2022/9/4 礼拝説教
【テーマ】 罪の重さととりなしの祈り
【説教題】 「十戒の石の板が砕かれる」
【聖書箇所】 出エジプト記32章
32:1 民はモーセが山から一向に下りて来ようとしないのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。」
32:2 それでアロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪を外して、私のところに持って来なさい。」
32:3 民はみな、その耳にある金の耳輪を外して、アロンのところに持って来た。
32:4 彼はそれを彼らの手から受け取ると、のみで鋳型を造り、それを鋳物の子牛にした。彼らは言った。「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ。」
32:7 【主】はモーセに言われた。「さあ、下りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまった。
32:31 そこでモーセは【主】のところに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯しました。自分たちのために金の神を造ったのです。
32:32 今、もしあなたが彼らの罪を赦してくださるなら──。しかし、もし、かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください。」
○ 十戒に「偶像を造ってはならない」とありますが、私たちのまわりにもどれくらい偶像はあるのでしょうか。皆さんは偶像を造ったことはありませんか? 神以上に大事にするのものは偶像となります。
Ⅰ.不安が偶像を造る
A.指導者がいない不安
1.モーセが神に呼び出されて長い日数が過ぎました。イスラエルの民はモーセは死んでしまったのではないかと大変不安になりました。指導者がいないとこれからどうしてよいのか検討がつきません。彼らはエジプトで生まれ育ち、こんな荒野の生活には慣れていません。もうエジプトには戻れないと思うもののどうしてよいかわからないという不安です。まるでイエスが十字架に架けられた後の弟子達のようです。
2.イスラエルの民の不安は自分たちを導く神を求めることになりました。しかし、それは目に見えない唯一まことの神ではなく、見える偶像、しかもエジプトで見てきた子牛像でした。うやうやしく造るために金の像にしました。キンキラにすると御利益があるように見えるのでしょうね。
B.人が偶像を造りたくなる
1.私たちの周りにある偶像もうやうやしく造られているものです。また立派に造られています。人々の心が惹きつけられるように造られています。人は不安になると何かに頼りたくなるのでは無いでしょうか? お守りがたくさん買われていくのもそういうところにあるのです。宗教もその一つに挙げられます。
2.人が不安になるのはある面で仕方のないことです。人は完全ではないし、一人では生きていけないという存在です。誰か自分よりも力のあるものに頼りたいという思いがあるものです。それは否定できませんが、どういうわけか偶像を造ってしまうのですね。
Ⅱ.偶像に頼る堕落
A.恵まれた状況から一変して
1.40日間も神と共に過ごすというすばらしい場所にいたモーセでした。そして神みずから十戒の石の板をいただくというすごい場面ではないでしょうか。そんな恵まれた状況にいたモーセに神が言われたのは民の堕落でした。信じられない思い、なんとショックだったことでしょう。
2.信じられない思いで戻ったモーセが見たのは金の子牛の像が祀られているところでした。モーセはあの神と過ごした何とも言えない聖い40日間が一瞬にして消えていく思いだったでしょう。
B.十戒の板が砕かれた
1.モーセは民のこの堕落ぶりに腹が立ち、怒りが込み上げました。そして、せっかく神がこの民のためにくださったすばらしい十戒を民は無にしてしまったことに神に対して申し訳ない思いと、民に対する怒りで、この十戒をいただく資格そのものがないと思い、十戒の石の板を投げつけて砕いてしまうのです。
2.このイスラエルの民は神に大きな罪を犯し、モーセは神から見放されてしまったと感じたのではないでしょうか。
Ⅲ.モーセのとりなし
A.神の元へ行く
1.怒ったモーセですが、「もうやってられない」と彼らのところから逃げたのではなく、彼は神のところへと行くのです。大問題があっても逃げるのではなく、神の元へ行くべきなのです。民は偶像に向かいましたが、モーセは神に向かったのです。
2.そしてとりなしをします。その箇所をもう一度読んでみましょう。 「ああ、この民は大きな罪を犯しました。自分たちのために金の神を造ったのです。 今、もしあなたが彼らの罪を赦してくださるなら──。しかし、もし、かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください。」 と、神の赦しが得られないのなら、自分の名前を消してくださいというのです。これこそがとりなしです。
B.私の命に代えて
1.私たちは「とりなしの祈りをしましょう」と気楽に言いやすいですが、自分の命と引き換えにしてくださいというほどの祈りなのでしょう。
2.イエスの十字架のわざこそがとりなしなのです。ゲツセマネでイエスは祈られました。十字架を無しにして欲しいと。しかし、神のみこころを受け入れると。そして十字架上でイエスは ルカ23:34 「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」 と、このとりなしの故に私たちは赦されたのです。
3.十戒の石の板はモーセの怒りと神への申し訳なさで砕かれましたが、イエスの体は私たちの罪の身代わりとして砕かれました。それによって私たちに救いが与えられたのです。
● 私たちはとりなしの祈りをさせていただきますが、その祈りさえ私たちの力ではありませんね。イエスが身代わりになってくださったという実績の元私たちのような者の祈りを聞いてくださり。誰かのためにとりなすことにおいても聖霊はその祈りに力をくださるのです。
★ 十戒はモーセが持っていった石の板に改めて神が書き込んでくださいました。それがなくては神とイスラエルの関係はなくなるのです。私たちには砕かれたイエス、しかし、復活されたイエスがおられるので、完全な救いをいただいています。感謝し、私たちもとりなしていこうではありませんか。
