バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

ヨハネの指し示す人は? 

2014-01-23 07:55:04 | 礼拝説教

2014/1/19礼拝説教(岡山伝道師)
■ テーマ:荒野で叫ぶ者
■ 説教題:ヨハネの指し示す人は? 
■ 聖書箇所:マタイ3:1~12

3:1 そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。
3:2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
3:3 この人は預言者イザヤによって、
「荒野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われたその人である。
3:4 このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。
3:5 さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、3:6 自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。
3:7 しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。
3:8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
3:9 『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
3:10 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
3:11 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。
3:12 手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」

<はじめに>
 今年のメッセージは、まずマタイの福音書から語ることになりました。マタイの福音書は、ユダヤ人のための書物です。まず第一に、ユダヤ人のためにマタイはこの福音書を書きました。イエス様が約束されたメシアであることをユダヤ人に理解してもらうために、マタイは旧約聖書の預言が成就したことを語ります。クリスマスの出来事から簡単に見ると、①イエスが正当なダビデの家系によるメシアの家系であること。②おとめマリヤから生まれ、イザヤの預言を成就していること。④ベツレヘムでの誕生等、多くのメシア預言が成就していること。こういったメシヤの話しから、ユダヤ人たちにまず、福音を伝えようとしました。今日は、このクリスマスの出来事の続きにあたる三章の前半から語ります。

<Ⅰバプテスマのヨハネ>
3:1から、「そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。」バプテスマのヨハネについて、簡単に見ておきます。
1.祭司ザカリヤの息子
 ルカの福音書では、年老いた司祭ザカリヤと妻エリサベツの息子として生まれたことが書かれています。(ルカ1:14)(ルカ1:41)エリザベツのお腹の中にいた頃から母エリザベツと共に、聖霊に満たされていた人です。神様の働きのために、神様はこんな風に生まれる前から人を備えられる方なのです。神様の人に対するご計画は、私たちが世に生まれる以前からあることを教えられます。皆さんの人生も神様は、この世に誕生する前からご計画を持っておられるのです。

2.ヨハネの人物像
また、イエス様はヨハネについて次のように話されました。(ルカ 7:28)言うなれば、人類の中でもっとも偉大な人だというのです。ヨハネの偉大さはその働きの中に見られます。いなごや野蜜を食べるなど野外で暮らし、世と分離した質素な生活をしています。キリストに対するへりくだった態度、それでいて人々にはへつらわない。彼の訴えは、多くの人々の心の中に突き刺さり、悔い改めさせ、バプテスマ、つまり洗礼を受けに来させました。こういったところから、ヨハネは神様の栄光だけを求めた人だと言えるでしょう。

2.ヨハネの使命
ヨハネはメシアの前に遣わされる預言者として特別な存在でした。旧約時代の最後の預言者として立てられ、新しい時代への橋渡しをする人でした。イエスがメシアであることを証明するために、無くてはならない預言が旧約聖書の最後にあります。それはエリヤの来臨です。(マラキ 4:5)ヨハネは、エリヤのような存在として登場すると予告されています。また、エリヤの姿と言われる理由として、Ⅱ列王記1章に出てくるエリヤの姿に似ているというわけです。エリヤも「毛衣を着て、腰に皮帯を締めた人でした。」とあります。また、ヨハネもエリヤのように、妥協のない説教をして、腐敗していた支配者に立ち向かった人でした。

ヨハネという人物が、いかに、重要な使命を神様から委ねられていたかが、分かります。バプテスマイエス様が来られることを預言者たちは、何百年も前から語ってきました。バプテスマのヨハネがキリストの来られることを前もって布告する先駆者でした。
彼は、イザヤの預言にある通り、語る者、荒野で叫ぶ声として、人々の心を真っ直ぐにしなければならなかったのです。悪の道から立ち返って、主の道を歩むために、メシヤへと橋渡しをする役割だったのです。バプテスマのヨハネが旧約の預言者たちと違うのは、イエス様と直接出会っているということです。そのため、ヨハネは本当のメシヤを現実に指し示すことが出来たのです。

<Ⅱヨハネのメッセージ>
バプテスマのヨハネという人物を見ましたが、このヨハネには、人々へのメッセージがありました。どのようなメッセージを語ったのでしょうか?

1.悔い改めよ、天の御国が近づいた!
3:2には、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と、ユダヤの人々に叫んでいます。
彼は、人々に悔い改めることを呼びかけました。「悔い改める」とは、「思いを変える」という意味です。つまり、自分が今まで行ってきたことを悔いて、思いを変えて、行いを改めることです。先ほどヨハネはエリヤのような人物として現れることを語りましたが、しかし、聖書から読むと、エリヤのように天から火を呼んだり、人を生き返らせた箇所は見られません。ヨハネは説教を通して人々に悔い改めを迫る使命を持っていました。また、3:5~6から、ユダヤ全土から人々がヨハネのもとに来たというのですから、これは一つのリバイバルという型を見ます。人々をヨハネのもとに導いたのは、神様であります。神の霊と力、神の言葉で満たされて、それを高らかに発する時に、主は人々をそのところへと導かれるのだと分かります。また、「天の御国が近づいたから」という言葉には、「神の国」「神の国の福音」の訪れであり、メシヤの到来を指しています。御国は悔い改める者のすぐそば近くにあるのです。ヨハネの「悔い改め」とは、主を迎えるための備えなのです。

