今日は、小泉元総理の投げかけた脱原発問題の本質を考え直してみたい。
ではあるが、まずは本題とは関係ないところから書かせて頂く。先日のブログ「対立軸を単純化することの重要性」の中で触れた、某参議院議員の行動について、直訴行動を行った本人が理解できていない「天皇の政治利用」について簡単に整理したい。これは、先日、帰りがけの車の中でFMラジオで聞いた内容の受け売りなのだが、多分、憲法学者や法曹関係者などからすれば常識の話だと思う。言葉の意味がはっきりしないのは「天皇の政治利用」の意味で、某議員もこの「天皇の政治利用」を非常に限定的な「狭義」の意味で捉えようとするから「マスコミが騒ぐから政治利用になってしまう」と逆切れする訳で、この「天皇の政治利用」の意味を理解すれば、「確かに政治利用ですね・・・」と認めざるを得ないはずである。
では、ここでの「政治」とは何かであるが、別にドロドロとした権力闘争の真っただ中の「政治」ではなく、私なりにかみ砕いて説明すれば、「多くの人の中で意見の対立がありうる問題に対し、その中立性を破る行為」が「政治(活動)」と解釈(広義の「政治」)されるべきである。つまり、反原発色を前面に出して、原発事故による被害をことさら強調した手紙を渡すならば、それを天皇陛下が受け取ると「(その政治的スタンスに)同調」したことになるし、受け取らないと「拒否(非同調)」したことになる。だから、天皇陛下がその手紙を読んだか読まなかったか、ないしは読んでどの様に思ったかなどというレベルの問題ではない。多分、手紙を手渡すに当たり何らかの意図を喋っていることを考慮すれば、手紙を受け取った時点で天皇の政治活動が成立してしまうことになる。ここで憲法違反をしたのが誰かと考えれば憲法違反者は某議員ではなく、「天皇陛下が憲法違反をしたことになる」ということが重要である。つまり、彼の行動は自分の問題ではなく、天皇陛下に「憲法違反行為」を強いる行動であったのが問題である。ついでに言えば、天皇にこの手の請願を行う際のルールを定めた「請願法」というものが存在し、明文化されたこちらの法律にも違反している。こちらは憲法解釈とかの難しい話ではなく、素人の私が読んでも彼の行動がこの法律に違反していると理解できるほど明らかだ。しかし、「請願法」には罰則規定がなされておらず、その意味ではその懲罰を直接的に彼に与えることは出来ない。多分、国会で議員辞職勧告がなされるなら、それは「天皇への非礼」を咎めるのではなく、この「請願法」行為を根拠に辞職を迫るのではないかと思う。この様に、「請願法」違反により天皇陛下に「憲法違反行為」を強いる行為が国会議員にあるまじき行為というのである。非礼さではなく、純粋に法律論で議論すべきである。
とまあ、余談が長くなてしまったが以下が本題である。小泉元総理の脱原発論であるが、世間の反原発派の人達は大喜びである。以前は諸悪の根源と避難轟々であたのが、今では神様・仏様・小泉様とばかりに引っ張りだこである。しかし、ではこの小泉元総理の脱原発論がラディカルで攻撃的な脱原発論かと言えば、これらの明らかに時代の流れから取り残された過去の政治家との会談などは行っているが、これらの勢力の結集を目指す旗印には決してなろうとしていない。あくまでも安倍総理に何らかのメッセージを送り続けている感じである。しかも、今後3年近くは国政選挙が行われないことを意識して、このタイミングを選んだとしか読めない抜群のタイミングである。
ただ、小泉元総理のメッセージの中心は、あくまでも「トイレのないマンション論争」に終始する。論理的な思考をする場合には、感情論ではなく、この問題の本質に注意しなければならない。そのポイントは、「トイレのないマンション論争」と「脱原発」は非常に特殊な関係になっているという点である。もう少し具体的に整理すると下記の様になる。
(1)使用済み核燃料の最終処分場がないという「トイレのないマンション論争」は、現在の原発を即座に停止して全てを廃炉にしても、この問題の解決には1ミリも繋がらない。言い換えれば、糞尿がマンションの1室に溢れた状態で、これ以上糞尿を垂れ流さないように断食・断水をしても、現在溜まっている糞尿は溜まったままなので、その匂いや衛生上の問題は何も解決していないということである。したがって、「脱原発」はこの問題の解決のための手段ではなく、時間稼ぎの手段でしかない。
