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礼拝説教、聖書を読んで感じた事

日常の人間関係を神に学ぶ(岡山伝道師)

2013-08-15 08:33:25 | 礼拝説教

2013/8/11 礼拝説教

■ テーマ:互いに従い合う歩み
■ 説教題: 日常の人間関係を神に学ぶ
■ 聖書箇所:エペソ6:1~10
6:1 子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。
6:2 「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、
6:3 「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。
6:4 父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒
によって育てなさい。
6:5 奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。
6:6 人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、
6:7 人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。
6:8 良いことを行えば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。
6:9 主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから。
6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。

<はじめに>
今日は、エペソ書6:1~10です。今日は、親子関係についての教えと、主人としもべについての人間関係についてです。人は一人だけでは生きていけないものです。今日は、日常の場面においての人間関係について、神様から教えて頂きたいと思います。


 
<Ⅰ:子どもは両親に従う>
1、主にある正しい人間関係
(6:1)聖書が書かれたローマの時代には、父親には子どもの命をも左右できるほどの権限があったと言います。今なら、「こどもの虐待」で逮捕されてしまいます。へブル12:9-10には、「父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめる。」とあります。父親の女の子に対する権限は特に強かったらしく、娘をいつ、誰と結婚させるかは、すべて父親が決めたそうです。日本でも私の親世代の人で、実際に私の知っている女性で、結婚式の当日まで、結婚相手の顔も見たことがなかったという話しを聞きました。驚きです。しかし、「主にある正しい人間関係」は、まず、両親に従うことからと言えるようです。

2、第一の戒め
そして、6:2の「あなたの父と母を敬え。」、これは、モーセの十戒に基づいた戒めです。(出エジプト20:12)人間関係における第一番目の戒めとして重要です。この「父と母を敬うこと」は、「正しいこと」、つまり神様に喜ばれることです。また、この戒めには、神様の約束が伴っています。「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。ですから、「父と母を敬う」ということは、非常に大切にしなければならない戒めということになります。父と母は、子にとって神の代理人のような存在という意味もあるそうです。子どもは、父によって神の存在を示されると言われているようです。子どもは親に従うことによって、実際には神に従うというわけです。

3.主に従うように聞き従う
 当時のローマ社会においては、父親の権限が強く、絶対的であり、子が父に従うべきという教えは珍しいものではありませんでした。しかし、パウロは、敢えて母親も含め「両親に」また、「主にあって」従うようにと加えています。ここでの「従う」の語源の意味は、「良く聞いて従う」という意味だそうです。ただの奴隷的服従ではなく、両親の言うことを良く理解し、そして従うということです。また、親への従順の土台は、親への尊敬です。母親も父親と同様に敬い、従うべき対象と言うのです。いろいろな親子関係があり、大変なところを通られた方もいます。しかし、自分の父も母も全然尊敬に値しないなどと切り捨てず、どんな形であれ、私たちを生み、育ててくれた親の犠牲を考えると、尊敬に値します。

<Ⅱ:父が子どもを訓練する>
1.怒らせないとは?
 (6:4)父たちに語る「怒らせてはならない」とは、子どもを自由気ままに育てたり、甘やかしたり、媚びることではありません。「怒らせる」の意味は、がみがみ言ったり、横暴に振る舞って、憤らせることだそうですが、横暴と言えば、私は、昔の野球のアニメ、「巨人の星」の星飛雄馬のお父さん、星一徹を思い出しします。ちゃぶ台をひっくり返して怒り、飛雄馬を鍛えているそんな人物です。しかし、横暴なようで親の深い愛を持っているという親子関係でした。それで、飛雄馬は父親に従順で巨人の星を目指せたのか?と思いましたが、子どもを怒らせないとは、親が子どもに従順さを求めても、「権威の乱用」があってはならないということです。

2.主の訓戒~聖書が基準
 6:4の後半から、訓戒の基本は「主の御言」であるということが分かります。ここで出てくる「教育」と「訓戒」は、ギリシャ語の語源から、「教育」とは行動による訓育を指し、「訓戒」とは、言葉による訓育ということです。ですから、ここでの「教育」とは、「訓練」とも言うべき言葉で、「矯正」や懲らしめを意味し、自己を抑制させ、修行させるということのようです。また「訓戒」は言葉による訓戒ですから、励ましたたり、忠告したりと、言葉によるしつけを指しているようです。そして、親たる者は、自分を神のように賢いと思い上がって子どもに接してはならないと戒めています。「親自身がまず、主の学校において学び、主の愛によって生かされなければならない。」という言葉があるように、聖書は、親も子どもも歩むべき基準であります。

