けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

政府が「マスコミってチョロイじゃん!」と思ってしまう、そのマスコミの態度が危険である

2013-11-27 23:55:59 | 政治
特定秘密保護法案の参議院での議論が開始された。先日のブログ「時を経て権力の判断の是非を問うなら自らの襟も正すべきだ!」でも少し触れたが、今日はもう少し突っ込んだ議論をしてみたい。というか、この問題を理解するのにポイントとなりそうな他者のブログを引用する形でポイントを整理してみる。

私が的を得ていると感じた3つのブログは以下のものである。

(1)うさみのりやのブログ 2013年11月19「日特定秘密保護法案と一色正春さんと核燃サイクルと
(2)現代ビジネス・ニュースの深層 長谷川幸洋2013年11月22日「課題山積の特定秘密保護法案が成立へ この際だから秘密を守れない国会議員と秘密を暴けないマスコミは自省せよ
(3)現代ビジネス・ニュースの深層 高橋洋一2013年11月22日「反対論者が持ち出すツワネ原則は的外れ!特定秘密保護法と比較すべきは各国の実法制だ

まず、(1)のうさみのりやさんのブログでは、尖閣ビデオ流出で話題になった元海上保安庁職員の一色正春さんのツイッターを引用している。例えば、某コメンテータが「特定秘密保護法が施行されると、居酒屋なんかで指定された秘密をうっかり喋ったりなんかすると捜査されてしまうんです。本当に怖い世の中になってしまいますねー」と述べていたのに「居酒屋でテロに関する情報を喋れば捜査されるのは当然」とツッコんでいる。言うまでもない話である。つまり、今回の特定秘密保護法案では、「知る権利」と「国家機密の保護」の対立をどの様に捉えるかが重要であり、その一方のみを過剰に重要視する一方、他方を軽んじた発言をしても議論の意味はない。上述のコメンテータの発言などその最たるもので、それが客観的に保護されるべき国家機密であるか否かに関係なく、何でもお気楽に「居酒屋で喋ってオーライ」などと考えている極端に偏った考え方で一般世論を誘導しようという発想が今のマスコミや言論人の中に蔓延している。これはかって、反原発派と原発推進派がそれぞれ先鋭化して議論を噛みあわなくさせたが故に、結果的に安全対策のための議論が進展せず、福島第一原発の惨事につながってしまったことと酷似している。相対立するふたつの価値観、「知る権利」と「国家機密の保護」の対立をバランスよく議論するのが正攻法なのに、ゲリラ戦に持ち込もうとしたから結果的に、政治家からは「言いっぱなしの無責任な主張」と見なされてまともに取り上げて貰えないのである。この辺を一色正春さんは「もっと真面目に反論しろ!」と指摘しているのである。

さて、ふたつ目の記事は東京新聞・中日新聞の論説副主幹の長谷川幸洋さんの記事である。彼の特徴は、まさにこの一色正春さんのご指摘を真摯に受け止めたような真面目な反論になっている。とにかく、この特定秘密保護法案の必要性を大いに認めているのである。また、法案に反対する人々が持ち出す西山事件にしても、「(本当に)マスコミは政府を敵に回して秘密を暴露するような報道をしてきたか?」と問うている。確かに沖縄基地返還の密約を暴くという意味では西山記者は国民に情報を提供するために一定の役割を果たしたのだが、しかし、彼のしたことは「途中から肝心の秘密資料を社会党議員に渡して、(彼が人の道に反してまで取得した情報は)政府の追及材料になった」ということだそうだ。つまり、国民の「知る権利」にこたえるために体を張ったのではなく、反政府活動として政府の政敵のために(如何わしい手段で)機密を得ようとしたとも理解できるのである。本当のところは純粋な正義感なのか、決して胸を張れない疾しさがあるのかは知らないが、仮に疾しさがあってもそれを認めたりはしないのは分かるから、その様な話を水戸黄門の印籠の様にこれ見よがしに言われても、冷めた気持ちで聞かざるを得ない。その辺は、攻める側も客観的に訴えた方が良い。

さらに大きな問題はこの先である。本音で言えば、マスコミが特定秘密保護法案に反対する最大の理由は、非常に大部分の記者は、これまで政府高官や官僚などから「オフレコ」と称してリークしてもらった情報を中心に記事を書いてきたから、この法案が出来ると重要な情報は「オフレコ」で入手できなくなり、汗水たらした「足で稼ぐ取材」を余儀なくされるのを恐れているからである。今の新聞記者のレベルは非常に低く、物事を上っ面でしか捉えていない。私が愛読している産経新聞などは「尖がった記事」を売りにしているから多少はその辺の努力があるのかも知れないが、某新聞社などは優秀な記者もある程度はいるのは事実だが、半分以上の記者のレベルは酷いものである。思い込みや一方的な自分の主張の押し付けが多く、その記事を読んでも「なるほど」と思うことは少ない。これを長谷川幸洋さんは「ポチ記者」と呼んで非難している。つまり、「本気でこの法案により自分の身を心配しなければいけない記者は、本当にいるのだろうか?」という疑問である。それを「法案反対!」と言うと、あたかも自分は「ぽち記者」ではないと言っているようでカッコいいから、それでファッションの様に反対を身にまとっているのである。勿論、この様に「オフレコ」でリークされた情報が正しいとは限らず、政府高官や官僚などの思うツボの「代弁者」になってしまっている可能性も大いにある。そして同様に、法案に反対する政治家たちにも、「お前たちがペラペラ秘密を暴露しまくっていて、それで良く物が言えるな!」とツッコんでいる。まさにその通りである。