(2)「トイレのないマンション論争」を解決する最終処分場を見つけ出すことが出来たとすると、マンションの一室の糞尿を処分することが可能なので、その時点で断食を止めて食べ物を食べて新たな糞尿を生産しても問題ないということになる。つまり、最終処分場を見つけ出すと、小泉元総理の「脱原発」の根拠が無くなり、原発再稼働を正当化することに繋がり得るということである。
(3)脱原発派の主張では、「最終処分場では使用済み核燃料を10万年保管する必要があるが、この様な長期に渡り安全であると断言できる地層など存在しない」というスタンスなので、この様な強硬派の主張を取り入れれば永久に「トイレのないマンション論争」は解決しないことになる。
というところであろうか。私もこの10万年という期間は非現実的であるという声には同調する。少なくとも、3.11の津波による福島第一原発の被害を予見できなかった国で、10万年先を見越すということは明らかに非現実的である。だとすれば、ではどの様な選択肢が残されているのか?私は、この問題の解決策を下記の3つしか思い浮かばない。
(1)日本の様な地震大国とは別に、安定した地層を持つ外国に高いお金を払って、地層処分を委託する。
(2)日本国内の比較的安全性の高い地層を探し、国権を発動して強制的にそこを最終処分場として処分する。
(3)高速増殖炉の技術を確立し、核燃料リサイクルにより毒性の高い核種であるウランなどを300年程度燃焼しきって無毒化する(無毒化したものを地層処分)。
というところか。この(3)に関しては、私は素人であるが、水の様に中性子などの遮蔽効果の高い減速材を用いる代わりに金属ナトリウムなどの材料を用い、放射性物質の核子の遷移をコントロールし、通常の原発ではウラン燃料の0.7%程度しか利用できていないところを、使用済み燃料内の99.3%のウランを高速炉内でプルトニウムなどの別の核子に変換し、それをもとに発電を繰り返す核燃料リサイクルを目指すものである。細かな理屈は分からないが、同一の燃料を100年間程度使いまわすと、燃料物質の放射線に伴う毒性は300年程度で天然のウラン並みに下げられるということらしい。多少は眉唾的な話だが、当初はこの様な目論見をもとに、「トイレのないマンション」を容認したのだと思う。
さて話を戻して、以上の選択肢を単純に考えて、常識ある政治家が(2)を選ぶことが出来る訳がない。こんなことをしたら、政権は1発で吹っ飛ぶのは目に見えている。しかし、(1)を受け入れる国があるとは思えないし、仮にあったとしても、それはそのリスクをリスクとして受け止めるのではなく、単なる外貨稼ぎが目的なのは目に見えているから、その処分場の管理がずさんで事故を起こす可能性も否定できない。その様なリスクを承知で貧しい国に核のゴミを丸投げすることを世界が許容するとは思えない。この様に考えると、選択肢は世界的な合意の上で(1)を選択し、世界の英知で保管管理を行うことを前提に、受入国を探してその国に膨大なお金を払って最終処分を行うか、(3)の高速増殖炉の実現を再度目指すかのいずれかである。
勿論、(3)の技術が相当厳しいのは理解している。金属ナトリウムの管理の難しさは予想を遥かに超えたもので、原発がこれまでに何百基も実用化されている一方で、高速増殖炉の実用化は世界中で何処も成功していない。実用化途中の事故も絶えず起こり、それも一歩間違えば福島第1原発並みの事故につながりかねないことも把握している。しかし、我々が取り得る選択肢は現実には限られていて、多分、この(3)が成立しない限りは永遠に使用済み核燃料のリスクを抱えたままで生きることになる。だとすれば、直接的な実験炉による研究以前の問題として、金属ナトリウムの制御を如何にして行うかなど、初期検討から順番にやり直すという選択肢も残されているはずである。以前ならともかく、今ならスーパーコンピュータなども駆使して、高速増殖炉内の金属ナトリウムが様々な構造物に与える影響(例えば温度計や配管やその接合部などを含めて、どの様な負荷がかかり運用に伴う疲労がどの様になるかなどを含む)のシミュレーションをより高精度で実現することも可能になっているはずである。その評価のやり直しには膨大なお金がかかるので、短絡的には既に実験炉が出来てしまっているから実験炉で検証すべきと考えがちだが、これまでの事故が如何に危険度として無視できないレベルであったかを考えれば、無理して実験炉を使うのではなく、この辺のやり直しにお金を投じて最後の望みに賭けるという選択肢は当然残されてしかるべきだと思う。
