けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

都合の良い似非「弱者」のレッテル張りはもう止めよう!

2014-01-27 23:48:21 | 政治
今日はちょっと視点を変えてブログを書いてみたい。まず、下記に幾つかの項目を列挙してみた。これらに一通り目を通していただきたい。

・消費税増税
・TPP参加
・特定機密保護法
・アベノミクス推進
・集団的自衛権容認
・法人税減税
・規制緩和(自由競争経済)
・雇用における金銭解雇ルール導入
・普天間飛行場への辺野古移転
・安全が確保された原発の再稼動
・尖閣諸島棚上げ拒否
・河野談話の見直し
・憲法改正(96条)
・憲法改正(9条)
・慰安婦問題における軍の強制関与の否定
・総理の靖国参拝
・外国人の参政権
・オスプレイ配備
・軍事予算の増額(微増)

各項目は、個別には微妙に相関を持つ議題もあるが、その多くは独立した議題であり、それぞれに対して賛成ないしは肯定(積極)的か、又は反対ないしは否定(消極)的かを議論できる項目である。しかし、にもかかわらず、世の中の大半の人(多分、大雑把な見積もりで7割程度)は「ほぼ全て賛成/肯定」か「ほぼ全て反対/否定」かに分かれる様に思う。本来であれば、そのひとつひとつが是々非々で議論されてしかるべきなのに、にもかかわらず多分、それだけの偏りを見せるにはそれなりの理由があるはずである。

では、上記の項目に「ほぼ全て反対/否定」という判断をする人の共通項は何処にあるのだろうか?それはひとつには、回答者が「(その設定が妥当か否かは別として)個人的に設定した『弱者』に寄り添う立場に立ちたいという視点で回答する場合」が考えられる。その他にも考えられる説明はあり、「政府の行うことは全て悪であり、反体制的な行動こそ国を正しい方向に導くという政治志向の場合」にも同様の結論に至るだろう。ふたつの立場は全く別の立場の様にも見えるが、しかしあながちそうとも言い切れないところがある。例えば消費税増税を例に取れば、小さな政府を目指して個人は自助努力で問題解決を目指すべきという立場に立てば消費税など増税する必要は無いのだが、民主党が掲げたばら撒きのポピュリズム政策に多くの国民が踊ったように、少なくとも半数以上の国民は潜在的に大きな政府ないしは中ぐらいの政府で、今以上の社会保障制度の充実、経済的な援助・保護などを求めているはずである。であれば、(タイミング的に今かもう少し先かの議論を除けば)この消費税の増税に反対するのは筋違いとなるはずである。

しかし、例えば典型的な共産党、社民党などの考え方がそうであるように、法人税などを増税してお金のあるところから積極的に税を徴収し、社会的な弱者である一般人には寧ろ減税すべきという考え方をする人がいる。これらの人々は、企業は「強者」、一般国民は「弱者」であり、弱者の保護のためには強者の側がどこまでも大きく譲歩すべきだという原則を頭に描いている。しかし、企業を強者として否定するなら共産主義社会を標榜すべきであるが、今の社民党や共産党ですら、純粋な共産主義社会など望んではいない。乱暴な言い方をさせて頂けば、「強者」と「弱者」のレッテル張りの部分をつまみ食いし、世の中での善悪の議論を短絡的なイメージ論争に繋げようとする、議論のすり替えを行っているに近い。これは、世の中で起きている出来事に対し、誰かが痛みを引き受けなければならないのであれば、それは自分たちから一番遠い存在の人々が良いだろう・・・という発想であり、議論の母集団が一般国民であれば、一番遠い存在とは富裕層であったり大企業の経営層であったりするので、多くの国民の賛同を得易いというものである。

しかし、この様な考え方はその様な痛みを強いる対象の人達が、無限にその痛みを感受し、何処までも譲歩して決して反逆などしてこないという前提の上で成り立つ話である。法人税などを例に取れば、単純に税率が高ければ資本主義社会ではより税率の低いところに生産拠点を移すことを考える。現在は、日本企業は日本国のために可能な限り生産の拠点を日本国内に残し、少しでも日本国内に雇用を生み出そうと考えるが、それにも限度がある。余りにも海外と日本との法人税に格差があれば、景気次第では海外に逃げ出さないわけには行かなくなる。それは明らかに、弱者である日本国民にとっても不幸な事態であり、国民の生活をより厳しい状況に追いやることになる。法律でも作って日本企業が海外に出れないようにすれば別だが、それは資本主義社会とは全く異なる社会であり、日本国民がその様なものを望むとは思えない。であれば、レッテルを貼られた「強者」自体も状況に応じて「弱者」となり得るわけで、その様な「弱者」に全ての皺寄せを強いるやり方は全くもって間違っている。

