少々強烈なタイトルで申し訳ない。名前を語るのも嫌なので仮にY氏と呼ぶことにしよう。原発反対を訴えて当選した彼のことである。今日は彼の行動が持つ意味について確認してみたい。
まず順番に議論を整理したい。原発問題を議論する際に、その議論の出発点を何処に置くかで結論は多分異なるであろう。例えば、今現在の技術レベル(シェール革命が起き、一方でもんじゅ等の再処理技術が世界中で頓挫しているという現状を含む)及び福島第一原発事故を経験した現実を前提にすると共に、更に加えて(ここが重要なのであるが)原発施設が日本の中にまだ建設されていないという(現実とは全く異なる)状況を前提条件と捉えて、「これから原発施設第1号機を日本国内に作るべきか否か?」という議論をするのであれば、多分、多くの人の結論は「原発はいらない」となるのであろう。私もこの議論には同意する。しかし、今から何十年も昔であれば議論は全く異なるはずである。
例えば、石炭から石油へのエネルギー革命で中東の石油への依存度が極端に高まり、一方でオイルショックが起きれば石油に変わるエネルギー源の確保は国家の浮沈にかかわる最優先課題と位置づけられた時代を前提とする場合である。さらには、広島、長崎に原爆が投下された後、世界中の大国がこぞって原爆を保有していった中で、原子力関連技術の蓄積はあくまでも平和利用というオブラートで包みながらも、イザとなった時に手遅れにならないために、国家の選択として原子力技術の確立が避けて通れなかった時代と考えても良い。さらにそれは、公共の福祉に沿った判断であれば、国家のために必要であれば個人の権利の一部もある程度拘束されても致し方ないという考えも強くあり、スタート時点ではトイレのないマンションでも、いつかはトイレを確保することは可能だろうと安直に考えられていた時代でもある。その様な時代を前提とし、世界の趨勢がひとつの方向に向かう中で、ひとりだけそこから取り残される決断をすることが何を意味するかを考えれば、過去の政治家や産業界が、(苦渋かどうかは知らないが)ある種の大きな決断をしたとしてもそれは自然な流れであろう。
だから、ここから先の有益な議論とは、その様な時代に原子力の利用に手を染めてしまったという現実に沿った前提条件をそこに設定し、その土俵の上で議論を進めなければならない。つまり、現実には多数の原子力発電所が存在し、数多くの使用済み核燃料が同様に存在し、さらには福島第一原発を初めとして現存する原発全てを少なくとも数十年後には廃路にしていかなければならないという現実を踏まえた上で、今後、どの様な選択をするのが正しいかという議論をするべきである。
ここでまず理解すべき点は、日本中の原発を廃路にするにはそのための費用が発生するが、その費用は今直ぐ原発を止めて廃路にしても、今後、安全が確保できる範囲で稼動させた上で寿命に伴い廃路にする場合であっても、どちらも廃路にかかる費用は同じであるということである。原発のランニングコストを議論する場合、先に示した「まだ日本の中に原発が存在してはない状態」を前提として評価するランニングコストと、「既に原発が存在している状態」を前提とした、あくまでも今後の運用において必要となるランニングコスト(過去の費用を組み込まないという意味)とは全く異なる値になる。反原発を唱えたい人からすれば不本意な設定かも知れないが、現実に即した議論とはこの様なものである。この前提で議論する場合、共産党や社民党などの極々一部の勢力を除けば、少なくとも10年(幾つかの政党にとってはそれ以上かも知れないが)の期間をかけて原発ゼロに導くというフェードアウト型の着地は、政党の政策としては概ね8割以上の多数派意見とみなすことができるだろう。その着地が10年か30年かで違いはあるかも知れないが、その過渡期においては安全が確保された原発の再稼動は止むなしという判断である。
さて、問題はここからである。では、如何にして安全を確保するかという議論である。過去のブログでも散々議論してきたが、福島第一原発があの様な事故を起こした背景を振り返れば、私なりの結論は「反原発論者と原発推進論者の議論が噛み合わなかったこと」が最大の原因だと考えている。常識的に考えれば、原発推進論者であっても原発の危険性は熟知しているので、その危険を回避するための方策を最大限に取りたいと思う所だが、これまでの対策に仮に不十分な部分が見つかった時に、その対策を大掛かりに講じることが何を意味するかを考えれば、正面切ってその対策を取ることが出来なくなってしまう。つまり、「安全だ!安全だ!」と当初は言っていたのに、「いや、実は色々調べてみたら十分ではなかった。今回の対策を施せば十分になるから対応したい。」などと言われれば、反原発派は喜んで「ほうら、お前らの安全神話など嘘八百ではないか!」と大騒ぎするのが目に見えている。先月のBS朝日の激論クロスファイアに東京電力の社長が出演して色々なことを語っていたが、原発に対する避難訓練ひとつを取ってみても、安全を前提とする電力会社が大々的な避難訓練を行うと、安全神話との整合性が取らなくなるから、一般市民を巻き込んだ避難訓練ではなく、こじんまりと関係者のみで避難訓練を行わなければならなかったと述べていた。