しかし、である。この選択肢は、明らかに「脱・脱原発」的な技術であり、この技術がいつかは完成すると仮定するならば、それは永遠に原発を卒業しない口実にも繋がる。となると、この様な可能性に賭けることは、世の中の「脱原発」にも「脱原発依存」にも背を向けることになり、「脱原発依存」である程度方向性がまとまってきた現状の中では政治的な舵取りは困難を極める。
しかし、一時の根拠のない政治信条により、選択可能なはずの選択肢の中の(ハードルは無茶苦茶高いが)1発逆転の可能性のある選択肢を検討の外に置くのは如何なものかと考える。仮に現時点での科学技術では無理だというなら、将来にそこに到達するための道筋を明らかにし、10万年の呪縛から逃れるチャンスを温めることはあっても良いのだと思う。それは、今現在存在している「もんじゅ」を動かせと言っているのではない。「もんじゅ」とは別のアプローチを目指すものであって良いという意味である。スパコンでのシミュレーションや、金属ナトリウム単体での制御技術を純粋に確立する行動であっても良い。いつか、それらを集約すると(3)のアプローチが形になるというのであれば、切り札としてしたためるべきである。
この様に、「トイレのないマンション」問題は突き詰めれば「脱原発」とは真逆を向いている可能性がある。小泉元総理がそこまで意識しているとは考え難いが、感性の優れた小泉元総理だから、この点を切り口にして論理的な思考を進めたときに、そこに非常に本質的な議論があることを感覚として感じ取っていたのかも知れない。原発推進派だろうと反原発派であろうと、この問題は正面から議論すべきである。
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ではあるが、まずは本題とは関係ないところから書かせて頂く。先日のブログ「対立軸を単純化することの重要性」の中で触れた、某参議院議員の行動について、直訴行動を行った本人が理解できていない「天皇の政治利用」について簡単に整理したい。これは、先日、帰りがけの車の中でFMラジオで聞いた内容の受け売りなのだが、多分、憲法学者や法曹関係者などからすれば常識の話だと思う。言葉の意味がはっきりしないのは「天皇の政治利用」の意味で、某議員もこの「天皇の政治利用」を非常に限定的な「狭義」の意味で捉えようとするから「マスコミが騒ぐから政治利用になってしまう」と逆切れする訳で、この「天皇の政治利用」の意味を理解すれば、「確かに政治利用ですね・・・」と認めざるを得ないはずである。
では、ここでの「政治」とは何かであるが、別にドロドロとした権力闘争の真っただ中の「政治」ではなく、私なりにかみ砕いて説明すれば、「多くの人の中で意見の対立がありうる問題に対し、その中立性を破る行為」が「政治(活動)」と解釈(広義の「政治」)されるべきである。つまり、反原発色を前面に出して、原発事故による被害をことさら強調した手紙を渡すならば、それを天皇陛下が受け取ると「(その政治的スタンスに)同調」したことになるし、受け取らないと「拒否(非同調)」したことになる。だから、天皇陛下がその手紙を読んだか読まなかったか、ないしは読んでどの様に思ったかなどというレベルの問題ではない。多分、手紙を手渡すに当たり何らかの意図を喋っていることを考慮すれば、手紙を受け取った時点で天皇の政治活動が成立してしまうことになる。ここで憲法違反をしたのが誰かと考えれば憲法違反者は某議員ではなく、「天皇陛下が憲法違反をしたことになる」ということが重要である。つまり、彼の行動は自分の問題ではなく、天皇陛下に「憲法違反行為」を強いる行動であったのが問題である。ついでに言えば、天皇にこの手の請願を行う際のルールを定めた「請願法」というものが存在し、明文化されたこちらの法律にも違反している。こちらは憲法解釈とかの難しい話ではなく、素人の私が読んでも彼の行動がこの法律に違反していると理解できるほど明らかだ。しかし、「請願法」には罰則規定がなされておらず、その意味ではその懲罰を直接的に彼に与えることは出来ない。多分、国会で議員辞職勧告がなされるなら、それは「天皇への非礼」を咎めるのではなく、この「請願法」行為を根拠に辞職を迫るのではないかと思う。この様に、「請願法」違反により天皇陛下に「憲法違反行為」を強いる行為が国会議員にあるまじき行為というのである。非礼さではなく、純粋に法律論で議論すべきである。