つまり、「誰かが痛みを引き受けなければならないのであれば、それは自分たちから一番遠い存在の人々が良いだろう」という発想を改め、誰もが公平なルールの上での自由意志で経済活動を行いながら、バランス良く誰かに皺寄せを押し付けるのではなく、結果的により多くの人々がハッピーになる選択肢を模索しなければならない。この、当初「皺寄せを押し付けても良い」と考えていた対象は上記の例では「企業」を例としてあげたが、その他の事例(上述の議題)を見比べれば、その皺寄せを押し付ける対象は「国家」とか「日本政府」であったりする。その様な読み替えを適宜行えば、上述の議題で「ほぼ全て反対/否定」となる人の思考は概ね理解できる。

一方、逆に「ほぼ全て賛成/肯定」となる人々については、その思考の判断基準には概ね「国益」というものが据えられて、国益を最大化すれば国民の利益も(期待値としては)最大化されるという仮定の下で議論がなされている。ただ、注意しなければならないのはその「国益」なるものも、「短期的な視点」からの国益か「長期的な視点」からの国益かで結果は変わりうる。典型的な例は、先日のブログでも「瞬間最大風速的な逆風」を短期的な視点で過大評価するか、それとも長期的な視点での「平均風速としての逆風」で評価するかで、評価結果が180度変わりうるように、一言で国益と言っても実際には奥が深い。様々なシナリオが存在する中でその一つ一つを吟味し、その中で最も可能性・信頼性の高いシナリオに基づいて国益を判断しなければ、本当の意味での国益につながるかは怪しい。

だから、上述の議題で「ほぼ全て賛成/肯定」とするのが健全だとは思わないが、その健全性を適切に評価するためには、「強者」と「弱者」のレッテル張りにより議論を直感的且つ短絡的にしようとする行為に警鐘を鳴らし、その議論の危険さを声高に指摘して是正を図らねばならない。

変な例えだが、ひとつの例がここにある。

朝鮮日報2014年1月21日「韓国系高齢者を追い出した米マクドナルドが公式謝罪

米国ニューヨークのコリアンタウンのマクドナルドで、韓国系の高齢者たちが店内に長時間居座っているとして、店側が警察に通報し、高齢者たちを店外に追いやった。しかし、韓国人の居住密度が非常に高い地域であるがために在米韓国人社会は「差別」だとして反発し、マクドナルドに対する不買運動の計画などをぶつけて、結果的にマクドナルド側が全面謝罪し、マネージャを後退させると共に韓国系従業員1人を追加で採用する約束までしたという。他の韓国系以外のメディアでは、事実を伝えると共に韓国系社会に冷ややかなニュアンスで伝えているが、朝鮮日報などは勝ち誇ったかのような扱いである。

これは、アメリカ国内で韓国系の高齢者の住民が自らに「弱者」のレッテルを張り、強硬な主張によりアメリカ社会で「我侭な権利を獲得」した例である。ここではアメリカ社会は韓国系住民の我侭に屈した様に示されているが、彼らはいつか必ずしっぺ返しを食らう時機が来るはずである。同様のことは色々ある。地球温暖化問題やPM2.5などで中国に対する世界の風当たりは強いが、肝心の中国は「我々は発展途上国という弱者だから、国際社会は最大限の配慮をして然るべき」と開き直る。しかし、多くの国々はその様な「弱者」のレッテル針にはウンザリしており、やはりどこかでしっぺ返しを食うのは目に見えている。

今の日本のマスメディアは、いつの間にかこの韓国系の高齢者の住民の様な存在に「弱者」というレッテルを張り、自らを優位な立場に置くことに酔っているように見えてならない。多くの場合において、既に彼らは適正な判断ができなくなっているのではないか?

そろそろ日本国民は、真の意味での「弱者」とは何かを問い直してみる時期ではないかと思った。特に日本のマスメディアにそれを求めたい。

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