これらは非常に悲劇的な事態である。本来は「安全」と「危険」は0(ゼロ)と1の2値で判断されるものではなく、その間の連続的な値を取り得るものである。つまり、危険な事態の発生確率は0%でも100%でもなく、例えば0.0000000001%とかの様にどれだけ0%に近づけるかを議論すべきものである。だから、0.0001%から0.000001%へ安全率を2桁改善する対策が見つかれば、2桁改善の対策を取りたいと申告し、反原発派も「原発には反対だが、安全度を向上する方策は歓迎する」という対応を取るのが前向きな議論というものである。福島第一原発の吉田所長が貞観地震での津波の高さの情報を受けても対策が取れなかった理由の最大の原因は、この様な背景が第一にあったと考えるのが妥当だろう。
だから、民主主義国家において国会議員の大多数が少なくとも10年の歳月をかけて原発をフェードアウトするという共通認識があるのであれば、ラディカルな反原発派であろうと多数派の選択した道を歩む中での安全性向上を議論して頂かなければ、それは先の失敗の繰り返しに繋がるので困るのである。0.000001%から0.00000001%へ安全率を2桁改善できるのであれば、それを大いに評価できる前向きな精神を持って頂かないと困るのである。それが十分か十分でないかの議論は当然必要にしても、少なくとも安全性の向上に対する飽くなき取り組みを良しと認めてもらわねば困るのである。0.0000000001%と100%を「絶対的な0%ではない点で同一」と十把ひとからげにされては困るのである。
沖縄の米軍基地問題もそうだが、迷惑施設でありながらそれが存在しなければその迷惑以上に悲惨な事態になりかねないというような問題は山積みである。「将来的に石垣島や沖縄本島などが中国に占領される危険性を覚悟の上で、米軍基地を沖縄から全て追い出すのか?」と問われれば、当然ながら「中国による占領は困る」という結論になる。では、「米軍の代わりに自衛隊を軍隊に格上げし、徴兵制と共に大幅に増強して沖縄に駐留させるか?」と問われれば、「それなら米軍にいてもらった方がまし・・・」ということになる。であれば、それが亀の歩みであっても沖縄負担の軽減を着実に前に進めているのであれば、その歩みを速めることに精を出すべきであり、「亀の歩みなら止めてしまえ!」ということにはならない。一歩でも二歩でも前進したのなら、それを評価してもらわなければ事態は変わらないのである。
この様な視点でY氏の行動を見れば、彼は科学的な根拠がない0 or 1の議論で国民を欺こうとしている。彼は何度も繰り返し、「震災瓦礫も危険であり、あれも危険、これも危険、全部危険」と誤った洗脳活動を繰り返している。思想・信条の自由は認めるから過剰に放射線を怖がるのは勝手だが、事実に反した過剰な「怖い怖い詐欺」は社会にとって害悪である。そして、この様な人達は決して0.000001%から0.00000001%へ安全率2桁改善を評価しないだろうから、彼らの危険な活動が幅を利かせれば利かせるほど、原発の安全対策は後ろ向きにならざるを得ない。しかし、国会における8割もの多数派政党が10年程度の脱原発までの移行期間を容認するのであれば、少なくともその期間は危険な原発と共存しなければならず、その危険性の低減に前向きでなければ、結果として危険な状態にさらされることになるのである。つまり、言論・思想の自由は認めるにしても、根拠のないデマを吹聴して国民を危険な状態に陥れる活動・行動は、現在の法律では取り締まることは厳しいかも知れないが、多くの国民が「それは害悪以外の何ものでもない!」という認識を持ち、その様な害悪を排除する知識を身につけて然るべきである。しかし、不思議なことに多くのテレビ局は映像的に人目を引き易いという理由で、様々な番組にインタビューやゲストとしてY氏は出演していた。テレビ局の良識を疑りたくなる状況である。
このY氏のラディカルさは、彼を支持する団体に中核派や日本の国益を害する諸外国勢力がついていることからも伺い知ることが出来る。悪魔に魂を売ってまで国会議員の椅子を求めるという姿を、多分、彼に投票した人達は知らないだろう。しかし、この様な病巣は一旦体に取り込まれると、徐々に転移して体全体を蝕みかねない。
その様になってからでは遅いのである。彼の行動は、科学的、論理的、経験的に後ろ向きであることは上記に説明したとおりである。そんな彼に踊らされてはいけない。悪魔は仮面を被って手招きをする。国民は早くそれに気がつくべきである。
