担当授業のこととか,なんかそういった話題。

主に自分の身の回りのことと担当講義に関する話題。時々,寒いギャグ。

<読書感想文08006>「99.9%は仮説」

2008-02-06 23:44:20 | 
竹内薫,99.9%は仮説 思い込みで判断しないための考え方,光文社新書241,2006.


いわずと知れたベストセラー。
内容は面白く,1ページあたりの字数も少なくて,とても読みやすい。
じっくり考え込むと頭がこんがらがってくる話題だらけだが,表面的にざっと一読するなら一日で済む。

この本のおかげで,飛行機が飛ぶ原理が未だ科学的に解明されていないことを知った。
僕自身,「翼の上部と下部を通る流れが翼の後部で合流する」という説明を胡散臭く感じていたが,このことに本気で異を唱える専門家が最近現れたそうだ。
そうした腑に落ちない「ゴマカシ」をきちんと追求することはとても大事だということをあらためて気付かされた。
そういえば,最近読んでいる本は,そう気付かせてくれるものばかりである。
それは偶然ではなく,どうやら無意識のうちにそういう本ばかり探して手に取っていたらしい。ここ数日はなんだかそういう反省気分なのだろう。

なお,僕自身が他に抱えている高校物理で出てくる怪しい仮説は,波動の単元で気柱の共鳴を説明する時の「開口における空気の圧力は外気圧に等しい」という境界条件である。
そう言っておきながら,脚注などで,実際には「開口端補正」という修正が必要だと述べられている。
その開口端補正は経験上必要なのだろうが,それを理論的に説明できるものなのかどうか,教科書の記述を見ただけではさっぱりわからない。
どうやら,

湯川秀樹,田村正平共著,物理学通論 上巻 増訂版,大明堂,1973

という高校時代に古本屋で買った物理の古めかしい教科書(なにしろ,タイトルの「物理学」の学は旧字体で書かれている)の p.344 には
(開口端補正の)決定については Helmholtz や Rayleigh の計算がある。

ということなので,開口端補正を算出する理論が提案されているらしいことがわかる。
ネットで誰か解説してくれていそうな気がする。音響学などの音の科学に関する文献には載っているのだろうか。調べることが一つ増えた・・・。

※補足。ネットで検索したら真面目に考察している人がやっぱりいた。

http://waveofsound.air-nifty.com/blog/2004/09/_0_.html

実験データをアップしている人もいるようだ。次のはその一例:
http://gakusyu.shizuoka-c.ed.jp/science/ronbun/0303/033014.pdf
http://tanufue.cocolog-nifty.com/tanuki/2005/03/post_8.html


話を表題に掲げた本に戻そう。
この本では科学哲学が紹介されており,巻末に挙げられている科学哲学の参考書も読んでみたくなった。

世の中のほとんどの事柄は「理論的に論証不可能である」という考えは中学時代にすでにそれとなく気付いていたし,物理学や数学の立場等について大学生の時に先輩達から教わっていたので,この本の主張はすでに僕自身が了承していることばかりであった。従って大したインパクトはなかった。

ただ,個々の話題,例えばロボトミー手術や相対論の考え方などは知らなかったことも多く,大変勉強になった。何しろ,「科学とは何か」という定義も満足に答えられない状態だったのである。

多くの話題の中で非常に興味をそそられたのは,5つのクォークからなる物質,「ペンタクォーク」の存在確認の話である。議論に白黒決着はついたのか,というその後の進展が気になって仕方がない。ネットで検索した限りではまだ結論は出ていないようである。

他に,科学につきものの「実験」という行為における仮説の役割についても気になっている。
例えば乾電池の電流を電流計で測定したとしよう。
電磁誘導を利用したアナログ式の電流計は,「磁場の強さが電流の大きさに比例する(のではないかもしれないけど,よく知らないので,例えばの話)」といった仮説に基づいて設計されている。
その上さらに磁場の反発力をばねによってメーターの振れに変換してようやく「電流の大きさ」というものを人間が読み取れる形に提示するわけである。
では,この仮説「磁場の強さが電流の大きさに比例する(間違いかもしれないけど)」それ自体を検証するにはどうしたらいいのだろうか?
この仮説を検証するためには,磁場の測定器だけでなく,電流計も必要になるだろう。
あれ?
「電流計の動作原理を検証するために電流計が必要になる」とは,これでは「ニワトリと卵」じゃないか!

