昨日、アメリカのデトロイト市が財政破綻で破産した。ピーク時の人口が185万人が68万人にまで減少したというのだから、これでは財政破綻も仕方がないだろう。今日はこのニュースから何を読み取るべきかをコメントしたい。
順番に議論を整理してみよう。市の財政破綻といえば、我々は北海道の夕張市をまず先に思い浮かべるだろう。それまで産業界のエネルギー源の主流が石炭から石油に移り行く中で、大規模な炭鉱事故などをきっかけに大部分の市民が職を失い、それまで石炭で栄えた町が急にゴーストタウンに変わっていく。炭鉱は元々山の中にあるから、夕張などは石炭がなければあれほど栄えることがなかったはずの町であろう。だから、一時的に夢を見たかのように繁栄した町も、炭鉱の廃坑で本来のあるべき姿に戻った感がある。自治体としても打つ手はなく、行政サービスを切り捨てても間に合わず、結果的に財政破綻となってしまった。
「流石に夕張は特別だろう!」と我々は思ったわけであるが、今回のデトロイトの破綻はその様な言い訳がきかない事例だろう。夕張のように山の中の町ではなく、自動車産業がなくてもそれなりに栄えるポテンシャルを持ちえた町のはずである。リーマンショックで景気が冷え込んでGMは倒産したが、その後も地道に復活の道を辿ってきていたはずである。にもかかわらず、今回の財政破綻である。税収は、当然、企業の業績悪化と労働者人口の減少に比例して急激に落ち込むが、行政のサービスレベルを維持しようとすれば、人口の減少とはあまり関係なく支出は概ね維持される。結果的に雪達磨的に財政赤字は膨れ上がる。破綻の確率が高まれば借金の金利が高騰し、あるところで堰を切って雪崩が止まらない状態になったのだろう。
このニュースを聞きながら、私はブルース・スプリングスティーンのMy Hometownという歌を思い出した。私の大好きな歌のひとつである。学生の頃、曲を聴きながら歌詞カードを何度も読み直したことを覚えている。不景気で産業が廃れ、荒廃して治安が悪くなった町から去り行く覚悟を決め、親から子に伝える言葉が「ようく見ておくんだ!これがおまえのHometown」である。親から自分が言われた言葉を、自分もまた子供に伝えなければならないその哀しみ・・・。歌の中でも治安の劣化が繁華街の賑わいを奪うフレーズがあるが、最近のデトロイトでは、発生した犯罪の解決率(つまり、犯人逮捕)が9%程度に落ち込んでいたという。治安の悪さは半端でなく、次から次へと人口の流出がとまらない負のスパイラル状態だったのだろう。
ここで、ひとつ目の教訓は、人口の急激な減少は国家の崩壊につながるという、その縮図を見せられたということであろう。逆に言えば、人口減少に対する歯止め、すなわち少子化対策については少々の禁じ手を使ってでも確実に実行しなければならないということであろう。デトロイトの市政では藁にもすがる思いで税収を上げることに必死であったのだろうが、今となっては「あの時、もっと積極的にあれをやっておけば良かった」と感じるようなこともあるのだろう。その様な政策は、その時は「まだまだ、そこまでやらんでも・・・」と思ったのかも知れないが、雪崩が起きてから悔いても後の祭りである。同様のことは少子化対策についても同じであり、先日、散々ケチョンケチョンに言われた「女性手帳」の導入であるが、私には今日、デトロイト市民が過去に「まだまだ、そこまでやらんでも・・・」と思ってしまったことを悔いている(かも知れない)姿に重ねて見えてしまう。確かに、子供を生むか生まないかは個人の自由だが、もし生むのであれば「人生設計を若いうちから考えた方が良い」と啓蒙することは悪くないはずだ。女性だけに責任を負わせるのが良くないなら、男性にも「男性手帳」を配ればよい。課題があるなら課題に対処すれば良いのであって、アイデアを最初に戻ってチャラにしてしまうという後ろ向きの姿勢は、とても少子化対策を真剣に考えているようには思えない。いつかは結婚という制度そのものに手をつけなければいけないかも知れないときに、高々、「女性手帳」の導入に躊躇してどうする・・・と思うのだが、彼(彼女)らにはその様な危機感を現実のものと感じることができていないのだろう。