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まず順番に議論を整理したい。原発問題を議論する際に、その議論の出発点を何処に置くかで結論は多分異なるであろう。例えば、今現在の技術レベル(シェール革命が起き、一方でもんじゅ等の再処理技術が世界中で頓挫しているという現状を含む)及び福島第一原発事故を経験した現実を前提にすると共に、更に加えて(ここが重要なのであるが)原発施設が日本の中にまだ建設されていないという(現実とは全く異なる)状況を前提条件と捉えて、「これから原発施設第1号機を日本国内に作るべきか否か?」という議論をするのであれば、多分、多くの人の結論は「原発はいらない」となるのであろう。私もこの議論には同意する。しかし、今から何十年も昔であれば議論は全く異なるはずである。
例えば、石炭から石油へのエネルギー革命で中東の石油への依存度が極端に高まり、一方でオイルショックが起きれば石油に変わるエネルギー源の確保は国家の浮沈にかかわる最優先課題と位置づけられた時代を前提とする場合である。さらには、広島、長崎に原爆が投下された後、世界中の大国がこぞって原爆を保有していった中で、原子力関連技術の蓄積はあくまでも平和利用というオブラートで包みながらも、イザとなった時に手遅れにならないために、国家の選択として原子力技術の確立が避けて通れなかった時代と考えても良い。さらにそれは、公共の福祉に沿った判断であれば、国家のために必要であれば個人の権利の一部もある程度拘束されても致し方ないという考えも強くあり、スタート時点ではトイレのないマンションでも、いつかはトイレを確保することは可能だろうと安直に考えられていた時代でもある。その様な時代を前提とし、世界の趨勢がひとつの方向に向かう中で、ひとりだけそこから取り残される決断をすることが何を意味するかを考えれば、過去の政治家や産業界が、(苦渋かどうかは知らないが)ある種の大きな決断をしたとしてもそれは自然な流れであろう。
だから、ここから先の有益な議論とは、その様な時代に原子力の利用に手を染めてしまったという現実に沿った前提条件をそこに設定し、その土俵の上で議論を進めなければならない。つまり、現実には多数の原子力発電所が存在し、数多くの使用済み核燃料が同様に存在し、さらには福島第一原発を初めとして現存する原発全てを少なくとも数十年後には廃路にしていかなければならないという現実を踏まえた上で、今後、どの様な選択をするのが正しいかという議論をするべきである。
ここでまず理解すべき点は、日本中の原発を廃路にするにはそのための費用が発生するが、その費用は今直ぐ原発を止めて廃路にしても、今後、安全が確保できる範囲で稼動させた上で寿命に伴い廃路にする場合であっても、どちらも廃路にかかる費用は同じであるということである。原発のランニングコストを議論する場合、先に示した「まだ日本の中に原発が存在してはない状態」を前提として評価するランニングコストと、「既に原発が存在している状態」を前提とした、あくまでも今後の運用において必要となるランニングコスト(過去の費用を組み込まないという意味)とは全く異なる値になる。反原発を唱えたい人からすれば不本意な設定かも知れないが、現実に即した議論とはこの様なものである。この前提で議論する場合、共産党や社民党などの極々一部の勢力を除けば、少なくとも10年(幾つかの政党にとってはそれ以上かも知れないが)の期間をかけて原発ゼロに導くというフェードアウト型の着地は、政党の政策としては概ね8割以上の多数派意見とみなすことができるだろう。その着地が10年か30年かで違いはあるかも知れないが、その過渡期においては安全が確保された原発の再稼動は止むなしという判断である。
さて、問題はここからである。では、如何にして安全を確保するかという議論である。過去のブログでも散々議論してきたが、福島第一原発があの様な事故を起こした背景を振り返れば、私なりの結論は「反原発論者と原発推進論者の議論が噛み合わなかったこと」が最大の原因だと考えている。常識的に考えれば、原発推進論者であっても原発の危険性は熟知しているので、その危険を回避するための方策を最大限に取りたいと思う所だが、これまでの対策に仮に不十分な部分が見つかった時に、その対策を大掛かりに講じることが何を意味するかを考えれば、正面切ってその対策を取ることが出来なくなってしまう。つまり、「安全だ!安全だ!」と当初は言っていたのに、「いや、実は色々調べてみたら十分ではなかった。今回の対策を施せば十分になるから対応したい。」などと言われれば、反原発派は喜んで「ほうら、お前らの安全神話など嘘八百ではないか!」と大騒ぎするのが目に見えている。先月のBS朝日の激論クロスファイアに東京電力の社長が出演して色々なことを語っていたが、原発に対する避難訓練ひとつを取ってみても、安全を前提とする電力会社が大々的な避難訓練を行うと、安全神話との整合性が取らなくなるから、一般市民を巻き込んだ避難訓練ではなく、こじんまりと関係者のみで避難訓練を行わなければならなかったと述べていた。
