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礼拝説教、聖書を読んで感じた事

神にならう者(岡山伝道師)

2013-06-17 11:54:27 | 礼拝説教

2013年6月16日

■ テーマ: 神にならう者
■ 説教題:神にある愛と光、賢さを!
■ 聖書箇所:エペソ5:1~ 21

5:1 ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。
5:2 また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。
5:3 あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。
5:4 また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。
5:5 あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者──これが偶像礼拝者です、──こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。
5:6 むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。
5:7 ですから、彼らの仲間になってはいけません。
5:8 あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。
5:9 ──光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです──
5:10 そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。
5:11 実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。
5:12 なぜなら、彼らがひそかに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。
5:13 けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。
5:14 明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。
  「眠っている人よ。目をさませ。
   死者の中から起き上がれ。
   そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」
5:15 そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、
5:16 機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。
5:17 ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。
5:18 また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。
5:19 詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。
5:20 いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。
5:21 キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。

<はじめに>
 今日は、エペソ書5:1~21のところからです。今回は、5章から「神にならう者」というテーマで、三つの観点を「神様の愛のうちに歩む」こと、「光の子どもとして歩む」こと、「賢い人として歩む」ことについて、語りたいと思います。

<Ⅰ:愛のうちに歩む>
1.愛の神にならう者となる
(5:1)パウロはここで、エペソの信徒たちが「神にならう者」となることを願っています。ここでの「ならう」は、ギリシヤ語では、「模倣する」とか「真似をする」という意味です。有名なモナリザの絵には沢山の模写があります。同時代の画家、ラファエロもモナリザを見て描きました。ラファエロは、ダヴィンチが描いたモナリザから何かを得ようとして、真似て描いたのでしょう。ラファエロの絵は、そっくりの模写ではありませんが、ラファエロ自身の個性が生きた画風です。そのように、私たちも、与えられた一人一人の個性が生かされつつ、本来、神のかたちに造られた者として、神様を真似て、変えられる必要があります。イエス様を信じて神様の愛を知ったならば、神の似姿へと変えられていくのです。期待しましょう。

2.キリストは犠牲の愛を示された
 (5:2)この箇所は、「神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおり」とあり、これは、十字架における死を指しています。これは旧約時代においては、生贄である動物が祭壇で焼かれる匂いです。(レビ1:9)イエス様ご自身が、生贄の動物のように、十字架の上で奉げられたのです。昔、私は「愛」について考えたことがありました。テレビである男性俳優が、「愛とは、無償の行為ですね。」と言っているのを聞いて、いいことを言うな~と思いました。聖書が語る愛とは、何でしょうか?イエス様が捧げられたいのち、これが私たちが知らなければならない「愛」です。聖書の「神の愛」を知って、私は初めて、「愛」について語ることが出来ると思いました。イエス様のこの愛を心に焼き付けていますか?このキリストの犠牲の愛を魂のうちに焼き付けなければ、私たちは、根本的に本当の愛のうちを歩めないと言えるでしょう。

3.この神の愛に応えよう
そして、この愛に応えていけるようになりたいと思います。1954年に、青森、函館間を渡る、同爺丸(どうやまる)という連絡船で起こった大参事の話しをします。この船は、台風による暴風と荒波に巻き込まれて、ついに座礁転覆してしまいました。犠牲者に二人の外国人がいたと言います。カナダの宣教師と、アメリカYMCAの宣教師です。千人を超える犠牲者の中で、多くの人は、救命胴衣を着けていましたが、この二人は救命胴衣を身に着けていませんでした。二人とも自分の救命胴衣を日本人に手渡して死んでいったのです。この二人の宣教師から救命胴衣をもらった日本人は無事に生還しました。親族が新聞社に伝えたことによって、「北海に散った使徒たち」と報道されました。イエス様の十字架における犠牲の愛の姿とは、このように自分の命をささげて、人を救うものなのです。この二人の宣教師は、イエス様の犠牲の愛の内を生き抜いた人たちでした。この宣教師たちのこの行動は、イエス様の十字架上での犠牲の愛を人々に示した、究極的な愛の姿でした。今、私たちにこの二人の宣教師のような愛を示せる場面も勇気もないかもしれません。しかし、イエス様の十字架の犠牲の愛をいつも、自分たちの心に、そして身に帯びる者でありたいと思います。そして、神様の愛に応える者となっていきましょう。

<Ⅱ:光の子として歩む>
1.暗闇から光へ移されて
イエス様のご愛を知った者は、光の子どもとして歩むことが、まず、神の愛に応えて歩むことです。(5:8)先月、うちの姉が上京して、一緒にあるミュージシャンのコンサートに行くことになりました。行ってみて、会場の照明のレベルの高さに驚きました。暗闇の美しいショーの連続でした。後半で、この暗闇の光の数々が全てなくなって、ただ真っ白い大きな光に会場が全て包まれた一瞬がありました。まるで、神様の光に包まれたようでした。神様の光が、世のいろいろな闇を包んだようで、会場全体が、平安と聖さの中に入れられたみたいでした。闇というものは、いくら手を加えても、どこか人間の心の奥底の不安に触れるようなものがあります。闇から神様の光の中に移されるってこんな感じだと思いました。私たちは、このような平安なる神の光の中へと入れられた者です。人間が神に背き、神に従わない人生を歩んでいること自体が闇です。自分たちでも気付かないほど、闇なる部分を好んでいて、霊的な汚れにも鈍い者でありましたが、光の子どもとしての歩みを喜びましょう。

