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礼拝説教、聖書を読んで感じた事

私たちの味方です

2019-11-10 16:34:03 | 礼拝説教
2019/11/10 礼拝説教
【テーマ】  イエスの弟子の影響力
【説教題】 「私たちの味方です」
【聖書箇所】 マルコ9:38-41
9:38 ヨハネがイエスに言った。「先生。あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです。」
9:39 しかし、イエスは言われた。「やめさせてはいけません。わたしの名を唱えて力あるわざを行い、そのすぐ後に、わたしを悪く言える人はいません。
9:40 わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方です。
9:41 まことに、あなたがたに言います。あなたがたがキリストに属する者だということで、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる人は、決して報いを失うことがありません。

○ 今日のテキストを読んであなたはヨハネの考えに賛成ですか? それともイエスの言われたことに賛成ですか? イエスの名を勝手に使い、決してイエスの弟子にならない人達。じゃ、私たちはイエスの弟子になっているのでしょうか?

Ⅰ.怒るヨハネ
A.イエスの名を使っている人がいる
1.まず状況を考えてみましょう。ペテロとヤコブとヨハネがイエスと共に山から降りて来る間に、麓では残っていた弟子達が悪霊追い出しをしようとしたができなくて恥ずかしい思いをしていました。その後、誰が偉いかという話でまた恥ずかしい思いをしていました。そこで、人に仕える者になることを教えられた直後のことです。
2.ヨハネは 先生。あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです。 と言ったのです。自分たちはイエスに着いて行っている弟子だけれど、同じように悪霊を追い出している彼らは着いて来ないと言って怒っているわけです。
3.ヨハネはたいてい兄のヤコブとペテロと共に登場するのですが、ここでは彼が一人で登場します。どうやら、ヨハネが一人で登場するのはここだけらしいです。また、ヨハネは12弟子の中で一番若かったとも言われています。彼はマルコ3:17ではイエスから兄と共に「ボアネルゲ(雷の子)」とあだ名をつけられています。声が大きかったのでしょうか? 突然カーッ!となったのでしょうか? こういう人ですから、イエスに着いて来ないのにイエスの名を使う人達が許せなかったのかも知れません。

B.力ある名を利用していた
1.では、イエスの名を使って悪霊を追い出している人達はどういう人達なのでしょうか? 現代のように科学的医療の無かった時代にはこうした誰かの名前を使うまじないのようなことは珍しいことではなかったようです。この頃あるいはそれ以前のエジプトの医師がまじないでアブラハム、イサク、ヤコブという名を使っていたと記録があるそうです。
2.エジプトに多くの神(もちろん偶像)がいたようですが、それでも効き目がないとユダヤの力ある人の名前まで使ったようです。ですから、イエスの名を使って悪霊を追い出すことができたので、どんどんやっていたのかも知れません。
3.ヨハネはイエスの弟子で無ければイエスの名を使うなという立場でした。しかし、彼らは弟子でありながら悪霊を追い出せなかったのです。妬みなのでしょうか? 雷の子と命名されたヨハネにとってはこうしたことは許せなかったのでしょう。

Ⅱ.寛容なイエス
A.弟子で無くても良いのか?
1.恥ずかしい思いをしてきた弟子達の中でヨハネはやめさせることでイエスからほめてもらおうとでも思ったのでしょうか? イエスもヨハネに賛同して「その通り、やめさせましょう!」とでも言ってくれると思ったのでしょう。
2.ところが、 やめさせてはいけません。わたしの名を唱えて力あるわざを行い、そのすぐ後に、わたしを悪く言える人はいません。 と言われたではありませんか。ヨハネはこのイエスの言葉でガクッときたかも知れません。
3.イエスのために全てを献げて着いてきた自分はもっとイエスから評価されたいと思っていたのではないでしょうか。しかし、イエスの弟子にもならず、ただイエスの名を使って悪霊を追い出している人達を弁護されるような言い方をされるイエス。彼はわからなくなったかもしれません。

B.いや、弟子になることはイエスの願い
1.キリスト教以外の宗教でもイエスの事を尊敬したり、聖書の言葉を使ったりするものがたくさんあります。また、クリスチャンにならないけれど聖書の言葉を大事にしている人もいます。私もかつてヨハネのようにイエスを信じないのならかってに聖書の言葉を使わないで欲しい、とさえ思ったことがありました。しかし、そうじゃ無いんですよね。イエスや聖書が慕われることは良いことだと思います。
2.イエスは確かにイエスの名を使うことを迷惑がりませんでしたが、弟子にならなくて良いとは言われていません。むしろイエスは全ての人がイエスの弟子になることを願っておられるのです。
3.はたして私たちはどうでしょうか? 確かにイエスを信じているし、聖書の言葉も大好きだし、決してイエスから非難されていないかもしれません。しかし、イエスの願っておられる弟子になるという点ではどうでしょうか? イエスの名を使って悪霊を追い出していた人達のように、イエスの名を使って祈るだけの私たちではないでしょうか? 

Ⅲ.優しい人達
A.迫害の中で助けてくれる人達がいる
1.この時点ではまだイエスの弟子達はクリスチャンと呼ばれてはいない時代です。イエスが天に帰られてからは教会ができ、イエスを信じる人達はクリスチャンと呼ばれるようになりました。それはヨハネがボアネルゲと呼ばれたように、「キリストの者」というあだ名でした。ただ、悪口にあたるあだ名です。
2.そのクリスチャン達は迫害を受けるのです。そういう時にクリスチャンではないけれど、クリスチャンを助けてくれる善良な人達がいました。その人たちが報いを受けないことは無いというわけです。そこで、イエスは あなたがたがキリストに属する者だということで、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる人は、決して報いを失うことがありません。 と言われたのです。ある意味、この話は後になってから起こること、予言とも言えます。

B.愛に変えられていく
1.なぜその人たちはクリスチャンに良くしてくれるのでしょうか? それはクリスチャン達の生き様が良かったからです。たとえば使徒2:42-47にはこうあります。 2:42 彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。2:43 すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。2:44 信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、2:45 財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。2:46 そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、2:47 神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。 と。
2.すぐに弟子にならなくても、教会に対して、クリスチャンに対して好感を持ってくれている人がいることはすばらしいことで、その背景はクリスチャンが御言葉に生きている姿があるからです。そして、周りの人にも愛が芽生えてくるのです。

★ 大事なことは何でしょうか。私たちがイエスの弟子になることです。人々に好感を持たれるクリスチャンに成長したいですね。私たちは世の人を敵にしているのでしょうか? それとも味方にしていますか?


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