2013/7/28礼拝説教
【説教題】 「患難を喜べるか?!」
【聖書箇所】 ローマ5:1-11 ②
5:1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
5:2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
5:6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
5:7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
5:9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
5:10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。
5:11 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。
○ 人生で試練の無い人はまずいないのではないでしょうか。私の知っているあるおばあちゃんは「クリスチャンになる前もクリスチャンになってからも試練らしい試練がないのです。私は試練を与えてくださいと祈っているのです」と言われたことがあります。その結果、試練がやって来たのです。はじめは「あんな祈り、しなければよかった」と言われたのですが、試練の中でこのおばあちゃんの信仰は確実に成長しました。よく祈られるようになりました。
今日のテキスト3節にパウロは 患難さえも喜んでいます と言っていますが、本当に喜べるのでしょうか?
Ⅰ.患難は簡単に喜べるものでは無い
A.患難から救われたい
1.苦しみ・患難を望む人はそうはいないと思います。苦しみから、患難から逃れたくて宗教に入るという人がむしろ多いのではないでしょうか?
2.現に色々な宗教のうたい文句に「この宗教に入れば問題は解決する。病気は治る。仕事は上手くいく。人間関係は回復する。・・・」といくつも良いことを並べているものがあるではありませんか。また、そのチラシの中に体験談が載っていて「私はここに来たお陰で、息子の不登校が治りました」とか「癌が消えました」とか「仕事がうまくいくようになりました」等々人々の関心を引くことが書かれ、すばらしい笑顔の写真が載っていたりするのです。
3.人々は患難から救われたいのであって、患難を望んでなんかいないのです。
B.パウロは喜んでいると言うが・・・
1.ところが前に語りましたように、パウロは神様と和解して神様との平和を持っている、そして、 神の栄光を望んで大いに喜んでいます と言いました。その上で、 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。 と言うのです。
2.なぜそう言えるのか? それに続く言葉を見ましょう。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。 とあるのです。確かに患難によって、品性に磨きがかかることはわかります。だからと言って患難を喜べるのでしょうか?
3.このパウロの言っていることを理解できる人はどれくらいいるのでしょうか? 理屈の上ではわかってもなかなか実際的に患難を喜べる人は少ないでしょう。
Ⅱ.信仰は患難を喜べるようにする
A.イエス様とパウロの言葉から考える
1.イエス様の語られた言葉を見てみましょう。ヨハネ16:33 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」 とあります。私たちはこの世にあっては患難があるものなのです。6月30日に召天者記念礼拝をし、私たちの国籍は天にあると語りましたが、患難のないのは天国です。私たちはこの世にあっては寄留者であって、患難があるのです。
2.パウロはルステラの町で石打ちにされて瀕死の状態になったときにもこう言っています。 使徒14:22 弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」と言った。 と。私たちの本来の居場所である神の国に入るには患難があるのだと言うのです。
B.根を張った信仰が人を変える
1.私たちも、イエス様の時代の人も同じように、信仰することで良いことが起こり、患難も逃げていくと思いやすいのです。が、イエス様の種蒔きのたとえ話で岩地に蒔かれた種の説明ではこう言われています。 マタイ13:21 しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます と。根がないことは問題です。良い地に根を深く張るのが真の信仰者だということですから、パウロも言いたいのはこのところでしょう。 患難さえも喜んでいます と言えるのはこのあたりにあるようです。
2.イエス様は山上の説教でこう言われたのです。 マタイ5:10-12 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。 喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。 喜びなさい。喜びおどりなさい と。イエス様の言われたことをパウロはよく理解していたようです。頭の理解を超えて、体験的、信仰的にです。
Ⅲ.患難を喜べる信仰はどこから?
A.聖霊に満たされた信仰から来る喜び
1.現実にこの患難、試練は肉体的、精神的なことが多く、辛さを実感するものです。それをパウロが「喜ぶ」と言えるのは、イエス様の苦しみが霊的なもの、想像の苦しみではなく、実際にむち打たれ、釘付けの苦しさを味わわれたものだからです。
2.そして、パウロはそれを頭、肉で理解したのではなく、神からの信仰でわかったのです。私たちが「信仰」と一言で言っているものに、人間の知識領域だけの「信仰」がありますが、神様が与えてくださる信仰があるのです。聖霊が私たちに満ち溢れて働く信仰です。
3.聖霊に満たされた信仰は、イエス様を通して、神様と和解し、平和をいただき、イエス様と一心同体にされたことを激しく喜べるのです。イエス様の苦しみをも感じることで更に喜べるというのです。だから ピリピ1:29 あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。 と言うのでしょう。
B.痛みを感じながらイエス様を思う
1.私は特に右目が悪いです。何度もはっきり見える目に変えられるように祈りました。しかし、この目が見えにくくて苦労する度に、右目が失明しかけて、それによってクリスチャンになったことを思い出すのです。見えにくいことでイエス様の救いのすばらしさを忘れないでいられるのです。喜べるのです。
2.まだまだパウロのようにスカッと喜べていないかも知れません。しかし、パウロと同じく、「こんな私を救ってくださった。感謝でいっぱいだ。喜びだ」と思えるようになったのです。
3.東京に来てからは、体のあちこちで痛みを感じましたが、確かにイエス様の十字架の苦しみはこんな程度では無かったのだと不思議な喜びさえ感じたのです。
★ さらに色々な患難が来ても信仰がダウンすること無く、むしろそこに神様の大きな働きを感じて、先取りして喜びが湧き溢れるならどんなにすばらしいでしょう。聖霊に満たされた信仰で患難をも喜べる者になりたいものです。