けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

責任の所在を明確にできないなら、真実を隠せない環境を作るしかない!

2012-07-18 23:57:24 | 政治
先日の国会事故調の報告書を受けて、海外メディアにおいても福島第一原発の事故に対する日本の総括の仕方についてコメントが載せられていた。私はその話をラジオで聞いたのだと思うが、「なるほど、そう来たか・・・」と感慨深く聞いていた。この件は日本の新聞の中でも話題になり、例えば以下の記事などでも読み取ることが出来る。

産経ニュース(7月8日)「『国民性が事故拡大』英各紙、国会事故調報告に苦言

特に着目すべきは最後の部分であり、6日付のタイムズ紙が、「過ちは日本が国全体で起こしたものではなく、個人が責任を負い、彼らの不作為が罰せられるべきものだ。集団で責任を負う文化では問題を乗り越えることはできない」だったと結論付けている。この点は色々と異論がある人もいるだろうが、非常に重要な視点であると思われる。

国会事故調の報告書の中に記載があるかは確認できていないが、今年の4月25日付の産経ニュースでこんなものがあった。

産経ニュース(4月25日)「(中)『寝た子起こすな』反対派封じ込め優先の中、失われた規制の意識

平成18年、国際原子力機関(IAEA)の安全基準の見直しに合わせ、防災対策の重点地域を、原発から半径10km圏内から30kmキロ圏内に拡大し、5km圏内は事故時に即時避難する区域とする見直しの検討を原子力安全委員会より依頼された原子力安全・保安院の広瀬研吉保安院長(当時)が、非公式の場ではあるが「寝た子起こすな」と反対したという。同様の国際的なシビアアクシデント対策の流れに沿った見直しを黙殺した例は数え切れない。本来は規制側の立場にある原子力安全・保安院は、新たな対策を認めるとこれまでの安全基準に不備が合ったことを認めることになるため、何事にも後ろ向きにならざるを得ない。今回の前電源喪失という事態は、この様な国際基準に立てば容易に問題であることが分かる初歩的な原因によるところが大きく、その意味で特に保安員の言動は万死に値すると言われてもいたしかたない無責任なものであった。しかし、誰もその責任を追及しないだろうし、仮に本気で責任を追及したくてもその責任を問う根拠となる法律も乏しいのが現実であろう。

同様に菅前総理が指揮命令系統をズタズタに切り裂き、不用意な発言や行動を乱発したことで多くの官僚、原子力安全委員会、原子力安全・保安院や東電幹部などが「指示待ち」状態になり、能動的に適切な対応が取れなくなった。周りに暴言を吐き、わめき散らし、責任の押し付けを繰り返すことで部下からの報告も上がらなくなり、一方で地下にある危機管理センタよりも快適な官邸5階に陣を構えたことで法的な根拠をもとに情報が集約される危機管理センタから自らの身を遠ざけ、盲目の状態で手探りの行動を繰り返した。日本国の責任を一手に背負わなければならない立場にありながら、人格上の問題で自らの身を律することが出来ず、その結果として被害を増大させるに至ったが、本人は罪の意識は全くなく、寧ろ自分のおかげで最悪の事態を免れたという都合のよいシナリオに酔っている。彼を裁きにかけたい人は多数いるだろうが、多分、この場合も法律で裁くことは困難であり、せいぜい証人喚問で厳しい責任追及を行い、偽証罪に問うぐらいが関の山だろう。

また、話は全く変わるのであるが、DIAMOND online(会員登録者限定)で最近特集が組まれている「大津波の惨事『大川小学校』〜揺らぐ“真実”〜」の中で、東日本大震災の大津波で児童及び教職員84名が亡くなった大川小学校で何が起きていたかを知りたい遺族と、真実をもみ消そうとする学校・教育委員会のやりとりが記されている。多分、生存者5名に対して死亡者84名というこの死亡率の高さを考えれば、学校側に落ち度があったのは否めない。補償問題などを回避したいなどの下心が背景にあるのであろうが、何処に問題があったのか、何故彼らは死んだのかを明らかにしてくれなければ残されたものは納得できない。その壁を乗り越えるためには、事実を事実として認めて振り返ることから始まる。有耶無耶にして逃げ切れるならどうか知らないが、これだけの死者を出して逃げ切れるわけがない。唯一生き残った教員にとっては辛いことであろうが、多分、遺族の追求から逃げ続けてこの後の人生で重い十字架を背負い続けるよりも、知り得ることを全て話し、心の重荷を下ろした方が彼にとっても救われるのだと思う。しかし、多数の子供から教育委員会が聞き取り調査したメモ(4名の担当者各自がメモを残していた)を一斉に廃棄して、ある子供が発言したことが明らかになっている都合の悪い真実を、報告書にも記さずに情報を隠蔽する有様は、大津のいじめ自殺事件の学校、教育委員会の姿に重なって見える。

これが「日本の文化」だと言うのは確かに正しいのであろう。少なくとも、大津のいじめ事件でも大川小の事故でも、当初は教育委員会は糾弾される側には身を置いておらず、ニュートラルな存在であったはずである。しかし、誰かの責任が問われると可哀想だとか変な同情心から、気がつくと自らも加害者側に身を置き、糾弾される側になってしまう。責められる人が多くなれば多くなるほど、ひとりひとりの責任が薄まり、当人からすれば「この程度の希薄な責任なら、まあいいか・・・」と軽い気持ちで引き受けてしまう。しかし、それは被害者の気持ちを踏みにじり、より事態を深刻なものにすることに加担していることを意味する。一定量の責任を分担して薄めるのではなく、例えば10人が結託することを負わなければならない責任の量を10倍以上に増幅し、結果として最初の加害者も元々の責任の量以上の責任を負うことになる。決して誰かを救ってなどいない。

最初の原子力安全・保安院の話でも、彼は電力会社を助けてあげようという気持ちから、結果的に電力会社を危機的な状況に陥れることに加担したことになる。しかし本人は多分、電力会社に申し訳ないという気持ちは殆ど持っていないのだと思う。原子力ムラ全体で背負うべき十字架のほんの一部ぐらいを背負っている認識はあっても、自分は単なる歯車の一部程度でしかなく、殆どネグれる程度の責任だと勘違いしているに違いない。

この様な現実を変えようとした場合、最初の一歩は何であろうか?いきなり「責任を追求する社会」に変えることなど、所詮、日本の文化にはそぐわないのだから不可能なのは目に見えている。であれば、責任を追求するかしないかは横に置いておいて、事実を事実として隠せない状況を確保するしかないのではないかと思う。具体的には、責任ある立場の人が何らかの行動を行うとき、ボイスレコーダーやビデオ映像など、記録に残すことを法的に義務付け、その記録が残っていないときには何らかのペナルティと共に、裁判においては不利に扱われても仕方がないとすればよい。裁判においては、通常は誰かの過失を追求する場合、追求する側に証明責任が負わされるが、疑うのに正当な理由がある場合、ボイスレコーダ等の記録がない場合には記録を残さなかった側に証明責任を課すというようにすればよい。例えば、病院においては手術や集中治療室などにおいては全てをビデオに残し、医療事故が起きた場合にはその映像を患者または第3者機関に公開する義務を追わせれば、責任逃れをすることよりも、責任を認めても早く両者が合意できる着地点を模索する方向でエネルギーを使うようになるのだと思う。

責任の所在を明らかにする常識は、一朝一夕には変わらない。そうせざるを得ない状況を整備することが、遠回りの様に見えて、実際には近道ではないかと感じている。

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