けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

「論理的」ではなく「感情的」な議論しかできない国民性

2012-07-24 23:58:26 | 政治
先日のブログ「責任の所在を明確にできないなら、真実を隠せない環境を作るしかない!」の中で、福島第1原発の事故は日本文化に根ざした日本人の特殊性に起因して発生した事故であるとの外国の報道についてコメントしたが、実は最近になって、この日本文化の困った点をまざまざと見せ付けられた気がした。

7月23日の産経ニュースにて以下の記事があった。
『迷彩服を区民に見せるな』自衛隊の防災演習、東京の11の区が庁舎立ち入り拒否

実は、数日前にテレビでこの映像を見たとき、私は目を疑ってしまった。真の防災訓練のために自衛隊は、16日の夜から17日の未明にかけて、交通機関が麻痺したことを想定し、練馬駐屯地から各区役所に向けて徒歩で移動し、区役所からの通信訓練などを実施した。最も遠い区役所では、9時間も歩きづめの後に区役所にたどり着いた。そして幾つかの区役所に到着したときの映像として、区役所に多くの人たちが駆けつけていた映像が流れたため、私はてっきり「ご苦労さん!」と労をねぎらうために自然発生的に人が集まったのかと勘違いした。しかし、実際には迷彩服での庁舎への立ち入りを区役所側が拒否したのだと後から知った。当然、自衛隊側からは事前の訓練協力への要請をしていたが、11の区役所で立ち入りが拒否された。この時、私が思った言葉は「なんてこの人たちは幸せな人なんだろう?」である。もちろん、ここでの「幸せ」とは「おめでたい」とか「ノー天気」という言葉に置き換えられるものである。

思い返せば、まだ高校生の頃の私は、「日本に軍隊などなくても大丈夫、憲法9条を守り、長期的には世界に率先して自衛隊すらいらない平和国家を築くべき」といった潔癖症的な思いを胸にしていた。しかし、年をとるに従い、世の中は性善説では動かないことを知り、さらには「戦争のある世界」に対して「戦争のない世界」は歴史の中では非常に特殊であり、規模の大小はあるにせよ100年程度のスパンで見れば、どの国も戦争がない方がおかしいという現状を目の当たりにする。

しかし、どうも日本人の中には「平和と空気と水はタダ」と確信している「幸せな」人達がいて、些細なことにも「タダ」ではない何らかの代償を払うことにアレルギー反応を示している。少なくとも東日本大震災の後には、被害を受けた大多数の人々が、迷彩服を着た自衛隊の隊員に助けられた姿をテレビや新聞で目の当たりにしていたはずである。津波が押し寄せて泥だらけの廃墟の中で、犠牲者が何処かに埋もれていないかと、地道に隊員たちが探し回る姿も見ていたはずだ。米軍だって、(名前のセンスは知らないが)「トモダチ作戦」と称して、自衛隊ですら手をつけられなかった場所に駆けつけ、寒さで凍える被災者に救援物資を提供していた。軍隊(自衛隊)というのは確かに平和的な観点からは、なくて済めばこれに越したことはないが、実際にはそれがなかったら私たちの生活がもっと悲惨な状態に陥ることが避けられない存在なのであることを、我々は1年半前に思い知ったのである。にもかかわらず、災害時の訓練を行う自衛隊を許せないという区役所職員と市民とは「いったい何者か?」と思ってしまう。

