるオマーシャリフや実生活でもその妻となったエジプトのトップ女優ファテン・ハママのエジプト映画の悲恋物語に夢中になったこと、また四半音の中立音程がひとつの特色のアラブ音楽の哀愁に満ちた旋律がPOPSなどとも融合されて、イスラエルの音楽シーンの一ジャンルを形成したことなども、なるほどなぁ、と頷くことが出来る。
なにより、現在のイスラエル人の成立そのものが、ヨーロッパ系イスラエル人が大半なのだが、エジプトを含むアラブ系イスラエル人も人口の15%程度を占め、やはりというか、二級市民扱いをされていることなどを指摘されると、民族の出自と国境という世界的な難問が、世界の緊張のとても大きな位置を占めるイスラエルとアラブの当事者国の中で逃れ難くあることの宿命のようなものに、思わず怯んでしまったりすることも、正直なところだ。
そうしたことをうつらうつらと思い巡らしながらも、僕はもうひとつとっても重要なことを考え込まざるを得ない。
たった34歳の世界的にはほとんど無名の若手監督。
団長役のサッソン・ガーベイは「ランボー3」にも出演していたし本国イスラエルでは評価の高い名優であり、女主人役のロニ・エルカベッツはフランスでも活躍する監督もこなす才女らしいが、出演者のほとんどはアラブ系イスラエル人であり、世界的には無名に近い。
冒頭の空港シーンやバスの中のシーン、ラストのアラブ文化センターでの演奏シーンにはそれなりのエキストラが配置されてはいたが、大半は音楽隊の8人とベイド・ティクバの辺境の住人の10人足らずしか登場しない。制作費もそれほどかけられているとは思わない。
けれど、どうしてこのような心を打つ作品が、創られたのだろうか、と・・・。
そんな比較など意味はないよ、といわれそうな気もするが、たとえば、近頃好調ではないか、といわれる邦画の水準とついつい比較をしたくもなるのだ。
鳴り物入りのヒット小説やヒットコミックの映画化は、さておくとする。
日本特有のアニメ作品の現在的水準も、別物とする。
あるいは、もともとお涙頂戴の、テレビとの連動を画策したがる「恋愛」あるいは「難病」作品群は、そういうものとして見ることにする。
映画的文法を揺さぶることに意味がある、前衛的実験映画や難解な解釈映画もすこし脇に置いておくとする。
とすれば、僕はいったい邦画のどういう作品群と、無意識に比較をしてみたくなるのだろうか?
たとえばワイルダー作品をこよなく愛し、「ラジオの時間」「THE 有頂天ホテル」「笑の大学」「ザ・マジックタワー」など群像劇の演出に関しては自分しかいない、と本人はそんなことは言ってないがそんな嫌味が透けて見える三谷幸喜の一連のコメディか。
松尾スズキ、宮藤官九郎ら、才能豊かな演劇人たちを有する「大人計画」に代表されるような、ちょっとインディペンダントな匂いも残しつつ現在の表現世界の表舞台に飛び出している一連のマルト・タレントたちが製作にかかわっているシネマ群か。
「亀は意外と速く泳ぐ」「図鑑に載ってない虫」「転々」などで一定のファンを持つ、三木聡のような小ネタが得意な放送作家出身の一群の新進監督たちか。
「かもめ食堂」や「めがね」で、脱力感と癒し感を、とても上手に現在風にアレンジした荻上直子に代表される女流監督たちの無意識とも計算とも取れる、共感映画群たちにか。
ユーモアとペーソスにあふれた作品群で、「日本の良心」を体現するかのような職人監督である山田洋次に代表される国民的監督のお正月映画にもなる代表的な作品群に対してか。
日本映画における「人情」を主題とした世界的な脚本・演出・監督たちの歴史を受け継ぐ、映画界を生き延びている正統の後継者たちの良心的で心に響く「感動作品」を指しているのか。
どれでもあって、どれでもない。
ほんとうは、現在の日本の邦画界をメジャーにしろ、インディペンダントにしろ、引っ張っている彼らと、少し異なるところで、あるいは本質的なところで、比較をしたがっている自分がいる。
それがなになのか、まだ、判然としない。
