けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

時を経て権力の判断の是非を問うなら自らの襟も正すべきだ!

2013-11-19 21:55:30 | 政治
現在、特定秘密保護法案の審議が進んでいる。私のスタンスは、特定秘密保護法案の必要性を支持する一方で、後世の歴史家による「時の権力者の判断の是非」を問うメカニズムを担保するべきだと考えている。その意味で30年後の原則公開と、例外指定する場合ハードルの設定は重要である。ただ、今回はその辺のメカニズムのあるべき姿は横において、今日は特定秘密保護法案を肴にして異なる視点で「時の権力者の判断の是非」の後世の評価の重要性を議論してみたい。

現在話題の秘密保護法案の中では「知る権利」の担保が議論の中心にある。言うまでもなく「知る権利」とは国家権力を監視する機能を担保するための権利であり、「思想信条の自由」「表現の自由」など、一般国民と共に報道関係者に対する権利が保証されている。これは民主主義の根幹にかかわる部分であり、良い政治家を当選させ、悪い政治家を落選させることで国民の意図の通りに政治を動かすためのツールである選挙制度とリンクさせられて機能するものである。だから、時の政権が道を踏み外そうとした時、その事実を把握するための「知る権利」は極めて重要であることは議論の余地はない。それはその通りである。

しかし、これまた多くの人の同意が得られると思うが、現在は民主主義の根幹である選挙制度は十分機能しているとは言い難い。ポピュリズムに駆られた大キャンペーンを行い、その結果として当選するのに必要な人数の支持が得られれば、その人は大多数の人が「この人は政治家として不適格」と思って入れも、その当選を阻止することは出来ない。マイナス票という票がない以上は、例えば参院選などのように複数人数区であれば当選の確率は避けられない。勿論、衆院選であれば良いかといえばそうでもなく、小選挙区という限られたエリアで評価されてしまえば、全国的には不適格者と評価されてもやはり当選しうる。比例代表制に至っては、その政党の名簿順位によっては、得票数に関係なく楽勝で当選することもあり得るのである。だからこそ、選挙制度は定期的に見直しが行われている。

この様に、選挙制度というものが不完全で、理想的な政治の実現のためのツールとして不十分であるのは我々も知っているのだが、これはジャーナリズムにしても同様のことが言える。10日ほど前のブログ「韓国メディアが韓国を戦争に導く兆候を示し始めた・・・」の中でも引用させて頂いたが、池田信夫氏の下記の記事にあるように、ジャーナリズムの良心というものも余り過剰に信頼してはいけないのである。

アゴラ 2013年10月25日「検閲より商売 - 『そして、メディアは日本を戦争に導いた』

この記事にあるように、第2次大戦中に朝日新聞系の新聞社は「戦争をあおればあおるだけ売れる」という判断から、思いっきり好戦的な論調を繰り広げた。つまり、ジャーナリズムが持つ権力というものが商業主義に走る時、国家権力のもつ危うさと同様の危険が付きまとうのだが、その危うさに対する自覚というものが今のジャーナリズムには感じられない。勿論、ジャーナリズムに対して検閲的な監視メカニズムを組み込むことは政府の監視機能を弱体化するから危険であるが、あまり既得権益的に特別扱いしている現状がそれで良いのかといえばはなはだ疑問である。