この様に書きながら、ふたつ目の教訓が明らかになってくる。それは、「想像力の欠如」という問題である。問題が顕在化し、堰を切って雪崩が起きるようになる前に、その雪崩が起きたときの姿を如何に早く「想像」出来るかどうかが運命の分かれ道なのだと思う。例えば、男女間であれば些細な一言が相手を傷つけ、それまで築き上げてきた愛情や信頼関係が失われて別れてしまうこともあるかも知れないが、その様な言葉を発する人は、その言葉を言った後のことを決して想像できてはいないだろう。例えば、読売新聞からも繰り返し名指しで「誤報である」と指摘される朝日新聞の1992年の慰安婦報道であるが、後に韓国国内で「(慰安婦ネタで)日本政府から金を奪い取ってやる!」と言って金を集めて詐欺罪で逮捕された人々の言葉を十分な裏取りもせずに報道したことに対し、彼らはそれが日本の国益にどの様な影響を与えるかを決して想像できてはいなかったろう。例えば、「予算の組み換えをすれば財源なんて幾らでも出てくる!だから、大盤振る舞いをしても大丈夫!」と言っていた人達も、自分たちが政権を取ったときに何が起きるかを想像など出来ていなかっただろう。勿論、デフレ下で消費税増税したら景気の冷え込みが一層激しくなることの想像力も必要であるが、この期に及んで問題先送りを続けたときの海外のアベノミクスに対する失望がいかほどかと言う想像力も必要である。諸外国はきっと、日本に対して誠意をもって(決して悪意など持っていない)接しているのだから、日本も相手のことを慮って自らを犠牲にしてでも相手のためになる行動を取らなくてはいけないと言う幻想を信じたい気持ちは分かるのだが、もし仮に、相手国が悪意に満ちていて、自らの国益のためには手段を選ばないという考え方で日本に接してきているとしたら何が起きるのか・・・という想像力も必要である。原発に関して言うのであれば、危険を隠して原発を再稼動する真の危険性を想像する力と、目を瞑って全ての原発に対して盲目的に危険のレッテルを貼ることで被る経済的なマイナスのインパクトを想像する力に加えて、その両者の真ん中で危険と経済を両立する手立てはないものかと想像する力も必要なのだろう。これらは全て、ありとあらゆるシナリオを想定し、その中の最悪の事態を回避し、最良ないしは次善の選択肢を選択するために如何にして早め早めに手を打てるのかという課題を考えるとき、その「想像力」がどれ程大切であるかを意味している。
もちろん、今回のデトロイトの件でその「想像力」が何を意味しているのか、何処でどの様な道を歩んでいれば今日のこの事態を回避できるのか、それは専門家でも簡単に答えられないような複雑なものなのだろう。だから、先の原発問題でもその「想像力」を具体化した答えが何であるのかは、それ程簡単であるはずがない。しかし、「反原発」と「原発推進」の両極端の人々は間違いなく、「答えは簡単だ!」と感じているに違いない。韓国や中国に歴史問題を問われ、「取り合えず謝っちまえ!」と考える人も、「答えは簡単だ!」と感じているに違いない。「政権さえ取ってしまえば何とかなる!」と確信していた人々も、その当時は「答えは簡単だ!」と感じているに違いない。だから重要なのは、自分の考えが「ひょっとしたら間違っているかも知れない」という想像力と、相手の主張の誤りを指摘するのではなく「では、どうすれば良いか」という具体的な対案を可能な限り詳細化して示すこと、そして対立する意見がぶつかり何らかの決断が出来ないときにその結果がもたらす不幸な事態を想像する力、これらが必要なのだろう。
多分、そうは言っても、追い込まれないと覚悟が出来ないのが人の性なのだろうが、そうやって見過ごすには余りに大きな出来事であった。
