全く持って意味不明なタイトルだと思う。この関係を順番に説明したい。
まず、消えた年金問題はご存知の問題で、社会保険庁の杜撰な年金記録の管理のせいで、せっかく収めたはずの年金の記録が消え果て、貰えるはずの年金が貰えない人が多数生じる事態に陥り社会問題化した。今から思えば、第1次安倍内閣の崩壊はこの時から始まったと言って良い。その時、マスコミは大々的に時の政権与党を責めまくった。勿論、戦後の長きに渡って君臨した自民党政権がちゃんと管理できなかった結果責任は問われるべきであり、問題発覚時の時の責任者の安倍総理が当時のマスコミにボロ糞に叩かれたのは致し方ない。ただその時、消えた可能性のある年金をどの様に扱うべきかという点については議論が分かれるところであろう。例えば、年金記録と自分の経歴、記憶に乖離がある場合、その消えた年金の復活を希望する人は、基本的に自分が年金を納めたことを証明する責任が課されていた。例えば、給料の明細書を残していれば動かぬ証拠といえるのだが、しかしその様なものを捨てずに取っている人など殆どいないだろう。仕事を転々としていた人は、過去の年金の納付を証明してくれる証人を探そうにもそれだけでも大変で、多くの場合には証拠を見つけることができないことになる。そんな時、必ずしも証拠がなくとも、当時の状況をヒアリングするそれなりの担当者を定め、ヒアリングの際の答弁内容の辻褄が合っているか否かの判断を行い、それなりに妥当性があれば救済してあげようという流れがあった。しかし、場合によってはそれでも納めた年金を受け取れない人が出てくる可能性は大いにあり、マスコミの多くの人々は、「弱者救済」の名の下に自己申告を無条件で受付け、言われたままに記録を復活して上げるべきだという主張があった。その様な人々は、「我こそは弱者に寄り添う正義の味方」というアピールを出しまくり、社会的にはそれなりに評価されていた。勿論、その様な中には悪意を持って虚偽の申請をする人も確実にいるわけで、その様な人には税金を原資としてその人の生活を潤わせる無駄を強いられることになる。しかし、先の正義の味方を気取る人々は、「そんなの、国がちゃんと管理していないから悪いんであって、1人でも被害者が出る可能性があるなら拡大解釈して、被害者救済しなければいけない」と主張する。確かに、状況によってはその主張が正しい可能性は大いにあるが、その妥当性はもう少し議論されて然るべきである。
そこで、食材偽装のケースを例にケーススタディをしてみたい。某有名レストランで食材を偽装し、それがあるところで発覚したとする。そのレストランでは、「当レストランで食事をした人は希望に応じて全額返金する」と決定し、レシートなどの証拠を可能な限り提示することを求める一方、レシートを紛失した人にも返金は対応すると発表したとする。その返金開始の日の朝、店の前を見ると1000人を優に超える人々が並び、その中には浮浪者らしき人も多い。食事の金額を尋ねると、皆が2万円以上の食事をしたという。その日はひっきりなしに返金を求める人が並び続け、1日で5000人以上に対して合計で1億円以上の返金をしたとする。しかし、そのニュースを聞いて翌日には行列が倍に増え、1週間経っても返金を求める人が減ることがなかったとする。この状況を見て、流石に経営者が決断し「レシートがない人は返金しません」と方針を変更したとしよう。果たしてこの経営者の対応を責めることができるだろうか?