同様のことはオスプレイ配備に関しても言える。先日から面白いことが起きている。政権与党の民主党内からは、例えば前原政調会長などがオスプレイの配備に後ろ向きな発言をしている。確かに、米軍の言われるがままの配備は厳禁であるが、森本防衛大臣は「我が方の独自の検証で安全が確認されるまで運用は認めない」という発言をしており、本来であればこの森本発言を忠実に実行するためのアシストをするのが政権与党の政調会長たる人の役割である。しかし、選挙のことを考えれば、現在の空気を読んで、配備に後ろ向きな発言をした方が得策なのである。実際、今週末には山口県での知事選があり、その選挙をこのオスプレイ問題が直撃している。しかし、相対する野党自民党の石破前政調会長は、自身のブログでもこのオスプレイ問題を取り上げると共に、テレビ番組に積極的に出演してオスプレイ配備の必要性と、安全の検証の重要性を訴えている。本来ならば政権の足を引っ張るのであれば、政府の行動の弁護ともとられかねないこの時期の発言は損なはずである。しかし、それでもその様な発言をせざるを得ないのは、彼の政治家としての良心に拠るところだろう。

私が今日のブログで言及している「日本の文化」とは、「論理的」な思考よりも「感情的」な思考を重視するという点である。この感情的な思考は、全体の中の都合の良い一部しか見ないで、都合の悪い見たくない部分にフィルターをかけるという、無責任な行動を誘発する。以前、英会話学校で英語ネイティブの人と雑談していたときに、面白いことを指摘されたことを覚えている。「論理的(Logical)」の反対語は何?と聞かれて、多くの日本人が「感情的(Emotional)」と答えた。答えは「非論理的(Illogical)」である。「なんだ、そんなことか・・・」と言われそうだが、感情的とは論理的とは全く軸を異にする概念であり、決して反対語ではない。しかし、日本人がこの様に強く誤解する背景には、特に日本人にとっては諸外国以上に、感情的になると論理的な思考が出来なくなるという特徴が強く備わっているというという事実があるのだと思う。そして、自民党の安部政権時代に「K・Y(空気が読めない)」という言葉が流行ったが、それは「感情」によって支配される「空気」というものを、日本人が非常に重要視するということを示しており、最近のオスプレイや原発問題においても、論理的な思考の重要性よりも感情的な思考の方が重要であるという風潮が強く表れている。

話は変わるが、昨日のTBSお昼の「ひるおび」で弁護士の八代さんが面白い発言をしていた。2000年当初、米国に在住していた八代さんは、事故を頻繁に引き起こすオスプレイに対し、米国内でも「未亡人製造機」という呼び名をつけて、配備に反対する動きが大きかったと記憶しているという。しかし、そんなオスプレイの配備に対する反対の声が、ある時に急に消えたのだという。そう、「9.11」である。短絡的に見れば危険なように見えるオスプレイも、テロとの戦いを意識した際に「それでも、配備しない方が本当に良いのか?」と自問自答し、「ベストな選択では決してないが、それでも敢えて選択せざるを得ない」とアメリカ国民は覚悟を決めたのである。それは、見方によっては「好戦的」な機運の高まりとも取れなくともないが、「リスク」と「メリット」という相反する基準に対し、どの様に折り合いをつけるべきかは、単に感情論で片付けられるものではなく、論理的な思考の結果として結論を得なければならないことを示したものだと私は理解した。

では、感情的な議論と論理的な議論の決定的な差は何であるか?それは議論の切り分けである。3段論法的な思考をするならば、細かい課題をひとつずつ切り分け、その課題ごとに地道に解決策を見出す努力をしなければならない。しかし、感情的な議論においては、何か目に付いた課題を問題の100%にすり替え、その課題だけを解決すれば全ての問題に対する答えが見つかったかのように思い込んでしまう。しかし、非常に複雑に絡まった事態を解決するためには、その絡まった糸を一本一本ほぐし、そのひとつひとつの切り分けられた課題に個別に取り組む地道さが求められる。しかし、その様な面倒な地道な行為は誰かの「感情」に訴えかけてもあまり心には響かない。心に響かないものは価値がないとなると、政治はますますポピュリズムの世界に走りこむ。最近の民主党の動きに、それが顕著に現れている。

日本人には難しいのかも知れないが、そろそろ成熟した「論理的な思考」を再評価する時代が来ても良いのではないかと思うのだが、中々そうはなりそうもない。

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