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礼拝説教、聖書を読んで感じた事

弱らない信仰

2013-06-23 17:40:42 | 礼拝説教

  2013/6/23礼拝説教
【説教題】  「弱らない信仰」
【聖書箇所】 ローマ4:16-25
4:16 そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。
4:17 このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。
4:18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。
4:19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
4:20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
4:21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。
4:22 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。
4:23 しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、
4:24 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
4:25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

○ 信仰を持っても生涯信仰を持ち続けるクリスチャンは日本ではどれくらいなのでしょうか? 迫害の無い時代になっていますが、信仰を持ち続けるのは困難なのでしょうか? 今日も登場しますアブラハムは信仰を貫き通した人であったと言えます。

Ⅰ.体が死んだも同然
  A.アブラハムも人間
    1.アブラハムが「全て神を信じる者の父」と呼ばれるのは実に素晴らしいことです。私達はその生涯において「彼の(彼女の)信仰生活はすばらしい」と言われるでしょうか? あるいは人生を終えて天に帰る時、地上におけるお別れの時、葬儀の場で何と言われるでしょうか? 私は私の信仰生活を人々からほめたたえて欲しいとは思いません。でも、私の恥ずかしいような生き方でも、もし神様のすばらしさが表されるのなら嬉しいです。
    2.アブラハムがその信仰において誉め讃えられるのは、彼が信仰を守り通したからではないでしょうか? 彼がサラを妹という箇所や、ハガルによって子を得ることなどは信仰的な話ではありません。こういうところがもし全くなければ彼は完全で、救い主になっていたかも知れません。彼が完璧な人ならイエス様と同じだったと言うことです。
    3.しかし、彼が素晴らしい信仰者であってもイエス様とは違い、私達と同じ罪人に過ぎなかったのです。ですから彼の信仰が神様に誉められるのはすごいことだと思います。そういう信仰を私達も持てるということなのです。
   
  B.年をとっても
    1.19節に アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。 とあります。ここで 、自分のからだが死んだも同然 というのは子どもをつくる事ができないという意味です。それはサラも同じでした。
    2.アブラハムは年をとって死ぬのを待つだけだったのでしょうか?聖書はそうは言っていません。むしろ、彼が年をとってから、さらに信仰に磨きがかかっていると言うのです。しかも、こんな年寄りになって信仰の訓練があり、試練があるのです。
    3.時々、年配のクリスチャンで「この年になって教会のために何もできなくて、早く天に召して欲しいです」と言われる方がおられます。しかし、アブラハムと同じように、その年になっても試練を受けながらも、神様を信じる姿は次世代への大きなお手本なのです。

Ⅱ.望みえないときに望みを抱いた
  A.お言葉だから信じる
    1.アブラハムは自分が死んだも同然であることを知っているわけで、いくら神様から子孫を約束されても、あり得ないと思えることでした。しかし、彼はそういう中で訓練を受けたのです。信仰の訓練でした。
    2.人間的に望みえないことでしたが、神様の御言葉だから信じるのです。「お言葉の通りになりますように」と言ったマリヤのように神様の言葉を信じるのです。
    3.アブラハムは自分の思いを超えたところで神様の言葉を信じたのです。
   
  B.ますます強くなる信仰
    1. アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。 と言われるのは何とすばらしいことでしょう。弱らない信仰が欲しいものです。
    2.それは神様からの訓練でいただくのです。信仰自体、自分で作ったわけでもなく、神様からいただいたものです。神様はその信仰にさらに磨きをかけてくださるのです。
    3.4:20-22 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。 と、ますます信仰が強くなっていくのです。何処かでこんな人になりたいと思いながらも、なかなか試練を感謝できないのも私達の姿です。


   
Ⅲ.私達の信仰も義と認められる
  A.復活のイエス様を信じる信仰
    1.アブラハムがこうして信仰が強められ、神に栄光を帰している姿は私達の模範なのです。普通では信じられないような時にアブラハムが神を信じたように、普通では信じられないイエス様の復活を信じる私達の信仰もまた、アブラハム同様、義とされるのです。
    2.私達は決して自分の信仰を卑下する必要はありません。中には聖霊のバプテスマを受けていない、異言で祈れない、聖書をまだよく知らない、何の奉仕も出来ていない、等々そうしたことで自分の救いさえ不明確になっている方があるとすればそれは本当に残念なことです。
    3.神様は 私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。 と、信じる信仰を喜んでくださっているのです。この復活のイエス様を信じる信仰によって義と認められるのです。
   
  B.堅く信じる信仰
    1.主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。 とあるように、イエス様の復活はまさしく私達が義と認められることの証拠です。
    2.ペンテコステ以後、約束の聖霊が私達の内に住んでくださるというすばらしい恵みが全てのクリスチャンに与えられたのです。この聖霊は私たちの信仰を助けてくださる助け主です。聖霊は私たちに固く信じる力をくださいます。
    3.「聖霊に満たしてください」と願うのはまさに、イエス様を、神のお言葉をストレートに信じていく力を私達もいただきたいという願いなのです。

● 三浦綾子さんは死なれましたが今なお影響力のある方です。晩年、多くの病気の中にありながら、神様を信じ続けられた姿がどれほど多くの人の信仰を励ましたことでしょう。いや、ますます信仰は強まっていたのではないでしょうか。

★ 私達も年をとっていってもますます強まっていく信仰をいただきたいものです。神様によって信仰に磨きをかけていただく事を感謝しようではありませんか。