<Ⅲ:主のしもべ>
1、キリストに従うように
次に主人と奴隷、つまりしもべの関係について見ておきます。パウロは、神の家族の関係について語ってきましたが、さらに領域を広げ、社会秩序について語っています。(6:5)5節の「奴隷」とは、「しもべ」とも訳せるようで、現代的に言えば、雇われている人々の意味となり、つまり、「奴隷」というのは、従業員のことです。当時の聖書の社会では、奴隷制度は当たり前の主従関係であったようです。今はそのような関係はなくなっていますが、神様は、昔も今も、神を信じる者に、従うことを求めておられます。聖書は社会秩序についても教えます。イエス様に従うことを教えられ、周りの人たちと従い合う関係にされましょう。

2、地上の主人に従うこと
6:5の後半から、雇われている人たちには誘惑があります。上司が見ているところでは、一生懸命働くのですが、見ていなければだらけてしまいます。クリスチャンは表裏を作ってはならないということです。キリストに従うように真心と善意をもって主人に従いなさいと勧めています。ここで、エペソ書と同じ時期に書かれ、届けられたピレモン書から奴隷と主人の麗しい関係の実例を見たいと思います。主人公は奴隷オネシモです。彼は仕事に飽きたのか、ご主人の金を盗んで逃げだしました。パウロは、主人であるピレモンに対して、オネシモのことで、低姿勢で彼の受け入れを願います。オネシモは役に立つ者と変えられて、主人に仕えたことでしょう。

<Ⅳ:主人のつとめ>
1.主人のふるまい
ピレモンとオネシモの話しを見ましたが、パウロは、今度は主人への注意がなされています。(6:9)主人が陥る過ちは、奴隷である雇っている人間をおどしたり、酷使してしまうことです。しかし、主人は奴隷である従業員に丁重に接していかなければいけません。その理由は、主の前では奴隷も主人も同じで、平等に扱われているからです。人として対等である原則を知りましょう。私が今、契約している会社の方は、非常に丁重な方で、何年も一緒にお仕事をさせて頂いていますが、その接し方が最初と殆ど変りません。雇う側と従業員側の良き関係は、単純ではありませんが、神が語る根本的な主従関係に立つと、仕事も互いに祝福されてくると思います。

2.差別をしない主人
6:9の後半の主人への差別なき対応の求めは、神が人を差別しないように、差別心なく、全ての人を公平に扱うことを教えます。この世にはさまざまな差別があります。皆さんもいろいろな差別を体験したことと思います。いつの時代も、人は差別というものによって苦しめられてきました。しかし、聖書は「主は人を差別されることがない」と教えています。イエス様は、主人だからといって手緩く扱うことはなく、奴隷だからといって厳しく裁かれるわけではありません。
差別なき主に、信頼を寄せていきたいと思います。

<Ⅴ:神と人との関係を見る>
1.神と人~父と子の関係
神様と私たちの関係も、人間世界の父と子のような関係です。ルカの福音書では、放蕩息子の帰りをいつまでも待つ、父親としての神様の姿があります。(ルカ15:11-32)息子は、放蕩の末に、父を思い起こしました。そして、父の待つ家へ戻ります。父親は毎日のように、息子が戻ることを待っていました。ここでの父は、父なる神ご自身を表していて、父なる神と神様の子どもである私たちのことを語っています。イエス様を信じる以前の私たちは、この放蕩息子のように、神様のもとから離れて好き勝手な人生を送っていたのです。罪は、私たちと神を引き離しました。しかし、悔い改めによって人は父である神の元に帰り、神の子とされるのです。まだ、イエス様を信じていない方は、イエス様を信じて、父なる神様の身元に戻って頂きたいと思います。

2.神と人~主人としもべの関係
聖書は、「キリストのしもべ」というのは、使徒パウロが自分に対してよく使った言葉です。「しもべ」と訳されている言葉は、もとの言葉では「奴隷」ですから、パウロは謙遜な気持ちで自分を「キリストの奴隷」(ローマ1:1)と呼びました。聖書は、オネシモのようなクリスチャンの奴隷たちに対して、あなたがたは人の奴隷ではない、「キリストのしもべ」なのだと語ります。「地上の主人」ではなく「天上の主」イエス・キリストであると、教えているのです。それで、聖書は、「人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。」と語るのです。高慢の心が取り除かれ、お互いにへりくだりの思いと、従い合う心を与えられましょう。

<結び>
こうして、私たちは、家族関係と雇用関係の中にある、互いに従うことについて学びました。これがみな、「御霊に満たされなさい」という勧めの続きになっています。私たちは、キリストに従うように、周りの人々と共に、お互いに従ってへりくだるところに御霊が働いておられることを知らなければいけません。御霊の力により、イエス様のように、仕え合う心を頂きましょう。