2.パリサイ人たちに対して
 (3:7)
・パリサイ人;律法に熱心で、律法を守ることを主張し、律法を守らない者を罪人として非難した人々。
・サドカイ人;大部分が祭司階級や上層階級出身。ユダヤ最高議会サンへドリンの多数派でもあった。

ここを読みつつ、ヨハネは何故、ここまで避難するのかと思いますが、このパリサイ人たちは、バプテスマを受けるためではなく、ヨハネを偵察するために、エルサレムの指導者たちから遣わされて、群衆に交じって来ていたと思われます。つまり、純粋な神への回心者ではないと行っているのです。(ルカ3:7)また、アブラハムの子孫、選民であることにあぐらをかき、神の前にへりくだろうとせず、彼らが人々を滅びへと導いているからです。ヨハネもイエス様も、彼らの心の内側にある高慢と愚かな考え違いを徹底的に非難しておられるのです。
神を知り、神を信じる人々の内からまず、悔い改めの言葉が語られているのです。神を信じる者は、いつしか神様のご愛を忘れて、自分は素晴らしい者だという高慢さが出てくるのです。ですから、私たちクリスチャンたちも心の内をいつも探られていなければなりません。

3.キリストの証し人
 (3:11)ここでヨハネは、「その方」という人物を紹介しています。「その方」とはイエス様のことです。民衆は、ヨハネをメシヤではないかと思ったとされますが、しかし、ヨハネはメシヤとは全く違う存在であると言っています。ヨハネは神のことばを語る預言者であり、メシヤを人々に指し示す存在であり、主の道備えをする人でした。「自分よりも力ある方であり、その方のはきものを脱がせてあげる値打ちもない」とも言いました。これは、イエス・キリストが私たち人間の次元をはるかに超えた存在であることを表しています。
そして、「その方は、あなたがたに聖霊と火のバプテスマをお授けになります。」と言って、ヨハネはイエス様のことを「聖霊と火によるバプテスマを授けるかた」と紹介しています。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、イエス・キリストは聖霊と火でバプテスマを授けられます。バプテスマとは、「浸す」という意味があり、「火のバプテスマ」とは、神の霊が注がれることを意味します。私たちは、イエス様を信じると聖霊が内在して下さいますが、この聖霊によって強められ、火によって罪を燃やし清めていただくのです。聖霊降臨の時に人々の上に炎の舌のような聖霊がくだり、イエス様を信じる者は、聖霊を宿し、三位一体の神との積極的な交わりへと招き入れられました。その時から、私たちはヨハネのようにイエス様の証し人として、世に向かって十字架による救いの宣言が委ねられたのです。ですから、私たちも荒野における主の十字架へと人々を導く声でありたいと思います。

*

<Ⅲさばきについて>
(3:12)ここには、神のさばきが書き示されています。これは、神様を信じない人々への警告を語っているものです。悔い改めない者には神のさばきがあるのだということ、これは聖書が明確に教えていることです。麦を倉に収め、もみがらを激しい火で焼き尽くすのです。恐ろしいさばきのたとえです。ヨハネのこの言葉はさばきということが大きくクローズアップされた内容であり、これは、バプテスマのヨハネの説教の大きな特徴と言えます。しかし、単に神様のさばきだけに目を留めず、神様はさばき以前に神の赦しという神の愛へ私たちを導きたいのだということを知る必要があります。キリストへの信仰は、私たちを愛してやまない神をまず知らなければならないということです。(ヨハネ3:16)神様との関係の回復こそが、私たちの永遠なる祝福の扉なのです。

<結び>
 神様の言葉は、荒野で叫ばれました。荒れ野を経験しない人生はありえないのです。この荒野に入ったとき、むしろ荒れ野によって「悔い改め」があり「神の救い」があるのではないでしょうか。私たちは、荒れ野で言葉を掛けてくださる神によって生きるのです。
また、我々、クリスチャンたちの指は、いつも人々に対して、イエス様を指し示していなければならないのだと教えられます。私たちが指し示し続ける方はイエス様なのです。指し示す指を作ってみてください。たった一本の指です。二本も三本の指でもありません。この一本だけの指が示すその方、イエス様に私たちの心はいつも集中しなければならないのです。クリスチャンも、まだイエス様が十分に信じられない人も皆、神様の指が指し示す方、イエス様への信仰を揺るがないものにして頂きたいと思いましょう。荒野で叫ぶ声と、主がいつも指し示したお方に霊において敏感な者でありたいと思います。神様への心からの悔い改めとは、生きた神へと向かうこと、神さまの働きかけによって回復された関係へと招かれることであります。悔い改めの呼びかけによって、神様との積極的な交わりに迎え入れられます。そして一層、神様に信頼をしてイエス様と共に今年も前進していきましょう。


最新の画像もっと見る