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順番に議論を整理してみよう。市の財政破綻といえば、我々は北海道の夕張市をまず先に思い浮かべるだろう。それまで産業界のエネルギー源の主流が石炭から石油に移り行く中で、大規模な炭鉱事故などをきっかけに大部分の市民が職を失い、それまで石炭で栄えた町が急にゴーストタウンに変わっていく。炭鉱は元々山の中にあるから、夕張などは石炭がなければあれほど栄えることがなかったはずの町であろう。だから、一時的に夢を見たかのように繁栄した町も、炭鉱の廃坑で本来のあるべき姿に戻った感がある。自治体としても打つ手はなく、行政サービスを切り捨てても間に合わず、結果的に財政破綻となってしまった。
「流石に夕張は特別だろう!」と我々は思ったわけであるが、今回のデトロイトの破綻はその様な言い訳がきかない事例だろう。夕張のように山の中の町ではなく、自動車産業がなくてもそれなりに栄えるポテンシャルを持ちえた町のはずである。リーマンショックで景気が冷え込んでGMは倒産したが、その後も地道に復活の道を辿ってきていたはずである。にもかかわらず、今回の財政破綻である。税収は、当然、企業の業績悪化と労働者人口の減少に比例して急激に落ち込むが、行政のサービスレベルを維持しようとすれば、人口の減少とはあまり関係なく支出は概ね維持される。結果的に雪達磨的に財政赤字は膨れ上がる。破綻の確率が高まれば借金の金利が高騰し、あるところで堰を切って雪崩が止まらない状態になったのだろう。
このニュースを聞きながら、私はブルース・スプリングスティーンのMy Hometownという歌を思い出した。私の大好きな歌のひとつである。学生の頃、曲を聴きながら歌詞カードを何度も読み直したことを覚えている。不景気で産業が廃れ、荒廃して治安が悪くなった町から去り行く覚悟を決め、親から子に伝える言葉が「ようく見ておくんだ!これがおまえのHometown」である。親から自分が言われた言葉を、自分もまた子供に伝えなければならないその哀しみ・・・。歌の中でも治安の劣化が繁華街の賑わいを奪うフレーズがあるが、最近のデトロイトでは、発生した犯罪の解決率(つまり、犯人逮捕)が9%程度に落ち込んでいたという。治安の悪さは半端でなく、次から次へと人口の流出がとまらない負のスパイラル状態だったのだろう。
ここで、ひとつ目の教訓は、人口の急激な減少は国家の崩壊につながるという、その縮図を見せられたということであろう。逆に言えば、人口減少に対する歯止め、すなわち少子化対策については少々の禁じ手を使ってでも確実に実行しなければならないということであろう。デトロイトの市政では藁にもすがる思いで税収を上げることに必死であったのだろうが、今となっては「あの時、もっと積極的にあれをやっておけば良かった」と感じるようなこともあるのだろう。その様な政策は、その時は「まだまだ、そこまでやらんでも・・・」と思ったのかも知れないが、雪崩が起きてから悔いても後の祭りである。同様のことは少子化対策についても同じであり、先日、散々ケチョンケチョンに言われた「女性手帳」の導入であるが、私には今日、デトロイト市民が過去に「まだまだ、そこまでやらんでも・・・」と思ってしまったことを悔いている(かも知れない)姿に重ねて見えてしまう。確かに、子供を生むか生まないかは個人の自由だが、もし生むのであれば「人生設計を若いうちから考えた方が良い」と啓蒙することは悪くないはずだ。女性だけに責任を負わせるのが良くないなら、男性にも「男性手帳」を配ればよい。課題があるなら課題に対処すれば良いのであって、アイデアを最初に戻ってチャラにしてしまうという後ろ向きの姿勢は、とても少子化対策を真剣に考えているようには思えない。いつかは結婚という制度そのものに手をつけなければいけないかも知れないときに、高々、「女性手帳」の導入に躊躇してどうする・・・と思うのだが、彼(彼女)らにはその様な危機感を現実のものと感じることができていないのだろう。