2.汚れを離れ、聖さに生きる
光の子どもとして歩むときに、神の聖さを尊ぶようになります。(5:3~5:5)罪を知らない世界というものは、「愛」一つとっても聖さを知らないものです。ドラマや映画、小説などでは、男女の愛の不品行が美しいように語られます。しかし、「愛」を履き違えてはならないのです。聖書の愛は聖い愛の実践を語ります。聖い愛と汚れに満ちた偽物の愛は両立しません。また、男女の偽物の愛だけではありません。愚かな話しや下品な冗談さえも避けなさいと言っています。光の子として歩むとは、汚れから離れて神の与える聖い道を選ぶことです。神を悲しませるような思いや行動は、結局、神の御国を遠ざけてしまう要因となってきますし、自らの人生に闇と破滅を投じてしまうのです。不品行な汚れた人間の闇なる部分から、脱出しなければならないのです。「神は光であって、」と聖書は語りますが、神様の完全な聖さである光にならう者として歩んでいきましょう。

3.光の結ぶ実
 世の闇である汚れから離れていくときに、結果的に光の実を結ぶようになるのだと語ります。(5:9)「光の結ぶ実」これは、「聖霊の実」でもあります。私たちの内側も行いもどんどん変えられていっているということです。皆さんは変えられたいですか?このような実は、単に結果を出したということではありません。私たちの内側が変えられて初めて、周りに良い影響を与えていくのです。光なる種は、イエス様に従う時、善意と正義と真実という実を結ぶのです。闇は悪い実しか付けませんが、神様にならって、光の側をいつも選び取っていくと自然と、光の実を結ぶようになります。神様に繋がる者は良き実を実らせることが出来るのです。

4.明らかにする光
 5:11には、「実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。・・」とあります。悪魔の暗やみのわざを明らかにすると、人は光のところに来るようになります。悪魔の暗闇のわざを明らかにされた牧師の話しを動画で見ました。この先生は、やくざからイエス様を信じて、牧師の道へ入れられました。ご両親が離婚して、不良仲間と付き合ううちに、悪いことから抜け出られずに、とうとうやくざになりました。刑務所生活を何度も送りました。しかし、福音を知って、イエス様を受け入れます。策略がひとたび明るみに出され、キリストという光を少しでも受け入れるとき、そのわずかな光は、巨大な悪魔の闇を制することが出来るのです。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」(5:14)なんと、力強い言葉でしょう。イエス様をまだ、受け入れていないという方は、どうぞ、イエス様に対して目を覚まして頂きたいと思います。

<Ⅲ:賢い人のように歩む>
1.神にある賢い人
このように、神の愛に生き、神の光の中を歩むことは、賢い生き方であると聖書は語ります。(5:15~17)いつの時代も悪い時代という意識を私たちは持つものですが、そんな悪い時代こそ、賢さを持ちなさいというわけです。ここで言う賢さとは、何でしょうか?学歴優秀で、勉強がよく出来ることでしょうか?処世術をいろいろと知っている人でしょうか?そうではありません。聖書の語る賢さとは、神の知恵に満ちていることです。聖書にある神の原則に立ちなさいという勧めなのです。ヤコブ書では、「上からの知恵」と「地に属する知恵」が書かれています。(ヤコブ3:14-16)「上からの知恵」とは、神さまから来るもので、平和で、寛容で、素晴らしいもので満たされています。神様は知恵に満ちた方です。この神の知恵を受け取り、神にならう者でありたいと思います。

2.神のみこころを求める
神様のみこころが何であるかをいつも悟る心を頂きたいと思います。神様の思いで満たされたいと思います。私たちが自分たちのやりたい放題だけを願って、神様のみ心が何であるかを求めないならば、肉の思いに振り回されてしまいます。イスラエルの民が、長い荒野での生活でマナに食べ飽きて、肉が食べたいと不平を言いだします。肉を食べたものの結果的に多くの民が神の怒りによって死んでしまいました。神様はこのような、不平に満ちた肉の願いにも応える方ですが、しかし、みこころを求めない生き方は結果的に、神様に喜ばれない、神様の用意した計画のうちを歩めなくなります。ですから、聖霊を求めて、神様の教えにしっかりと結びついて、神の知恵ある賢い歩み方を一緒に求めていきましょう。

<結び:御霊に満たされなさい>
(5:18~19)御霊に満たされて歩む、これは、「神の知恵の極致」であると語られます。神様のご愛を知り、光の子どもとして歩み、神の賢さを知ることは、神の知恵に満ちた歩み方です。聖霊は神の知恵の全てをお持ちなのです。ですから、聖霊と共に歩んで、聖霊の大きな助けが私たちには必要です。私たちの力は全く当てにならないからです。神様にならう生き方をして、今の時代を生き抜く神様の愛と知恵、神の一切の良きもの満たされたいと思います。