【テーマ】 罪の重さととりなしの祈り
【説教題】 「十戒の石の板が砕かれる」
【聖書箇所】 出エジプト記32章
32:1 民はモーセが山から一向に下りて来ようとしないのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。」
32:2 それでアロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪を外して、私のところに持って来なさい。」
32:3 民はみな、その耳にある金の耳輪を外して、アロンのところに持って来た。
32:4 彼はそれを彼らの手から受け取ると、のみで鋳型を造り、それを鋳物の子牛にした。彼らは言った。「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ。」
32:7 【主】はモーセに言われた。「さあ、下りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまった。
32:31 そこでモーセは【主】のところに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯しました。自分たちのために金の神を造ったのです。
32:32 今、もしあなたが彼らの罪を赦してくださるなら──。しかし、もし、かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください。」
○ 十戒に「偶像を造ってはならない」とありますが、私たちのまわりにもどれくらい偶像はあるのでしょうか。皆さんは偶像を造ったことはありませんか? 神以上に大事にするのものは偶像となります。
Ⅰ.不安が偶像を造る
A.指導者がいない不安
1.モーセが神に呼び出されて長い日数が過ぎました。イスラエルの民はモーセは死んでしまったのではないかと大変不安になりました。指導者がいないとこれからどうしてよいのか検討がつきません。彼らはエジプトで生まれ育ち、こんな荒野の生活には慣れていません。もうエジプトには戻れないと思うもののどうしてよいかわからないという不安です。まるでイエスが十字架に架けられた後の弟子達のようです。
2.イスラエルの民の不安は自分たちを導く神を求めることになりました。しかし、それは目に見えない唯一まことの神ではなく、見える偶像、しかもエジプトで見てきた子牛像でした。うやうやしく造るために金の像にしました。キンキラにすると御利益があるように見えるのでしょうね。
B.人が偶像を造りたくなる
1.私たちの周りにある偶像もうやうやしく造られているものです。また立派に造られています。人々の心が惹きつけられるように造られています。人は不安になると何かに頼りたくなるのでは無いでしょうか? お守りがたくさん買われていくのもそういうところにあるのです。宗教もその一つに挙げられます。
2.人が不安になるのはある面で仕方のないことです。人は完全ではないし、一人では生きていけないという存在です。誰か自分よりも力のあるものに頼りたいという思いがあるものです。それは否定できませんが、どういうわけか偶像を造ってしまうのですね。
Ⅱ.偶像に頼る堕落
A.恵まれた状況から一変して
1.40日間も神と共に過ごすというすばらしい場所にいたモーセでした。そして神みずから十戒の石の板をいただくというすごい場面ではないでしょうか。そんな恵まれた状況にいたモーセに神が言われたのは民の堕落でした。信じられない思い、なんとショックだったことでしょう。
2.信じられない思いで戻ったモーセが見たのは金の子牛の像が祀られているところでした。モーセはあの神と過ごした何とも言えない聖い40日間が一瞬にして消えていく思いだったでしょう。
B.十戒の板が砕かれた
1.モーセは民のこの堕落ぶりに腹が立ち、怒りが込み上げました。そして、せっかく神がこの民のためにくださったすばらしい十戒を民は無にしてしまったことに神に対して申し訳ない思いと、民に対する怒りで、この十戒をいただく資格そのものがないと思い、十戒の石の板を投げつけて砕いてしまうのです。
2.このイスラエルの民は神に大きな罪を犯し、モーセは神から見放されてしまったと感じたのではないでしょうか。
Ⅲ.モーセのとりなし
A.神の元へ行く
1.怒ったモーセですが、「もうやってられない」と彼らのところから逃げたのではなく、彼は神のところへと行くのです。大問題があっても逃げるのではなく、神の元へ行くべきなのです。民は偶像に向かいましたが、モーセは神に向かったのです。
2.そしてとりなしをします。その箇所をもう一度読んでみましょう。 「ああ、この民は大きな罪を犯しました。自分たちのために金の神を造ったのです。 今、もしあなたが彼らの罪を赦してくださるなら──。しかし、もし、かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください。」 と、神の赦しが得られないのなら、自分の名前を消してくださいというのです。これこそがとりなしです。
B.私の命に代えて
1.私たちは「とりなしの祈りをしましょう」と気楽に言いやすいですが、自分の命と引き換えにしてくださいというほどの祈りなのでしょう。
2.イエスの十字架のわざこそがとりなしなのです。ゲツセマネでイエスは祈られました。十字架を無しにして欲しいと。しかし、神のみこころを受け入れると。そして十字架上でイエスは ルカ23:34 「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」 と、このとりなしの故に私たちは赦されたのです。
3.十戒の石の板はモーセの怒りと神への申し訳なさで砕かれましたが、イエスの体は私たちの罪の身代わりとして砕かれました。それによって私たちに救いが与えられたのです。
● 私たちはとりなしの祈りをさせていただきますが、その祈りさえ私たちの力ではありませんね。イエスが身代わりになってくださったという実績の元私たちのような者の祈りを聞いてくださり。誰かのためにとりなすことにおいても聖霊はその祈りに力をくださるのです。
★ 十戒はモーセが持っていった石の板に改めて神が書き込んでくださいました。それがなくては神とイスラエルの関係はなくなるのです。私たちには砕かれたイエス、しかし、復活されたイエスがおられるので、完全な救いをいただいています。感謝し、私たちもとりなしていこうではありませんか。