最後の(3)の記事は、物事を判断する際に「ミスリードを狙った誤った情報」に惑わされてはいけないとのご指摘である。幾つかポイントはあるのだが、例えば世界と比較してその法案の妥当性を議論する場合、何をリファレンスにするかという取捨選択についてである。例えば、先の長谷川幸洋さんの記事の中でも「ツワネ原則」なる世界70か国以上の500人以上の専門家が参加して作成された理念型のガイドラインを参照している。所謂、言論人、有識者と呼ばれる専門家が議論してまとめたので妥当性があるものと思えてしまうのだが、それは各国の具体的な法律に通じる共通理念ではないらしい。実際に国家の安全保障の責任を担う人たちは「性悪説」を前提に物を考えなければならないが、有識者は「性善説」とまでも言わないまでも、徹底的に「最悪の事態」を想定した議論とは異なる。責任のない人の議論と、責任を背負った人の議論が異なる結論に到達するのは必然だから、その差を真正面から認めて考えなければならない。

また高橋洋一さんは、私としては目から鱗であるのだが、実は「霞が関文学」とは全てが「悪」ではなく、ある時は「善」にもなるということをご指摘されていた。それは、下記の内容である。少しばかり引用させて頂く。

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「あるマスコミの人は、特定秘密保護法案の別表に書かれている4分野の表現が曖昧でいくらでも拡大解釈できるといい、例えば、別表一のロの『防衛に関し収集した電波情報、画像情報その他の重要な情報』という文言の中の、『その他の重要な情報』をあげていた。
これは、法令用語の基礎知識だ。『その他の重要な情報』という場合、その語句の前までの『防衛に関し収集した電波情報、画像情報』は『重要な情報』の例示であり、それらと同等なものが列挙されているという意味だ。
 これに対して、『その他重要な情報』と書くと、その語句の前までの『防衛に関し収集した電波情報、画像情報』以外にも『重要な情報』があるという意味になる。
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つまり、「その他の(重要な?)情報」というものが単品で出てきた場合と、句読点なしで連続した「防衛に関し収集した電波情報、画像情報その他の重要な情報」とでは全く裁判では別の意味を持つことを、専門家として指摘している。だから、もし本気でこの法案に反対する人がいたならば、具体的な案文を元最高裁の判事だった人などを20~30人ほどピックアップし、法律家としてその案文で何処までのリスクがあるのかを正確に判断してもらえば良いのである。しかし、その様な真面目な議論をすると政府の主張のある部分までは正しいことが分かってしまったりするから、イメージ戦略として「その他の重要な情報」なんて青天井で何でもアリじゃん・・・と主張して止まない。もう少し真面目に議論してもらわないと我々にも分からないのである。

さて、最後にもうひとつ、これまでの議論に出てこなかった重要な視点を指摘したい。多分、反対派の多くの中には、先ほどの「その他の重要な情報」の様なあいまいな表現を排除すればそれで安心できるように考えているようであるが、本当にそうであろうか?法律に明確に規定されているのに、その文言では縛り切れなかった防衛ラインがあることを、ほぼ全ての国民は知っている。そう、憲法9条である。誰がどう読んでも、それを日本語として読めば自衛隊の存在を認めている法律には読めない。だから、現在の日本国憲法が出来たときには、あの共産党ですら「憲法9条では国を守れない。幾らなんでもこれではダメだ!」と主張していたほどである。しかし、その様な明文化された法律を骨抜きにするという、「国民をだますかもしれない政府にかけるブレーキ」の最重要な憲法に対しても、極めて恣意的に捻じ曲げた憲法解釈を許容しているのである。これを是正して、「実情に憲法を合わせる」か「自衛隊の戦力も放棄する」の2者択一を志向すれば正直者と言えるのだが、この「明文化された法律を骨抜きにする」現状を死守することを「護憲」と呼ぶのだから、これでは幾ら法律に明文化しても意味はない。重要なのは、マスコミがその法律の本質を理解した上で、「本当はスルーして良いところ」と「議論の本丸」となるところを整理し、政府が暴走しようとしても「マスコミのレベルが高いから、ごまかしではその場を逃げ切れない」と政府に思わせる状況を作ることが大切である。しかし、今の現状は「マスコミってチョロイじゃん!」という雰囲気がバレバレである。これではジャーナリズムが防波堤にはなり得ない。

色々書いてきたが、現在のマスコミの「特定秘密保護法の反対キャンペーン」はあまりにジャーナリズムの手抜きの象徴だと思う。もっと体を張った主張をする記者が出てこないと、それこそ政府の思う壺である。その点をマスコミはもっと反省すべきである。

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