例えば、ヨーロッパなどの消費税率が20%を越えるような国では軽減税率として新聞などを非課税にしている例が多いが、これなどは権力を傘に着て乱用した結果の過剰優遇ではないかと思う。もちろん、そこまでして正しい行動を行っているのであれば納得もできるが、「正しい」という概念は絶対的なものではないから、それをいいことに偏った報道をしても開き直ることができる。朝日新聞の慰安婦報道などは、読売新聞をして「誤報を誤報として朝日新聞は認めるべきだ」などと責められるほどだから、朝日新聞にもこの現実に正面から向き合っていただき、自分なりの総括をちゃんとして欲しいものだが、朝日新聞はこの問題を黙殺して正面から向き合おうとはしない。また、安倍総理の発言を捉まえて「右傾化も甚だしい」と批判の声を上げるが、その100倍以上に右傾化が激しい中国や韓国の右傾化の報道などは殆どなされない。その際たるものはヘイトスピーチ報道であり、両者、どっちもどっちの双方が偏った集団だと思うが、新聞やテレビの報道では一方のみを批判的に取り扱う。さらには、そのヘイトスピーチの100倍以上過激な本国での超ヘイトスピーチ問題はスルーして報じない。私のブログで腐るほど指摘している「事実」と「真実」の違いをジャーナリズムを自負する人には意識して欲しいのだが、事実を恣意的に捻じ曲げて報道しながら「事実なのに、何が悪い!」と開き直るのでは人々を幸せには導かない。それが世界標準なら良いが、世界標準から極端に乖離した日本人の美徳は、世界に出ると逆効果なのである。

日本人の美徳として、「他人のことは他人に任せ、まずは自分を厳しく律しましょう」という考えに基づき、韓国や中国の横暴を暴露せずに日本の些細な発言や問題を過剰に騒ぎまくる。その分かり易い例は、例えば日本の歴史教科書の検定制度に関連し、日本は周辺諸国条項で近隣諸国の国民感情に配慮することにしているが、中国、韓国には日本に対する配慮などありえない。中国、韓国が不適切な記述を自国の教科書に記述しても、それを日本は相手国に是正させる術を持たない。一方で中国・韓国は、近隣諸国条項を盾に世界に「日本、けしからん!」と発信してそれが力技で反映されたりする。しかし、この不平等な関係が日本の教科書問題の報道で指摘されることは稀である。

また、この様な問題は報道機関に限ったことではなく、有名な言論人の中にも誤った情報を発信して責任を取らない輩も多い。その最たるものは、ノーベル賞までとった某作家であろう。今から50年ほど前、戦時中に日本に渡った在日朝鮮人の帰還事業が行われていた際、北朝鮮のことを「地上の楽園」と持ち上げて多くの若者を地獄に導くことに手を貸した人が、その言論活動の総括を行っていない。最近では反原発を気取っているが、どうも中国が核実験に成功するとそれを賞賛していたとも言う。このような人が平和や安全を平気で語り、それをノーベル賞の権威の威を借りて囃し立てる。

頭に血が上った当事者が、リアルタイムで適切な判断を下せないのは良く分かる。機密保護法の秘密を指定する側が、当事者として適切に開示できないリスクも良く分かる。30年もの時を経て、それでも時の権力者が適切に情報開示できない可能性を指摘するのはご尤もだと思うが、それを指摘するのであれば、危険な権力を持つ自分たちが行ってきた権力の行使が適切であったのかを、自分達の手で検証する評価機関を作って欲しいと私は強く思う。そこには国家など関与せず、報道機関が自主的なルールを作り、そのルールの上で議論を戦わせれば良い。つまり、自分たちが過去に行ってきた報道の是非を、有識者や各社の責任者を交えて、毎年、10年以上経過した案件の報道に対する総括を行う制度を導入してみては如何かと思う。もう既に何十年も経過した話題もあるから、最初のうちは10年以上前の記事を重点的に総括することになる。その中では、当然ながら朝日新聞の慰安婦報道なども取り上げて頂きたい。北朝鮮の拉致被害者の救済を求める政府の声に、捏造だでっち上げだと批判的だった人々に対しても、その総括をして頂きたい。

特定秘密保護法案の秘密の公開は、その時の政治判断の是非を検証するために行われる。であれば、商売のために言論を捻じ曲げた人々は、同様にその判断の是非を評価されてしかるべきである。それは機密でも何でもないから、10年ほどの年月を経れば冷静にもなれるであろう。ジャーナリストは、自らの権力をもう少し謙虚に見つめ直して頂きたい。言論の自由は「既得権益」だと開き直らないで欲しいのである。

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