とまあ、余談が長くなてしまったが以下が本題である。小泉元総理の脱原発論であるが、世間の反原発派の人達は大喜びである。以前は諸悪の根源と避難轟々であたのが、今では神様・仏様・小泉様とばかりに引っ張りだこである。しかし、ではこの小泉元総理の脱原発論がラディカルで攻撃的な脱原発論かと言えば、これらの明らかに時代の流れから取り残された過去の政治家との会談などは行っているが、これらの勢力の結集を目指す旗印には決してなろうとしていない。あくまでも安倍総理に何らかのメッセージを送り続けている感じである。しかも、今後3年近くは国政選挙が行われないことを意識して、このタイミングを選んだとしか読めない抜群のタイミングである。
ただ、小泉元総理のメッセージの中心は、あくまでも「トイレのないマンション論争」に終始する。論理的な思考をする場合には、感情論ではなく、この問題の本質に注意しなければならない。そのポイントは、「トイレのないマンション論争」と「脱原発」は非常に特殊な関係になっているという点である。もう少し具体的に整理すると下記の様になる。
(1)使用済み核燃料の最終処分場がないという「トイレのないマンション論争」は、現在の原発を即座に停止して全てを廃炉にしても、この問題の解決には1ミリも繋がらない。言い換えれば、糞尿がマンションの1室に溢れた状態で、これ以上糞尿を垂れ流さないように断食・断水をしても、現在溜まっている糞尿は溜まったままなので、その匂いや衛生上の問題は何も解決していないということである。したがって、「脱原発」はこの問題の解決のための手段ではなく、時間稼ぎの手段でしかない。
(2)「トイレのないマンション論争」を解決する最終処分場を見つけ出すことが出来たとすると、マンションの一室の糞尿を処分することが可能なので、その時点で断食を止めて食べ物を食べて新たな糞尿を生産しても問題ないということになる。つまり、最終処分場を見つけ出すと、小泉元総理の「脱原発」の根拠が無くなり、原発再稼働を正当化することに繋がり得るということである。
(3)脱原発派の主張では、「最終処分場では使用済み核燃料を10万年保管する必要があるが、この様な長期に渡り安全であると断言できる地層など存在しない」というスタンスなので、この様な強硬派の主張を取り入れれば永久に「トイレのないマンション論争」は解決しないことになる。
というところであろうか。私もこの10万年という期間は非現実的であるという声には同調する。少なくとも、3.11の津波による福島第一原発の被害を予見できなかった国で、10万年先を見越すということは明らかに非現実的である。だとすれば、ではどの様な選択肢が残されているのか?私は、この問題の解決策を下記の3つしか思い浮かばない。
(1)日本の様な地震大国とは別に、安定した地層を持つ外国に高いお金を払って、地層処分を委託する。
(2)日本国内の比較的安全性の高い地層を探し、国権を発動して強制的にそこを最終処分場として処分する。
(3)高速増殖炉の技術を確立し、核燃料リサイクルにより毒性の高い核種であるウランなどを300年程度燃焼しきって無毒化する(無毒化したものを地層処分)。
というところか。この(3)に関しては、私は素人であるが、水の様に中性子などの遮蔽効果の高い減速材を用いる代わりに金属ナトリウムなどの材料を用い、放射性物質の核子の遷移をコントロールし、通常の原発ではウラン燃料の0.7%程度しか利用できていないところを、使用済み燃料内の99.3%のウランを高速炉内でプルトニウムなどの別の核子に変換し、それをもとに発電を繰り返す核燃料リサイクルを目指すものである。細かな理屈は分からないが、同一の燃料を100年間程度使いまわすと、燃料物質の放射線に伴う毒性は300年程度で天然のウラン並みに下げられるということらしい。多少は眉唾的な話だが、当初はこの様な目論見をもとに、「トイレのないマンション」を容認したのだと思う。
