2013/11/3WS礼拝説教
【テーマ】 幸せな人
【説教題】 「悲しむ人への福音」
【聖書箇所】 マタイ5:4
5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。
○ 10月には「貧しい人が幸いだ」というイエス様の言葉を語りました。今日は「悲しむ人が幸い」というこの部分だけ見てみます。
Ⅰ.人には言えない言葉
A.常識ではない言い方
1.今日の聖書箇所を詳訳聖書で見ますと「悲しむ者は祝福されている〈うらやましいほど幸福である〉〔その幸福は神の愛顧の経験から生じたもの、特に神の比類のない恵みの啓示によって与えられたものである〕。なぜなら、その人たちは慰められるからである。〔イザヤ61:2〕」と訳しています。
2.また、ある人が原典に従って訳したというものでは「おめでとう、今泣いている人々」とありました。
3.いずれにしても、イエス様が言われるのは世の常識的な言い方と異なります。
B.慰めの言葉も出ない
1.悲しんでいる人とはどんな人でしょうか? 家族を失った人達、それも、予期しない事故、自然災害などで失った人々というのはどのような悲しみでしょうか。ましてや、子どもを失った母親の悲しみはどうでしょうか。
2.私は牧師になったために、そうした悲しみの中にある人達のところに行くことも少なくありません。そういう状況では何と言っていいのか、慰めの言葉を探しても見つからないものです。ましてや「悲しんでいることは幸いですよ」などとは言えたものではありません。
3.子育ての会にお友だちに連れられてきた若いお母さんがおられました。小さな男の子のお母さんです。何度かお出でになっていたのですが、ある日、その男の子が突然死してしまったのです。その方の悲しみはすごく、誰も慰められませんでした。
Ⅱ.神だから言える言葉
A.慰めが語れない
1.加藤常昭先生はこの箇所を説教された時、「これは人間には不可能な言葉です。誰にも語れない言葉です。誰にも書けない言葉であります。たったひとりの方を除いては、口にするのも許されぬ言葉だと、私は思います。聖書はこのような言葉を書き記しているという、それだけの理由においてでも、まことに偉大な書物と言いうると、私は思っています。なぜかと言えば、このような言葉が、人間の手によって記されたことそれ自体が奇跡としか思えないからであります。もとより、そのようなことを語りうる方がおられたということが、奇跡だからであります」と言っておられます。
2.私も同感です。軽々しく、悲しんでいる人に「悲しんでいる人は幸いです」などと言えたものではありません。たとえ、子どもを失った方に、「天国で会えますよ」と言えたとしても、私たちの言葉はやはり大したものではありません。
3.天国を信じている人ならばまだしも、クリスチャンで無い人であれば、「天国」と聞いても、果たして慰められるのでしょうか?
B.イエス様が語れる理由
1.そう考えると宗教のありがたさを感じます。人間をお造りになった神様こそがその正しい解決をご存知だということです。だからこそ、イエス様だけがこの言葉を語ることができるのでしょう。
2.イエス様は ヨハネ11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」 と言われましたが、これは私たち人間には言えない内容です。イエス様だけが言えることです。
3.復活という特別な出来事が、悲しむ人にも幸せを与えることができるのです。ですから、人間にはできないことで、イエス様だけができることなのです。
Ⅲ.神だけが悲しみの意味を知っている
A.イエス様は悲しみの人
1.悲しむ人が必ずイエス様に出会うとは限りませんが、イエス様に出会う、イエス様の言葉を聞くと人は真に幸せになるのです。悲しみにある人が、悲しみ故にイエス様に会うことがあります。
2. 悲しむ者は幸いです。 と、言われたイエス様は全ての人の悲しみを受け入れた方です。 イザヤ53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。 と、預言された方です。
3.人は他の人の気持ちを理解しきることはできません。でも、神様であるイエス様だけはできるのです。イエス様は全ての人の悲しみを完全に分かっておられるのです。 悲しみの人 とはそういうことなのです。
B.イエス様は慰めることができる
1.人は確信が無くてもとりあえず慰めの言葉を語りやすいものです。しかし、イエス様は本当に人を慰める力をお持ちなのです。
2.イエス様に心を開いた時、それは始まるのです。本当に不思議に慰めを得るのです。
C.この地上を越える慰めがある
1.この地上のことを超えた世界で、イエス様は完全な慰めを行われるからです。黙示録21:3 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、 21:4 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 と。
2.天国に帰らないと本当には実感できないかも知れませんが、私たちの信仰が成長すると、この地上にあってもそれが実感できるのです。
● 私の祖母はリウマチで若い時から痛みだらけの体で寝ていることが多い人でした。夫を早くに失い、子ども二人を抱えて余計に体を痛めたのです。私の母の兄(伯父)は、夜学に通い貧しい家庭を助けながら、祖母の治療費を稼ごうとしました。もちろん満足な治療は受けられず、私が知っている祖母はたいてい寝ていました。その祖母がひとりで北海道のアパートにいた時、痛みで起き上がれず、寝返りも打てなかった時、ただただ悲しくて「神様」と言って泣いたのです。ところが、不思議な感覚、つまり神の臨在が祖母を覆ったのです。祖母は「もったいのうございます。こんなはしための私のそばにおいでくださるなんて」と。明らかに背中の方にイエス様がおられるのがわかったそうです。でも痛くて振り向けないのです。「もったいのうございます」を繰り返し、悲しみの涙が感謝と喜びの涙に変わっていました。近所に住み、祖母のことを毎日見てくださっていたクリスチャンの方が、その日も見に来てくださいました。「おばあちゃん、元気?」の次の言葉は「どうしたの? おばあちゃん、顔が輝いてる!」と叫んで、飛び出し、友人を呼び集めたのです。祖母は神様の慰めで変えられていたのです。
★ 悲しんだ人にしかわからないものがありますが、イエス様はそれさえご存知で、しかも、言葉無しにでも悲しむ人を慰めることができるお方です。