役者の問題なのかもしれない。
背景に開かれる自然風土の差異から、もたらされるものなのかもしれない。
世界を構成する大きな歴史的な物語が、メタとして存在しているかどうかということなのかもしれない。
そういうこととはまったく関係ないのかもしれない・・・。
「迷子の警察音楽隊」・・・とてもシンプルでとても複雑な映画。
とても寡黙だが表情の中にとても饒舌さが窺える映画。
脱力のようでありながら、間の空き方に独特のペーソスがあるようでいながら、同様の世界的映画監督たちとはどこか一線を画しているような映画。
一晩でも二晩でも語り明かせそうな作品だ、ということは裏を返していえばたぶん、一晩でも二晩でも、自分がこの作品にどうして惹き付けられるのかを探りたい、ということなのだろう。
すなわちそれは古くて新しい、「映画の魔法」そのものを巡るおしゃべりと同義なのかもしれない。
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監督の才能もすぐれたものと感じましたが、やはり並みでない、ものすごい激動の歴史の中を生きてきた、生きなければならなかった・・・という背景が大きく影響しているのではないでしょうか。
我々日本人などには、到底考えも及ばないような強烈な歴史を目の前にし、本人自身が若くても、その認識の深さは想像もつかないものと思います。
「約束の旅路」などというすごい映画もありましたが、あまりに過酷な歴史過ぎて、笑うことや、ペーソスは、ものすごく必要な養分なのかもしれません。
そして、余裕でそれを描く。
深いです。
アレキサンドリアなんて、かっての一番の都市でしたしねェ。長い深い、歴史と民族史、宗教史の交錯は、僕たちの想像を超えているのかもしれませんね。
「映画の魔法」、なるほどそういう言葉を使いたくなる映画ですね。特に並外れた工夫をしているようにも見えないのに、なぜか心を惹かれる映画です。われわれ日本人とは基本的に違うリズムで生きている人たちの映画です。
荻上直子監督の映画と似ているようでいて、どこか空気が違う。複雑さを通り抜けた単純さ。そんな魅力を感じます。
ひょんなことから小さな町に迷い込んだ音楽隊。死んだように活気のない町にひと時の活気と緊張をもたらし、音楽隊もまた道に迷った不安を見知らぬ人たちの親切で紛らすことができた。
互いにおずおずと接しあい、わずらわしくもあるし、居心地も良くないけれど、それだけにちょっとした触れ合いが心を安らげる。こんなささやかな経験が案外いつまでも心に残るのかもしれない。そんなことを考えさせてくれる映画でした。
別に奇をてらったところはないし、オーソドックスな撮り方をしているし、でも、ひとつひとつのシーンの作り方がとてもうまいし、構図もすごく考えられています。
なにより、セリフがとてもよく、そのセリフを発する人物に向けるカメラのポジションが、微妙な間を大切にしています。
ちょっと驚きました。
そうですか。邦画と比較ですか。
なるほどです。
kimionさんのその言葉に、何回も頷いてしまいました。
この映画はそういったことを、気負うことなく
うま~く表現してあって、もう大大大好きな映画と
なりました。
そういう意味では、アメリカのヒューマンコメディやアジアのペーソス系と比較してもいいんですけどね。
なんとなく、邦画の若手監督たちを思い浮かべてしまうんですね。
いまの映画界は、リメイクものとか原作依存とかがすごーく多いし、そのなかにはいい作品もあるんだけど、この作品のように、普遍のテーマを局所の出来事から、抽出していくというような製作姿勢が、僕は好きなんだと思います。
この映画を見たのが今年の1月だったんですが、改めて思い返すと、ひとことで言い表せない感情がわき上がってきます。
kimion20002000さんがおっしゃっているように、「とてもシンプルでとても複雑な映画」だからなのかもしれないですね。
また見たくなってしまいました(^^)