国際アンデルセン賞を受賞したキャサリン・パターソンの同名ベストセラー児童小説を映画化。いじめられっ子の少年と風変わりな少女が空想の王国テラビシアを作り上げ、友情を育んでいく姿を描く。監督はアニメ界出身のガボア・クスポ。主人公の少年少女を『ザスーラ』のジョシュ・ハッチャーソンと『チャーリーとチョコレート工場』のアナソフィア・ロブが演じる。CG技術を駆使して描いた子どもたちの空想世界と、涙を誘う感動のストーリーが見どころ。[もっと詳しく]
引籠もりの場所としての、「テラビシア」という名の王国。
主人公の少年・少女は小学校5年生に設定されている。
学童期を抜け出す頃であり、身体的には第二次性徴期にあたり、心の領域で言えば前思春期(プレ・アドレッサンス)の時期だと見做される。
自分のことを振り返ってみてもいいが、学校で暮らす時間と、家で暮らす時間と、その時間そのものに、ほとんど記憶はない。
ある意味で、ボーとしていたようにも思う。
吃音であり、チック症があり、円形脱毛症などさまざまな身体的な表徴が押し寄せたことを思えば、対人恐怖も含めた関係障害を抱え込んでいたことは間違いない。
ときおり、そろばん学校に行くぐらいで、塾という空間もなかった少年にとって見れば、学校も家もどこか面白くない空間であったようだ。
そんな少年は、ひらすら飼い犬といっしょに何時間も外を歩き回っていた。
近くに城址があった。梶井基次郎の「城のある町にて」の舞台になった城址である。
夕暮れ時、グラウンド越しに街並みやその先のなだらかな山々が見晴らせる高台のベンチに座りながら、飽きずに空想したり、歌を口ずさんだりしていた。
あるいは旧い木造の図書館で、童話や図鑑を読み耽っていた。
ときどきは、二歳年上の少年と、ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」のハンス少年のように、世界の秘密を幼い知識で分け合ったりしていた。
そろばん学校の帰りに、好きだった少女のあとを所在無げに、つけまわしたりもしていた。
登校拒否にはならなかったが、自分なりの引籠もりであったのかもしれない。
ジェス(ジョシュ・ハッチャーソン)は学校でも家でも、開放されているようにはみえない。
家には、両親と年の離れたふたりの姉とまだ幼い学童期の妹がいる。
父や母に甘えたいのだが、どちらかというと愛情は妹に注がれているように見える。
父と母は、苦しい家計のやりくりに疲れと苛立ちがあるようだ。
学校ではいじめっこがいる。授業も息苦しい。
音楽の女性教師のエドマンズの型破りの授業だけが楽しみで、ほのかに恋心を抱いている。
ジェスは絵を描くことが得意である。
空想の創造物(クリーチャー)が画用紙にスケッチされる。
家の片隅で、ベッドの中で、ときには授業中に先生の目を盗んで・・・。
クリーチャーは、画用紙から抜け出て、動き始める。
ジェスは、その空想に「引籠もって」いる。
ある日、転校してきた少女がレスリー(アナソフィア・ロブ)。
いきなり駈けっこで、男子生徒を打ち負かしてしまうレスリーだが、読書好きな女の子で、詩的な文章を書くのもうまい。
家も隣にあり、ふたりはすぐ仲良しになる。
レスリーの両親は作家のようだ。
快活なレスリーだが、それまでの学校ではともだちがつくれなかったようだ。
ジェスとレスリーは通学バスを降りて、ふたりの森に行くようになる。
ある日、いつもの森のなかで川を見つける。
ターザンのように蔦を握って、向こう側に跳び移る。
「目を閉じて心の目を大きく開いて」とレスリー。
そこがふたりの「テラビシアの国」となる。
「テラビシアの国」とは、物語好きのレスリーと空想の絵を書くのがうまいジェスと、このふたりが生み出した想像の王国である。
ここでは、ふたりは王と王女だ。
ふたりはトゥリー・ハウスを拵え挙げて、この王国を脅かす敵と戦うことになる。
「テラビシアの国」は、ふたりの引籠もりの場所だといってもいい。
ここには他人を招くこともない。
王国を脅かす敵は、引籠もりの場所に侵入してくる存在、つまり大人の社会や教育的な価値規範やいじめっこやの暗喩である。
テラビシアに引籠もりながら、ふたりはプレ・アドレッサンスの微妙で難しい時期に、自分を確立していくことになる。
引籠もりの場所を確保することで、実生活でも自己同一性(アイデンティティ)を保持することが可能となっていく。
しかし、引籠もりの場所(テラビシア)の滞在に、別れを告げる時期はいずれは来る。
この物語では、レスリーの「事故死」という事件が契機となる。
ジェスはエドマンズ先生から美術館行きを誘われる。
レスリーの家の前を通る時、レスリーに秘密で出かけることに一瞬、気が咎める。
そして、愉しい時間が終わり、レスリーがひとりで、川に溺れて死んだことを告げられる。
ジェスは「自分のせいだ」と衝撃を受け、レスリーを呼び戻すために森を彷徨う。
そんなジェスを後を追いかけてきた父親が抱擁する。
どこかよそよそしかった父子がエロスを回復することになる。
そして、ジェスは「テラビシアの国」に寄せ付けなかった妹を、招く。
妹もまた、絵が好きな、空想の国の住人である。
「テラビシアの橋」、実生活と想像の王国をつなぐ架け橋を、妹を連れて渡るジェス。
「目を閉じて心の目を大きく開いて」とジェス。
妹の眼前に、王国が広がる。
ジェス自身の「引籠もり」は、帰還の時期を迎えている。
キャサリン・パターソンの1977年出版のベストセラー児童文学の映画化である。
息子であり少年のモデルともなっているデヴィッド・パターソンが、制作陣に加わっている。
キャサリン・パターソンは1932年生まれ、敬虔なキリスト教徒であり、宣教師でもあった。
しかし、この原作に、「子ども」を教育する、躾ける、鋳型にはめこむといった規範めいたものはほとんどみられない。
たぶん、どの時代のどの国のプレ・アドレッセンスの少年・少女たちにも、普遍的に映るであろう物語を提示している。
僕も、ふたたびその時代のことを思い出す。
たまたまのように自傷的にもならず、なんとかやり過して、次の思春期を迎えることができたように思う。
「引籠もれた」空間のおかげのように思える。
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教室でもなかなか居場所がなく、うちにこもりがちな子供も、表面上は明るくふるまって、いつもみんなの輪にいて、悩みなんかなんにもなさそう・・・と見えたも、実はみな居場所を求めて、心のうちは、引きこもってるのかも・・・などと言うことを考えました。
いつになっても、きつい世の中ですね。
このところ、「ひきこもり」についての本を何冊か読んでいるので、その観点でこの作品を、勝手に見ちゃっています(笑)
「ひきこもり」の観点からの解釈、なるほど、と思いました。
鑑賞者が思春期をどう送ったかで、
この作品も色々な深い解釈が出来そうですね。
謳い文句は「冒険アドベンチャー映画」なんですけどね。そういう愉しみ方もあるのかもしれませんけどね。