先の消えた年金問題では、申告者に対するヒアリングをある程度厳しくすることで、流石に悪戯に虚偽の申告をする人の気持ちを思いとどまらせることが出来るかも知れない。しかし、それは正直に申告する人にとっては「疑られている」という不快感を感じる元となる。弱者に寄り添うと自負する人々は、その様な不快感を与えることも許されるべきではなと言うだろうが、ではこのハードルを下げるとどうなるだろうか?その結果は先ほどのレストランのような事態にもなりかねない。つまり、弱者の立場に寄り添うのは良いが、それにも限度があるということを感覚的に示す一例になるのではないかと思う。
これは慰安婦問題や歴史問題についても同様である。韓国をはじめアジアの近隣諸国の中には、慰安婦となって非常に苦しく辛い思いをした被害者は多くいただろう。実際、日本ではアジア女性基金を作り、そのホームページでは被害者の苦しみを認定し、歴代の総理がそれらの人々に謝罪の手紙を送ると共に、民間で捻出した財源で賠償金を支払ったりしている。しかし、その様に賠償を行った人々が真の意味で日本政府が賠償し、総理が謝罪の手紙を送らなければならない相手であるか否かは厳しく審査などはしていない。言わば、自己申告を性善説にたって受け入れているわけである。しかし、南京大虐殺の被害者の数が当時の南京の人口を超える人数であるなど、仮に日本人が信じられないほど極悪非道で常識に照らしてあり得ないような残虐行為をしていても実現し得ないような被害者数を言われると、相手の言い値を聞くにも限界があると感じてしまう。慰安婦に関しては、貧しい農家の両親が、借金の肩や口減らしのために自分の娘を(韓国の)業者に売りつけて、そのせいで辛い思いをした人がいたとして、その責任を今の日本政府に求めても、それはお門違いとしか言いようがない。実際、自国申告の自称慰安婦を韓国側が精査したところ、いかにも胡散臭いことを言う人が多くて(心情的には全員を認定してやりたいと思っているはずの)韓国人ですら認定できなかった自称慰安婦は半数以上にも上る。その様なフィルタを通過した人ですら、聞き取りのたびに証言がころころ変わったり、信憑性という意味では疑問を感じる人も多い。しかし、河野談話を発表する前提となった聞き取り調査では、日本側の調査チームは慰安婦の方々に直接質問をすることも許されず、本人の言い分を一方的に聞かされるだけで、その信憑性を判断する材料すら与えられず、その中で「軍が強制関与したことを認めよ」と一方的に迫られ、結果として玉虫色の決着を見ることになった。それも、「今後はこれ以上の要求はしない、これが最後だ」という韓国側の口約束に乗せられてのことである。しかし、実際にはその後もその河野談話を「動かぬ証拠」として全世界に声高に糾弾するようになるのだから、言ってみれば日本政府は先ほどの何千、何万人もの虚偽の返金を求められるレストランのような状況である。
つまり、弱者に寄り添うのは良いが、明らかに膨大な似非「弱者」が存在することが明らかな状況で、何処まで弱者を尊重すべきかという問いに対し、「せめてレシートの提示ぐらいはして下さい」と求めているのが今の日本政府のスタンスである。しかし、(読売新聞ですら紙面上で「誤報」と非難するほどの)朝日新聞の慰安婦報道に対し、朝日新聞は「相手が真の『弱者』である可能性が否定できないのだから、無条件で『弱者』を救済するのが筋である」と主張し続けている。多分、慰安婦の人々が日本側の要請に応じ、(韓国人弁護士などの立会いの下でかまわないから)日本人主導の聞き取り調査をさせてくれていたならば、(本当に彼女らが真に日本政府から謝罪を受けるべき存在であるならば)その証明は比較的簡単に導けたはずである。少なくとも河野談話を発表した当時の首相官邸には、何とか慰安婦の強制連行を裏付ける証拠を得たいと思っていた人が少なからずいたのだから・・・。にもかかわらず、彼女たちを取り巻く弁護士たち(その多くは日本人であったりもするのだが)は「絶対に、何があってもレシートの提示に応じてはいけない」と慰安婦を洗脳し、事態は拗れたまま動かない状況である。