この様に書きながら、ふたつ目の教訓が明らかになってくる。それは、「想像力の欠如」という問題である。問題が顕在化し、堰を切って雪崩が起きるようになる前に、その雪崩が起きたときの姿を如何に早く「想像」出来るかどうかが運命の分かれ道なのだと思う。例えば、男女間であれば些細な一言が相手を傷つけ、それまで築き上げてきた愛情や信頼関係が失われて別れてしまうこともあるかも知れないが、その様な言葉を発する人は、その言葉を言った後のことを決して想像できてはいないだろう。例えば、読売新聞からも繰り返し名指しで「誤報である」と指摘される朝日新聞の1992年の慰安婦報道であるが、後に韓国国内で「(慰安婦ネタで)日本政府から金を奪い取ってやる!」と言って金を集めて詐欺罪で逮捕された人々の言葉を十分な裏取りもせずに報道したことに対し、彼らはそれが日本の国益にどの様な影響を与えるかを決して想像できてはいなかったろう。例えば、「予算の組み換えをすれば財源なんて幾らでも出てくる!だから、大盤振る舞いをしても大丈夫!」と言っていた人達も、自分たちが政権を取ったときに何が起きるかを想像など出来ていなかっただろう。勿論、デフレ下で消費税増税したら景気の冷え込みが一層激しくなることの想像力も必要であるが、この期に及んで問題先送りを続けたときの海外のアベノミクスに対する失望がいかほどかと言う想像力も必要である。諸外国はきっと、日本に対して誠意をもって(決して悪意など持っていない)接しているのだから、日本も相手のことを慮って自らを犠牲にしてでも相手のためになる行動を取らなくてはいけないと言う幻想を信じたい気持ちは分かるのだが、もし仮に、相手国が悪意に満ちていて、自らの国益のためには手段を選ばないという考え方で日本に接してきているとしたら何が起きるのか・・・という想像力も必要である。原発に関して言うのであれば、危険を隠して原発を再稼動する真の危険性を想像する力と、目を瞑って全ての原発に対して盲目的に危険のレッテルを貼ることで被る経済的なマイナスのインパクトを想像する力に加えて、その両者の真ん中で危険と経済を両立する手立てはないものかと想像する力も必要なのだろう。これらは全て、ありとあらゆるシナリオを想定し、その中の最悪の事態を回避し、最良ないしは次善の選択肢を選択するために如何にして早め早めに手を打てるのかという課題を考えるとき、その「想像力」がどれ程大切であるかを意味している。
もちろん、今回のデトロイトの件でその「想像力」が何を意味しているのか、何処でどの様な道を歩んでいれば今日のこの事態を回避できるのか、それは専門家でも簡単に答えられないような複雑なものなのだろう。だから、先の原発問題でもその「想像力」を具体化した答えが何であるのかは、それ程簡単であるはずがない。しかし、「反原発」と「原発推進」の両極端の人々は間違いなく、「答えは簡単だ!」と感じているに違いない。韓国や中国に歴史問題を問われ、「取り合えず謝っちまえ!」と考える人も、「答えは簡単だ!」と感じているに違いない。「政権さえ取ってしまえば何とかなる!」と確信していた人々も、その当時は「答えは簡単だ!」と感じているに違いない。だから重要なのは、自分の考えが「ひょっとしたら間違っているかも知れない」という想像力と、相手の主張の誤りを指摘するのではなく「では、どうすれば良いか」という具体的な対案を可能な限り詳細化して示すこと、そして対立する意見がぶつかり何らかの決断が出来ないときにその結果がもたらす不幸な事態を想像する力、これらが必要なのだろう。
多分、そうは言っても、追い込まれないと覚悟が出来ないのが人の性なのだろうが、そうやって見過ごすには余りに大きな出来事であった。
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