サーカスな日々

サーカスが好きだ。舞台もそうだが、楽屋裏の真剣な喧騒が好きだ。日常もまたサーカスでありその楽屋裏もまことに興味深い。

エンドー/遠藤幸雄(体操選手)/72歳

2009年03月26日 | 毎日がメメント・モリ

遠藤幸雄さん死去、体操ニッポンをけん引


3月26日9時53分配信 日刊スポーツ




 「体操ニッポン」の礎を築いた遠藤幸雄(えんどう・ゆきお)氏が25日午前4時16分、食道がんのため、東京・千代田区の駿河台日大病院で死去した。72歳だった。60年ローマ五輪で日本初の団体優勝、64年東京五輪では個人総合初の金メダルを日本にもたらすなど、五輪と世界選手権で金8、銀7、銅2の計17個のメダルを獲得。日本体操界をけん引した人生だった。故人の遺志で密葬され、後日、お別れの会が開かれる予定だ。
 遠藤氏は07年10月に食道がんの手術を受け、一時は回復に向かっていたが、昨年1月に緊急手術、同8月4日に入院後は闘病生活が続いていた。昨年末まで持てばといわれていたが「心臓が強く、さすが世界を制した方」と病院関係者を驚かせる生命力をみせたが、ついに力尽きた。
 秋田市の久保田中2年のときに周囲の勧めもあり、「かっこいいと思った」と、鉄棒の蹴上がりもできないのに体操を始めた。秋田工高では「将来の就職を考えて」と電気科を選択。そこで転機が訪れた。秋田出身の先輩・小野喬氏(56年メルボルン五輪鉄棒で日本体操初の金)の演技を見て感動。3年時に高校総体個人2位となり、東京教育大(現筑波大)に進学。卒業後、日大助手となって、60年ローマ五輪代表に選ばれ、日本初の団体総合優勝に貢献した。
 エースとして臨んだ64年東京五輪では日本初の個人総合優勝など金メダル3つを獲得。選手団の旗手を務めた68年メキシコ五輪では、若手をまとめて体操団体総合3連覇を達成した。五輪のメダルは金5、銀2。「体操ニッポン」の道筋をつくった。その後、日本体操協会専務理事(現顧問)や日本オリンピック委員会理事などの要職を歴任。日大(名誉教授)では後進の指導に熱心だった。96年紫綬褒章、昨年は旭日中授章を受章。99年には体操殿堂入りを果たした。
 「美」を追求した体操で世界を制した。「頭からつま先まで伸びること。体操は美しくないといけない」と常々話し、その思いは脈々と受け継がれている。鉄棒の「前方開脚浮腰回転倒立」は国際体操連盟が「エンドー」と命名、今もトップ選手が取り入れている。美しい「体操ニッポン」を築いた功労者が体操一筋の人生に幕を下ろした。


僕は逆上がりもろくにできなかった方だが、兄は器械体操がうまかった。
大車輪などもやっていたのを、ちょっと誇らしげな気持ちで見守っていた。
中学校や高校では、器械体操部ではなかったか。
子供の頃に、筋肉を使いすぎたせいもあるのかもしれないが、兄は僕より10cmほど身長が低い。

きっと兄の憧れのひとりが、遠藤幸雄であったのだろう。
ローマ、東京、メキシコと3つの五輪を経験して、体操日本の立役者となった。
「美しい体操」というのが、オリンピックの得点計算方法の変更によって、相対的に不利となっている。
でも日本の体操は、そのことを追い求め、そこに僕たちも、潔癖さのようなものを感じ、すがすがしい気分になってきたのも確かなことだ。
一本にこだわる日本柔道が「ジュードー」という世界基準に苦しめられてきたのと同じように。

遠藤幸雄は、早くに母親を亡くし、福祉施設で育ち、体操の道に出会い、才能を発揮した。
日本の高度成長の時代の、まじめでひたむきでしかし美を追い求める求道の精神の体現者であった。


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