一見、弱者救済は正しそうな感じがするが、実際に置かれている状況はそんな単純ではない。少なくとも歩み寄りの精神を見せて貰わねば、正義の味方を気取る人達に賛同することは出来ない。どこかで「弱者」をすり替えているのではないかと感じるのは自然な感覚である。その様な複雑さが今の慰安婦問題、歴史問題には付きまとうのであり、これが解決の道を閉ざしている様な気がする。
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まず、消えた年金問題はご存知の問題で、社会保険庁の杜撰な年金記録の管理のせいで、せっかく収めたはずの年金の記録が消え果て、貰えるはずの年金が貰えない人が多数生じる事態に陥り社会問題化した。今から思えば、第1次安倍内閣の崩壊はこの時から始まったと言って良い。その時、マスコミは大々的に時の政権与党を責めまくった。勿論、戦後の長きに渡って君臨した自民党政権がちゃんと管理できなかった結果責任は問われるべきであり、問題発覚時の時の責任者の安倍総理が当時のマスコミにボロ糞に叩かれたのは致し方ない。ただその時、消えた可能性のある年金をどの様に扱うべきかという点については議論が分かれるところであろう。例えば、年金記録と自分の経歴、記憶に乖離がある場合、その消えた年金の復活を希望する人は、基本的に自分が年金を納めたことを証明する責任が課されていた。例えば、給料の明細書を残していれば動かぬ証拠といえるのだが、しかしその様なものを捨てずに取っている人など殆どいないだろう。仕事を転々としていた人は、過去の年金の納付を証明してくれる証人を探そうにもそれだけでも大変で、多くの場合には証拠を見つけることができないことになる。そんな時、必ずしも証拠がなくとも、当時の状況をヒアリングするそれなりの担当者を定め、ヒアリングの際の答弁内容の辻褄が合っているか否かの判断を行い、それなりに妥当性があれば救済してあげようという流れがあった。しかし、場合によってはそれでも納めた年金を受け取れない人が出てくる可能性は大いにあり、マスコミの多くの人々は、「弱者救済」の名の下に自己申告を無条件で受付け、言われたままに記録を復活して上げるべきだという主張があった。その様な人々は、「我こそは弱者に寄り添う正義の味方」というアピールを出しまくり、社会的にはそれなりに評価されていた。勿論、その様な中には悪意を持って虚偽の申請をする人も確実にいるわけで、その様な人には税金を原資としてその人の生活を潤わせる無駄を強いられることになる。しかし、先の正義の味方を気取る人々は、「そんなの、国がちゃんと管理していないから悪いんであって、1人でも被害者が出る可能性があるなら拡大解釈して、被害者救済しなければいけない」と主張する。確かに、状況によってはその主張が正しい可能性は大いにあるが、その妥当性はもう少し議論されて然るべきである。
そこで、食材偽装のケースを例にケーススタディをしてみたい。某有名レストランで食材を偽装し、それがあるところで発覚したとする。そのレストランでは、「当レストランで食事をした人は希望に応じて全額返金する」と決定し、レシートなどの証拠を可能な限り提示することを求める一方、レシートを紛失した人にも返金は対応すると発表したとする。その返金開始の日の朝、店の前を見ると1000人を優に超える人々が並び、その中には浮浪者らしき人も多い。食事の金額を尋ねると、皆が2万円以上の食事をしたという。その日はひっきりなしに返金を求める人が並び続け、1日で5000人以上に対して合計で1億円以上の返金をしたとする。しかし、そのニュースを聞いて翌日には行列が倍に増え、1週間経っても返金を求める人が減ることがなかったとする。この状況を見て、流石に経営者が決断し「レシートがない人は返金しません」と方針を変更したとしよう。果たしてこの経営者の対応を責めることができるだろうか?
