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礼拝説教、聖書を読んで感じた事

だから、決して失望しない

2013-08-18 17:49:44 | 礼拝説教

2013/8/18礼拝説教
【テーマ】   神の栄光を見る希望
【説教題】  「だから、決して失望しない」
【聖書箇所】 ローマ5:5
5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

○ 「希望」という言葉は人名にも使われ、大変美しく、私たちを励まし、心を躍動させる言葉だと思います。では、私たちはこの聖書が言うところの希望を持っているでしょうか?

Ⅰ.神の栄光を見る希望をもつ
  A.心のきよい者は神を見る
    1.希望というのは失望に終わらない希望で無ければ虚しいです。砂漠を旅していた隊商が蜃気楼を見て、あそこまで行けばオアシスがあると思い希望を持つのですが、近づくとフッと消えてしまうのです。蜃気楼に望みをかけただけに落胆も大きいのです。これは「希望は失望に終わる」なのです。
    2.クリスチャンは蜃気楼のような実体の無い希望では無く、実体を見る希望を持っています。パウロが希望と言っているのは、神の栄光をまざまざと見ることを言っているのです。確かにいずれ天に帰ると私たちは神を直に見るという希望があります。
    3.マタイ 5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。 と言われているように、イエス様を信じるだけですべての罪人が義と認められて、聖いものとされるのです。クリスチャンは神を見るのです。
   
  B.イエス様の栄光を見る
    1.イエス様は ヨハネ17:24 父よ。お願いします。・・ あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。 と祈られました。地上において、イエス様は仕える者の姿をとっておられ、イエス様の真の姿、栄光の姿を弟子たちも見てこなかったのです。
    2.ペテロ達3人がイエス様の栄光の姿を見たところがあります。 マタイ17:2 そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。 です。その栄光のすばらしさにペテロは感動して、「幕屋を造ります」と言っているくらいです。
    3.イエス様が父なる神に祈られたのは、私たちがイエス様の栄光を見ることです。聖書にもイエス様の栄光を見た人は少ししか登場しませんが、彼らはこの地上にあって神の栄光、イエス様の栄光を見ているのです。
   
  C.ステパノは神の栄光を見た
    1.初代教会がどんどん成長していた時、ステパノが殉教します。その時の事がこう記されています。使徒7:55-56 しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」 と。ステパノはユダヤでは恥であった石打で殺されたのです。ところが聖書はそのステパノを 聖霊に満たされていたステパノ と言っているのです。
    2.当時の人々の目には、キリスト教が弱々しく感じられる出来事では無かったでしょうか? 無抵抗に殺されていくのです。しかし聖書は ロマ 8:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。 と勝利者というのです。
    3.ステパノはその死に行く時にも、微笑むことができたのはなぜかというと、神の栄光とイエス様を見たからです。私たちの希望は必ず神の栄光を見ることができるということです。


   
Ⅱ.福音を恥としない信仰をもつ
  A.力強いはずのキリスト教だが・・・
    1. この希望は失望に終わることがありません は「この希望は恥をかかせません」とも訳すことができます。恥という言葉はこのローマ書の初めの方に出てきています。それは ロマ1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。 です。
    2.ペンテコステの日からキリスト教会は急激に成長しました。そこには不思議と奇跡が起こり、まさに力強い、他の宗教と比べてはるかに格好良ささえ感じさせたのです。
    3.ところが、ステパノの事件のように、ただ殺されていくようなキリスト教では何の力も無い、と思えるような出来事が出てくるのです。

  B.テモテに「恥じてはいけません」と教える
    1.パウロはテモテにこう書き送っています Ⅱテモ1:8 ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。 と。テモテはどうやら、囚人となっているパウロのことで「恥じ」との戦いをしていたようです。
    2.クリスチャンに対する迫害が増え、教会内部の問題も起こり、一般の人々には「使徒と呼ばれる人が囚人になっている、しかも体も弱っている」といわゆる証にならない、伝道の妨げになると思われるような状態になっていたからです。
    3.そのテモテに対してパウロがこの手紙を書き送っているのです。 むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。  とあるように、福音のために苦しみが伴うことも教えているのです。
   
  C.自分の救いを誇ってよい
    1.信仰者は病気に打ち勝ち、迫害にもめげず、どんどん突き進み、不思議がどんどん起こって、人々の目を引きつけるかと思いやすいのですが、パウロはその病気?も治らず、囚人にされてダイナミックさを感じさせないわけです。
    2.私たちも時として、奇跡的なことも起こらず、他の宗教がしているすごいことに何も言えなくなり「クリスチャンです」と言うこと自体が恥ずかしく感じる人もいらっしゃいます。
    3.しかし、私たちは空想上の救いを得たのではありません。知識だけの救いを得たのでも無いのです。「私は救われた」という完璧な事実です。そのことを忘れはしないでしょうが、もっと誇っていいのです。それがイエス様のなさったことだからです。福音は恥では無いのです。


   
Ⅲ.神の臨在の中で生活する
  A.神様によってヨブは希望を得た
    1.私はこのテキストからヨブを思い出しました。大きな苦しみを味わっているヨブのところに友人がやって来ます。彼らはヨブを励まし、助けようとして来たのですが、ヨブの状態のひどさを見て、これは明らかにヨブが大きな罪を犯したためだと思い、一見正しいことを言うのですが、的外れなことを言ってヨブをさらに苦しめることになりました。彼らはヨブが元気になる希望を持ってきたのですが、その姿に反対に絶望したのです。
    2.一方、ヨブは友人のきつい言葉に反論していくのですが、彼には神による希望があるのです。まさに患難の中で忍耐、練られた品性、が生み出され、希望を生み出すのです。そして、その希望は現実となり、ヨブは神様から大きな祝福をいただくのです。
    3.人の目には、人の考えでは、患難や試練に希望が見いだせなくなるかも知れないのですが、希望は神の栄光を見ることです。自分の力で見るのでは無く、神様によって見せていただくのです。自分の力で救われたので無いように、自分の力で見るのでは無いのです。
 
  B.神の臨在は私たちに希望を与える
    1.現代は大人も子どもも希望が持てない時代になってきました。しかし、幻覚では無く、神を見ることの希望は私たちに与えられているのです。 ヘブル11:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。 の信仰では無いでしょうか。
    2.その確信は何と言っても神様の臨在です。聖霊に満たされた生活です。神の臨在を肌身に感じるような方もいらっしゃいますが、多くはそのようには感じないでしょう。だからといって臨在がないのでは無いのです。
    3.イエス様が共にいるという信仰の基本姿勢は私たちの信仰生活の基盤に置き、積極的に神様を迎える生活をすればいいのです。


   
★ 神様はあなたを心底愛して、救ってくださいました。この神様の栄光を必ず見ます。だからどんなことがあっても失望しなくて良いのです。イエス様に希望を持ちましょう。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。