
20代の頃は、実によく海外の翻訳小説を読んでいた。古典から、現代小説から、第三世界小説から、SFともとれる前衛小説まで。
けれども30代以降現在に至るまで、ミステリーやSFやファンタジーやホラー小説などのエンタテイメントを除けば、どういうわけかほとんど読んでいない。
ル・クレジオやマルグリット・デュラスやベルンハルト・シュリンクやガルシア・マルケスや・・・数え上げても十人ぐらいしか出てこない。
その少数の一人が、『悪童日記』三部作のアゴタ・クリフストフである。
1935年、ハンガリーの寒村で生まれた彼女は、21歳の時ソ連圧政下のハンガリーを逃れた。
21歳、夫と乳飲み子と共にオーストラリア経由でスイスに渡り、工場で働きながら、異国語であるフランス語を学んだ。
『悪童日記』が書かれるのは、実に亡命から30年後である。
双子の少年を設定し、「ぼくら」という文体で赤裸々に書かれたこの小説に僕は驚愕した。
その後三部作で、双子の少年は成長し、そのなかで僕たちは作家の亡命生活や、母国語ではなしに、フランス語で書かざるを得なかった事情を、ようやくのように読み取ることになる。
後に自伝を出したがそのタイトルは『文盲』である。
日本では、「亡命小説」というジャンルがもしあるとしても書かれるわけがないが、海外では「亡命」というのは文学や芸術の大きなセルモーターになることがある。
そして彼女の小説(自伝)にいつも見え隠れするのは、精神的あるいは身体的な障害である。
『悪童日記』は「欠損」や「不在」や「喪失」の側から世界を裸にしながら、そこからしか見えない世界の瞬間の美しさを切り取るような作品世界でもあった。
そこにもし「亡命小説」というものがあるとすれば、その本質が隠されているようにも思える・・・合掌!
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