先の消えた年金問題では、申告者に対するヒアリングをある程度厳しくすることで、流石に悪戯に虚偽の申告をする人の気持ちを思いとどまらせることが出来るかも知れない。しかし、それは正直に申告する人にとっては「疑られている」という不快感を感じる元となる。弱者に寄り添うと自負する人々は、その様な不快感を与えることも許されるべきではなと言うだろうが、ではこのハードルを下げるとどうなるだろうか?その結果は先ほどのレストランのような事態にもなりかねない。つまり、弱者の立場に寄り添うのは良いが、それにも限度があるということを感覚的に示す一例になるのではないかと思う。
これは慰安婦問題や歴史問題についても同様である。韓国をはじめアジアの近隣諸国の中には、慰安婦となって非常に苦しく辛い思いをした被害者は多くいただろう。実際、日本ではアジア女性基金を作り、そのホームページでは被害者の苦しみを認定し、歴代の総理がそれらの人々に謝罪の手紙を送ると共に、民間で捻出した財源で賠償金を支払ったりしている。しかし、その様に賠償を行った人々が真の意味で日本政府が賠償し、総理が謝罪の手紙を送らなければならない相手であるか否かは厳しく審査などはしていない。言わば、自己申告を性善説にたって受け入れているわけである。しかし、南京大虐殺の被害者の数が当時の南京の人口を超える人数であるなど、仮に日本人が信じられないほど極悪非道で常識に照らしてあり得ないような残虐行為をしていても実現し得ないような被害者数を言われると、相手の言い値を聞くにも限界があると感じてしまう。慰安婦に関しては、貧しい農家の両親が、借金の肩や口減らしのために自分の娘を(韓国の)業者に売りつけて、そのせいで辛い思いをした人がいたとして、その責任を今の日本政府に求めても、それはお門違いとしか言いようがない。実際、自国申告の自称慰安婦を韓国側が精査したところ、いかにも胡散臭いことを言う人が多くて(心情的には全員を認定してやりたいと思っているはずの)韓国人ですら認定できなかった自称慰安婦は半数以上にも上る。その様なフィルタを通過した人ですら、聞き取りのたびに証言がころころ変わったり、信憑性という意味では疑問を感じる人も多い。しかし、河野談話を発表する前提となった聞き取り調査では、日本側の調査チームは慰安婦の方々に直接質問をすることも許されず、本人の言い分を一方的に聞かされるだけで、その信憑性を判断する材料すら与えられず、その中で「軍が強制関与したことを認めよ」と一方的に迫られ、結果として玉虫色の決着を見ることになった。それも、「今後はこれ以上の要求はしない、これが最後だ」という韓国側の口約束に乗せられてのことである。しかし、実際にはその後もその河野談話を「動かぬ証拠」として全世界に声高に糾弾するようになるのだから、言ってみれば日本政府は先ほどの何千、何万人もの虚偽の返金を求められるレストランのような状況である。
つまり、弱者に寄り添うのは良いが、明らかに膨大な似非「弱者」が存在することが明らかな状況で、何処まで弱者を尊重すべきかという問いに対し、「せめてレシートの提示ぐらいはして下さい」と求めているのが今の日本政府のスタンスである。しかし、(読売新聞ですら紙面上で「誤報」と非難するほどの)朝日新聞の慰安婦報道に対し、朝日新聞は「相手が真の『弱者』である可能性が否定できないのだから、無条件で『弱者』を救済するのが筋である」と主張し続けている。多分、慰安婦の人々が日本側の要請に応じ、(韓国人弁護士などの立会いの下でかまわないから)日本人主導の聞き取り調査をさせてくれていたならば、(本当に彼女らが真に日本政府から謝罪を受けるべき存在であるならば)その証明は比較的簡単に導けたはずである。少なくとも河野談話を発表した当時の首相官邸には、何とか慰安婦の強制連行を裏付ける証拠を得たいと思っていた人が少なからずいたのだから・・・。にもかかわらず、彼女たちを取り巻く弁護士たち(その多くは日本人であったりもするのだが)は「絶対に、何があってもレシートの提示に応じてはいけない」と慰安婦を洗脳し、事態は拗れたまま動かない状況である。
一見、弱者救済は正しそうな感じがするが、実際に置かれている状況はそんな単純ではない。少なくとも歩み寄りの精神を見せて貰わねば、正義の味方を気取る人達に賛同することは出来ない。どこかで「弱者」をすり替えているのではないかと感じるのは自然な感覚である。その様な複雑さが今の慰安婦問題、歴史問題には付きまとうのであり、これが解決の道を閉ざしている様な気がする。
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