けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

責任を取れなければ権限を与えることはできない!

2012-11-08 22:52:32 | 政治
何を今更という話題であるが、田中文科相の新設大学の不認可問題についてひと言、言及したい。結論から言えば、政治責任をどの様に考えるかについて、今一度、問い直してみたいということである。

例えば、不適切な大臣が出てきて問題となったとき、総理大臣は「任命責任は私にある」とあっさりと認めるが、ではその責任に対して何をするかというと全く何もすることはない。その無責任さの典型的な例は、鳩山元総理が起こした普天間騒動だろう。彼は結局、問題をグチャグチャにして辞任したが、ことの重要性からすれば辞任しただけでその責任を取ったことにはならない。結果的に、非常に危険な状態である普天間飛行場の継続使用という最悪の状況が続いている訳で、もし責任を取るというならば、民主党議員から少なくとも十人以上の沖縄基地問題解決の特命チームを結集し、その人たちが少なくとも自民党政権時代と同レベル程度までには事態を快方に向かわせる実効的な行動を取っていなければおかしい。しかし、非常に先行きが不透明でセンシティブな議題なので、政治生命に大きな傷をつけるリスクを考えると、誰一人率先してその様なことをしようとはしない。鳩山元総理しかりである。しかも彼は、時折、忘れたころに沖縄を訪れて火に油を注ぐようなこともしている。つまり例えてみれば、大きな交通事故を起こし、被害者が正常な生活が送れないほどに傷ついた状態で、「私が悪かった。車に乗るのを止めるから許して!」と一方的に禁車宣言して済ませようとしているに近い。その被害者に対して、何らかの補償をする訳でもなく「俺は責任を果たしたぜ!」と自己陶酔している状況である。せめて、議員辞職するぐらいのことをすれば、その責任を感じる気持ちも分からなくもないが、引退すると言っていたことを撤回するぐらいだから、全く責任を取る気持ちがない(というか、総理を辞任した時点で全てがチャラになったと信じている)。彼らは軽々しく「責任」と言うが、その責任は被害者サイドに立った「責任」ではなく、自己中心的な加害者サイドの都合の良い「責任」なのである。世間一般では、この様なものを決して「責任」とは呼ばない。

さて話を戻すと、田中文科相ははっきりと「認可を認めるわけにはいかない!」と公言していたが、後になって「不認可とは言っていない」と言い逃れている。大学関係者が文科省から「不認可の通知を電話で受けた」と問われると、事務方の文科省の官僚が出てきて「私が不認可と伝えた。誤解を与えたのは私の責任です。」と尻拭いまでさせている。多分、官僚側は自分に責任が及ぶのを極度に嫌う人種だから、何度も何度も繰り返し繰り返し、「本当に不認可で宜しいですね?訴訟の可能性もありますが、先方の大学にこの判断を伝えて宜しいですね?」と聞いたはずである。ちなみに、官僚側は、「不認可となれば訴訟問題となり裁判で勝ち目がない」ことを強く認識した上で、強硬に不認可を主張する田中文科相では埒が明かないと諦めて、不認可が公表される前日に、総理官邸にその危険性(訴訟で負けるリスク)を伝えていたと言う。これが内閣官房から藤村官房長官に伝わり、そこでこの無謀な判断に「待った!」をかけるチャンスがあった。しかし、藤村官房長官と田中文科相が電話で不認可について話した際に、別に再考を促した形跡はない。この官僚の行動は悪い言葉で言えば「チクリ」であるから、これは官僚サイドでは事の重大性を熟知していた証拠であり、今回の判断が田中文科相の主張するような「『不認可』ではなく『認可』を一時的にペンディングするという判断」ではない(もっと踏み込んだ「不認可」の)判断であったことは明らかである。

田中文科相は「3つの大学がどの様な大学かは知らない」と公に発言しているわけだから、これらの情報を集約すると、落ち度がない(ないしは落ち度があることを把握していない)大学に対してルールを逸脱して大臣の裁量権を行使したことになる。最終判断は大臣にあるが、大臣が「好き/嫌い」で決めていい訳ではないから、明らかに裁量権の逸脱である。そして、それは少なからぬ関係者に大きな不利益をもたらすものであった。最悪の場合、既に建てた大学の建物が無駄になり、教員予定者が失業し、受験予定者も路頭に迷うかも知れないところだった。経済的な損失も伴うから、損害賠償となれば国民の税金も使われることになっただろう。これら一連の「責任」は、決して小さなものではない。だから、官僚から「本当に良いのですね?」と繰り返し聞かれて「良し」と判断したことには責任が問われるべきである。もちろん、A級戦犯が田中文科相であるのはその通りだが、それを止めることができなかった藤村官房長官も同罪である。問題が発覚して以降の野田総理の無作為と任命責任も同様である。

しかし、田中文科相が委員会の最後で「従来の基準で判断する」と事実上の「認可」発言を発した後、彼女は満面の笑顔で勝ち誇ったように振舞っていた。「3大学は、寧ろこれで有名になった」などと人の気を逆なでするようなことも平気で言っていた。更には、「私の発言が大きな問題提起となって良かった!」と、これが自らの手柄であるかのようにも振舞っている。これは、責任の欠片も感じていないことの証明である。もし仮に責任を感じていれば、「今回は、3大学のことをロクに聞きもせず、勝手にルールを変えて不認可と判断したのは私の誤りでした。大臣の裁量権を逸脱して多くの方にご迷惑をおかけしたことを、ここに謝罪します。つきましては、今後の身の処し方については総理に一任します。」と言っているはずである。

私は、人間である以上は過ちを犯すのは仕方がないと思う。問題は、その過ちを犯した時にその人の真価が問われる。田中文科相しかり、藤村官房長官しかし、野田総理しかり。もちろん、鳩山元総理も菅前総理もしかり。民主党しかりである。民主党の罪深さは、過ちを犯した時の身の処し方である。決して以前の自民党も褒められたものではないかも知れないが、相対的に見て民主党の対応は酷すぎる。先日辞任した田中法務相の退任の理由も病気のせいにしていたし、本当に謝ることを知らない集団である。その様な謙虚さがなければ、犯した過ちを修正して学習することはできない。本来であれば、既に学習しきった有能な人が政権を握るのが前提だから、遅ればせながらの学習に付き合っている暇はないのだが、民主党は付き合ってやっているのに学習すらしない無責任さである。

責任を取れない人には権限を与えることはできない。権限とは政権である。権限を没収するとは解散総選挙である。総選挙を拒むのであれば、せめて責任を痛感する姿を見せてもらわねば困る。どちらもイヤというのは駄々っ子である。良識ある国民が駄々っ子をどう評価するかはまもなく分かるはずである。

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