これらは非常に悲劇的な事態である。本来は「安全」と「危険」は0(ゼロ)と1の2値で判断されるものではなく、その間の連続的な値を取り得るものである。つまり、危険な事態の発生確率は0%でも100%でもなく、例えば0.0000000001%とかの様にどれだけ0%に近づけるかを議論すべきものである。だから、0.0001%から0.000001%へ安全率を2桁改善する対策が見つかれば、2桁改善の対策を取りたいと申告し、反原発派も「原発には反対だが、安全度を向上する方策は歓迎する」という対応を取るのが前向きな議論というものである。福島第一原発の吉田所長が貞観地震での津波の高さの情報を受けても対策が取れなかった理由の最大の原因は、この様な背景が第一にあったと考えるのが妥当だろう。
だから、民主主義国家において国会議員の大多数が少なくとも10年の歳月をかけて原発をフェードアウトするという共通認識があるのであれば、ラディカルな反原発派であろうと多数派の選択した道を歩む中での安全性向上を議論して頂かなければ、それは先の失敗の繰り返しに繋がるので困るのである。0.000001%から0.00000001%へ安全率を2桁改善できるのであれば、それを大いに評価できる前向きな精神を持って頂かないと困るのである。それが十分か十分でないかの議論は当然必要にしても、少なくとも安全性の向上に対する飽くなき取り組みを良しと認めてもらわねば困るのである。0.0000000001%と100%を「絶対的な0%ではない点で同一」と十把ひとからげにされては困るのである。
沖縄の米軍基地問題もそうだが、迷惑施設でありながらそれが存在しなければその迷惑以上に悲惨な事態になりかねないというような問題は山積みである。「将来的に石垣島や沖縄本島などが中国に占領される危険性を覚悟の上で、米軍基地を沖縄から全て追い出すのか?」と問われれば、当然ながら「中国による占領は困る」という結論になる。では、「米軍の代わりに自衛隊を軍隊に格上げし、徴兵制と共に大幅に増強して沖縄に駐留させるか?」と問われれば、「それなら米軍にいてもらった方がまし・・・」ということになる。であれば、それが亀の歩みであっても沖縄負担の軽減を着実に前に進めているのであれば、その歩みを速めることに精を出すべきであり、「亀の歩みなら止めてしまえ!」ということにはならない。一歩でも二歩でも前進したのなら、それを評価してもらわなければ事態は変わらないのである。
この様な視点でY氏の行動を見れば、彼は科学的な根拠がない0 or 1の議論で国民を欺こうとしている。彼は何度も繰り返し、「震災瓦礫も危険であり、あれも危険、これも危険、全部危険」と誤った洗脳活動を繰り返している。思想・信条の自由は認めるから過剰に放射線を怖がるのは勝手だが、事実に反した過剰な「怖い怖い詐欺」は社会にとって害悪である。そして、この様な人達は決して0.000001%から0.00000001%へ安全率2桁改善を評価しないだろうから、彼らの危険な活動が幅を利かせれば利かせるほど、原発の安全対策は後ろ向きにならざるを得ない。しかし、国会における8割もの多数派政党が10年程度の脱原発までの移行期間を容認するのであれば、少なくともその期間は危険な原発と共存しなければならず、その危険性の低減に前向きでなければ、結果として危険な状態にさらされることになるのである。つまり、言論・思想の自由は認めるにしても、根拠のないデマを吹聴して国民を危険な状態に陥れる活動・行動は、現在の法律では取り締まることは厳しいかも知れないが、多くの国民が「それは害悪以外の何ものでもない!」という認識を持ち、その様な害悪を排除する知識を身につけて然るべきである。しかし、不思議なことに多くのテレビ局は映像的に人目を引き易いという理由で、様々な番組にインタビューやゲストとしてY氏は出演していた。テレビ局の良識を疑りたくなる状況である。
このY氏のラディカルさは、彼を支持する団体に中核派や日本の国益を害する諸外国勢力がついていることからも伺い知ることが出来る。悪魔に魂を売ってまで国会議員の椅子を求めるという姿を、多分、彼に投票した人達は知らないだろう。しかし、この様な病巣は一旦体に取り込まれると、徐々に転移して体全体を蝕みかねない。
その様になってからでは遅いのである。彼の行動は、科学的、論理的、経験的に後ろ向きであることは上記に説明したとおりである。そんな彼に踊らされてはいけない。悪魔は仮面を被って手招きをする。国民は早くそれに気がつくべきである。
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