サーカスな日々

サーカスが好きだ。舞台もそうだが、楽屋裏の真剣な喧騒が好きだ。日常もまたサーカスでありその楽屋裏もまことに興味深い。

万年青年/池部良(俳優)/92歳

2010年10月12日 | 毎日がメメント・モリ

池部良さん死去、92歳…直前まで筆握る


スポニチアネックス 10月12日(火)7時6分配信


 「青い山脈」など戦後を代表する映画に出演し二枚目スターとして活躍した俳優の池部良(いけべ・りょう)さんが8日午後1時55分、敗血症のため都内の病院で死去した。所属事務所が11日、公表した。92歳だった。葬儀は近親者で済ませ、後日お別れの会を開く予定。東宝の文芸映画から東映の任侠映画まで幅広く活躍。晩年は文筆業を中心に活動し、亡くなる直前まで筆を握った。

 その甘いマスクから「万年青年」と呼ばれた池部さん。8日午前に容体が悪化し、妻の美子(よしこ)さんと親族にみとられて旅立った。

 所属する「鈍牛倶楽部」の国実瑞恵社長によると、今年6月ごろから体調を崩して入退院を繰り返していた。「高齢だったので風邪から肺炎をこじらせることはありましたが、特に大きな病気をしたことはなかった。夏の初めに会ったときは“涼しくなったらまた食事をしよう”と言っていたのに…」と話した。

 晩年は文筆家として活動。タウン誌「銀座百点」など4誌にエッセーを連載していた。都内の自宅で留守番をしていた女性は「9月の亡くなる直前まで筆を握っていました」と明らかに。病床では「僕は俳優だから」と常々口にしていたそうで「銀座百点 10月号」のエッセーには俳優の勉強のために通った歌舞伎座について書いていた。

 1918年(大7)2月11日、東京都生まれ。立大在学中に東宝撮影所のシナリオ研究生となり、41年、東宝の文芸部に入社。監督志望だったが、俳優の資質を見いだされ、同年に映画「闘魚」でデビューした。

 太平洋戦争に召集されて活動を中断したが、戦後は「青い山脈」(49年)、「暁の脱走」(50年)などに相次いで主演。1メートル75の長身と甘いマスクを生かし、特に「青い山脈」では31歳でさわやかな高校生を演じてみせた。

 演技派として「雪国」(57年)、「暗夜行路」(59年)などの文芸作品でも活躍。60、70年代の東映任侠映画「昭和残侠伝」シリーズでは、高倉健(79)演じるやくざと敵対するニヒルな役どころを演じ、せりふの「ご一緒、願います」は流行語となった。

 生涯の映画出演作は150本以上に上り、今井正監督、市川崑監督といった名監督に多く起用された。80年以降はマイペースで映画、ドラマに出演した一方、文筆の才能を発揮。毎日新聞に連載したエッセー「そよ風ときにはつむじ風」は91年に日本文芸大賞特別賞を受賞した。

 ◆池部 良(いけべ・りょう)1918年(大7)2月11日、東京都生まれ。48年に女優の羽鳥敏子と結婚したが離婚。60年に美子さんと再婚。子供はいなかった。父は画家、漫画家として活躍した池部鈞(ひとし)さん。画家の岡本太郎さんはいとこ。

池部良さんは、どこか万年青年のような印象があったから、大正七年生まれの92歳ということに少し意表をつかれた。
田中角栄と同じ年であり、僕の父もそうだ。
『青い山脈』は49年だから僕の生まれる前なのだが、主題歌を僕たちは小学校や中学校の遠足などで、大声で歌っていたものだ。
僕たちの年齢では、やはり仁侠映画で高倉健と対峙していた頃の、池部さんの印象が強い。
敵役でも、少しニヒルで味わいがあった。
日本映画俳優協会は俳優の地位向上のためにつくられ半世紀以上の歴史を持つ。
「映画の日」や「映画検定」などを通じて、馴染みもある。
この協会の設立にも、池部良さんは深く関わり、1965年の映画業界と暴力団との絶縁宣言の筆頭に立ったのは池部良さんであり、1983年から昨年まで、実に四半世紀にわたって理事長をつとめてこられた。
俳優としての日本の戦後映画史の生き証人のようなところもあるが、達者な随筆でも周囲を唸らせた・・・合掌!




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