現役住職で芥川賞作家である玄侑宗久の小説を映画化した人間ドラマ。うつに苦しみながらも、かつて熱中した音楽に向き合うことで懸命に生きようとする僧侶と、彼を温かく見守る周囲の人々の姿を描く。監督は、東京藝術大学大学院で北野武、黒沢清らに学んだ新人の加藤直輝。主演は、映画初主演となるミュージシャンのスネオヘアー。彼の妻に『ちょんまげぷりん』のともさかりえがふんするほか、ベテランの小林薫ら多彩な顔ぶれがそろう。[もっと詳しく]
この作品のオール・ロケ地の福島に、その後大震災が襲い掛かった。
東北大震災の復興構想会議に、玄侑宗久の名前を見つけた時には、少し期待するものがあった。
とはいえ、官僚に監視された中でのお堅い会議で、どれほど彼の想いが主張できるものか。
安藤忠男はともあれとして、なんとなく地元の文化人もいれておきましょうか、というバランス配置であったかもしれない。
そんなこんなで、玄侑宗久の公式サイトを覗いてみると、次のような文章が目に付いた。
日本のマスコミは、遺体ばかりか泣き顔もほとんど映さなかった。(中略)
このところ、被災地から遠く離れた地域では、あまり大震災のことも話題に載りにくくなっているような気がする。つまり、記憶も薄れ、被災者への想像力も衰えてきて、今回の出来事そのものが「風化」しつつある。
こんなとき、秘蔵してあった遺体の映像を、遠景でいいから流してみたらどうだろう。じつは撮ってあった、老若や男女に関わらぬ泣き顔を映してはどうだろう。そうすればきっと、今回の出来事の規模や重大さが、何の解説もなく伝わるのではないか。
しかしどんなに逆さにして振ってみても、空の徳利の酒は出てこない。撮っていない映像は示しようがない。この国にはそうした映像が全くないのだからどうしようもないのである。
この文章を読んで少し安心した。
wikによれば玄侑宗久は1956年、福島県三春町で生まれた。
臨済宗の寺の長男で生まれたが、カソリック系の幼稚園に通ったあと、モルモン教、統一教会、天理教などにかかわった。
小さい頃から「死」を思って毎晩泣いたが、中学3年生で日本脳炎で死の淵を彷徨っている。
毎年のように家出を繰り返しながらも、慶應の文学部に入るが、ここでも現代演劇を専攻しながら、イスラム教やものみの塔に触れたり、座禅を組んだりしている。
在学中から学生であることを隠して、ゴミ焼却場、ナイトフロアのマネージャー、英語教材販売などの職を転々としている。
27歳でヨガ道場に通い、その後京都嵐山で三年間参禅のため入山。
神戸、山梨などを行脚してから、ついに1988年帰郷し、自分の家の寺に入ることになる。
芥川賞を「中陰の花」で受賞したのは01年のことである。
いくら寺の家に生まれたとはいっても、相当な変わり者である。
たぶんいままでの人生がそのまま、「修行」みたいなものである。
聖も俗も紙一重のようなところで、生と死の極点を臨みながら、自分や他者を見つめてきたはずである。
そして宗教というものに、あるいは「信じる」という行為になにを託すのか。
相当な魂の彷徨を繰り返しながら、もしかしたら悟りにはまったく遠いところで逆に悟りを見通すような、ある意味でアクロバティックな立ち位置にいたようにも見える。
『アブラクサスの祭』という玄侑の原作を、黒沢清や北野タケシなどが指導する東京藝術大学映画研究科の第一期生である加藤直輝は、繰り返し繰り返し原作を読み返し、映画化を切望した。
鬱症の臨済宗僧侶の内面の苦悩など、どこから考えてもエンタテイメントな映画になりそうもないものを、加藤はかなり大胆に自らの創作シーンを付け加えながら、不思議と魅力的な作品に仕上げている。
鬱を患った僧侶浄念をスネオヘアーが演じている。
そして周囲に、師匠の玄宗に小林薫、その妻に本上まなみ、浄念の妻をともさかりえという芸達者を配置している。
浄念は、法事や説法で玄宗についてまわる。
日常は作務衣を着て寺のお勤めをして、檀家に死者が出ると、通夜に枕元で観音経を、葬儀には引導香話を、また死んだ場所で後日お祓いをしたりは、法衣を身に着けることになる。
薬を飲みながら毎日の勤めを地味に果たす浄念だが、自分は本当に誰かの役に立っているのかどうか、悟りに近づいたのかどうか、いつも自信無さそうである。
病気になる前にロックバンドをやっていた頃のことを思い出して、なんとも暗鬱な日常を切り替えるために、思い切ってライブをすることになる。
その公演を前にして、知人の商店のおやじの自殺を知り、ショックを受ける。
アンプにつないだギターを、荒れ狂う海に向かって、憑かれたように演奏する。
当日は、結局玄宗の計らいで、お寺の境内から村に向かって会場が設けられ、かがり火のなか、浄念は上半身裸になって、ロックの激しいリズムを伴って、村人の前で力の限り咆哮するのであった。
それはまるで、迷いを吹き飛ばしながら、浄念が自分自身の迷いを打ち消すかのように放つ、「渇!」のように・・・。
オール福島ロケである。
三春滝桜で有名な玄侑宗久の出身地である三春町と、近くの国見町にある龍雲寺でロケが進められた。
多くの村人がオーディションに参加した。
そしてその場所が、被害の程度は別として、今年に入って東北大震災に見舞われたのである。
この映画にかかわったスタッフやキャストは、絶句したに違いない。
しかし今こそ、『アブラクサスの祭』という作品は、その価値を持つ筈である。
アブラクサスとは以下のように解説されている。
その名は「創造主」の意。
天使の君主ともされる。
雄鶏の頭をもち盾と鞭で武装し下半身は二匹の蛇という姿であらわされる。
守護神として呼び出せる存在ともされる。
旧約聖書の世界はこの365天の最後のもので、ヤハウェすらも創造天使の一人と数えてしまうという説から、正統キリスト教会からは異端視され悪魔と考えられた。
東北大震災のあとで、単純に「ガンバレ!」を連呼することが、どうしてもさほど意味のあることとは思えない。
巨大な自然の猛威を前にして、深い迷いと絶望のなかから、僕たちはいまひとつの「アブラクサスの祭」を、深い眠りの中から、呼び覚まさなければならない。
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