さて話を戻して、以上の選択肢を単純に考えて、常識ある政治家が(2)を選ぶことが出来る訳がない。こんなことをしたら、政権は1発で吹っ飛ぶのは目に見えている。しかし、(1)を受け入れる国があるとは思えないし、仮にあったとしても、それはそのリスクをリスクとして受け止めるのではなく、単なる外貨稼ぎが目的なのは目に見えているから、その処分場の管理がずさんで事故を起こす可能性も否定できない。その様なリスクを承知で貧しい国に核のゴミを丸投げすることを世界が許容するとは思えない。この様に考えると、選択肢は世界的な合意の上で(1)を選択し、世界の英知で保管管理を行うことを前提に、受入国を探してその国に膨大なお金を払って最終処分を行うか、(3)の高速増殖炉の実現を再度目指すかのいずれかである。
勿論、(3)の技術が相当厳しいのは理解している。金属ナトリウムの管理の難しさは予想を遥かに超えたもので、原発がこれまでに何百基も実用化されている一方で、高速増殖炉の実用化は世界中で何処も成功していない。実用化途中の事故も絶えず起こり、それも一歩間違えば福島第1原発並みの事故につながりかねないことも把握している。しかし、我々が取り得る選択肢は現実には限られていて、多分、この(3)が成立しない限りは永遠に使用済み核燃料のリスクを抱えたままで生きることになる。だとすれば、直接的な実験炉による研究以前の問題として、金属ナトリウムの制御を如何にして行うかなど、初期検討から順番にやり直すという選択肢も残されているはずである。以前ならともかく、今ならスーパーコンピュータなども駆使して、高速増殖炉内の金属ナトリウムが様々な構造物に与える影響(例えば温度計や配管やその接合部などを含めて、どの様な負荷がかかり運用に伴う疲労がどの様になるかなどを含む)のシミュレーションをより高精度で実現することも可能になっているはずである。その評価のやり直しには膨大なお金がかかるので、短絡的には既に実験炉が出来てしまっているから実験炉で検証すべきと考えがちだが、これまでの事故が如何に危険度として無視できないレベルであったかを考えれば、無理して実験炉を使うのではなく、この辺のやり直しにお金を投じて最後の望みに賭けるという選択肢は当然残されてしかるべきだと思う。
しかし、である。この選択肢は、明らかに「脱・脱原発」的な技術であり、この技術がいつかは完成すると仮定するならば、それは永遠に原発を卒業しない口実にも繋がる。となると、この様な可能性に賭けることは、世の中の「脱原発」にも「脱原発依存」にも背を向けることになり、「脱原発依存」である程度方向性がまとまってきた現状の中では政治的な舵取りは困難を極める。
しかし、一時の根拠のない政治信条により、選択可能なはずの選択肢の中の(ハードルは無茶苦茶高いが)1発逆転の可能性のある選択肢を検討の外に置くのは如何なものかと考える。仮に現時点での科学技術では無理だというなら、将来にそこに到達するための道筋を明らかにし、10万年の呪縛から逃れるチャンスを温めることはあっても良いのだと思う。それは、今現在存在している「もんじゅ」を動かせと言っているのではない。「もんじゅ」とは別のアプローチを目指すものであって良いという意味である。スパコンでのシミュレーションや、金属ナトリウム単体での制御技術を純粋に確立する行動であっても良い。いつか、それらを集約すると(3)のアプローチが形になるというのであれば、切り札としてしたためるべきである。
この様に、「トイレのないマンション」問題は突き詰めれば「脱原発」とは真逆を向いている可能性がある。小泉元総理がそこまで意識しているとは考え難いが、感性の優れた小泉元総理だから、この点を切り口にして論理的な思考を進めたときに、そこに非常に本質的な議論があることを感覚として感じ取っていたのかも知れない。原発推進派だろうと反原発派であろうと、この問題は正面から議論すべきである。
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