というわけで,科学の方法,もっと具体的には「計測」という行為は仮説の上に仮説を塗り重ねるということではないかと思い至る。

ある物理量を測定する,ということは一体全体どういうことなのか。

この辺のことはきっと科学哲学者が考えているに違いない。そしてもちろん,計測工学などに携わる人たちにとっても常識だろう。

というわけで,この課題はおいおい調べていくことにする。

さて,この小文を本書 p.236 の著者からの謎かけに対する僕の答えを記して締めくくろう。

答えは,「否」。理由は全然ちゃんと考えていない。とりあえずなんとなくそう思うだけ。
この謎についてもいずれきちんと考えようと思う。
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<読書感想文08005>「数学教育を見直す 高等学校編」

2008-02-06 01:00:11 | 
田島一郎,吉村啓他,数学教育を見直す 高等学校編,学校図書,1983.


25年前に出版された古い本である。

NHKラジオで放送された5回の座談会の記録である。
当時,すでに「(笑)」という表現が用いられていたようで,随所に見られた。

話した内容がもとにしただけあって,何を言いたいのか結局よくわからない発言も多かった。
しかし,今大学の数学教育で問題になっていることが,当時は高校の数学教育の中に現れていることがわかり,そうした危機に対する教師達の考えが率直に述べられており,非常に興味深い。

各章ごとに,気になった点をメモとして列挙しておく。


第一章

指導要領の改訂に関して,指導要領作成のための協力者会議というのの主査を務めた方がなんだかちょっと槍玉に上がっている。
幾何の取扱いが不十分なことが批判の的になっている。このことは他の章で他の先生方も気にしている。
特に空間図形がほとんど取り扱われなくなったことが問題視されている。
ここに書いてあって,初めて知ったのは次の「三垂線の定理」である:
平面πとそれ上にない点Pがあり,Pから&pai;に下ろした垂線の足をQ,Qから平面π上にあり,Qを通らない直線 l に下ろした垂線の足をRとすると,直線 PR は直線 l に垂直である。

また,柴田敏夫という方が,正多面体の座標を簡単に求める「おもしろい計算」というのがあるとほのめかしているのだが,それがどんなものかまでは書かれていない。
非常に気になる。

そして,(入試問題を作るために必要な)二次不等式は不要だ,という「二次不等式不要論」が唱えられ,それよりも,将来いろんな分野で必要とされる確率・統計の初歩が重要だという指摘がされている。
後者については僕も同意見だが,四半世紀が経った今も確率・統計の教育現場での扱いはほとんど変わっていないと思われる。残念なことだ。

「式と証明」というのは単なる等式変形に過ぎないという批判があるそうだ。
言われてみれば,その通りだな。


第二章

高校の教育現場の問題点についての議論。
「今の高校生はやれと言われてことだけこなす」といった高校生の従順さと覇気のなさが報告されている。

同じ試験を通過して実力が揃っているはずの高校生達の学力に差がつく現象が報告されている。名付けて,「学力拡散」あるいは「学力プリズム」。
事情は大学でも全く同じだったはずだが,今では入試の多様化を受けて,「同じ試験を通過して」という前提が崩れ去っているので事態はもっと深刻であると思う。

高校全入時代を迎え,どういう教育をなすべきか,ということがテーマに挙がっている。
「分数のできない高校生」のために高校生に分数を教えている事例が報告されている。
これはちょうど,「分数のできない大学生」という問題が指摘され,大学全入時代を迎えた今の大学が抱える問題と全く同じことである。

数IIIと称して実は数Iの復習をしている,といったような授業の実態も暴露されている。

生徒のやる気を出してもらうために,計算でつまずかないよう,整数の答えしか出ないような問題を作る,という苦労話もある。

生徒一人ひとりの理解速度が異なることを考慮した指導が必要だという提言が述べられている。

理科系の大学に進学するほんの一部の生徒のための難しい数学だけではなく,もっと多様な内容があっていいのではないか,とも書かれている。
そのためには教師が自分で教科書を作るなど,教師の側の努力が必要だ,ということを確認して話は終わる。


第三章

コンピュータを専門とする大学の先生が,「分数不要論」を唱えている。
この先生は,三角関数,指数関数,対数関数も教える必要はないと豪語する。
どうせ実社会で扱う数は整数と小数(無理数も含む,ということらしい)だけだから,それらの加減乗除さえ出来れば十分だ,という立場である。
そして,代わりにブール代数を教えたいらしい。0, 1 を使うだけで,組み合わせ論までカバーできるし,コンピュータを中心とする情報化社会にふさわしいということのようだ。
また,次元の話を述べ,分数階微分にも触れている。
ともかく,言いたいことは「そういったカリキュラムもあっていいのではないか」というカリキュラムを複線化するべきだという主張だ。

社会に出るときに大切なことは,体・徳・知の順番らしい。
そして,教員は一度社会に出た者を採用するべきだという意見もある。
つまり,実社会がどういうものかを経験することにより,幅のある見識と柔軟な姿勢を持つ教師になると期待しているのだ。

授業時間を半分に減らし,少ない内容をたっぷり時間をかけて丁寧に教え,それでも時間が余れば,その時間は生徒自身がそれぞれ興味のあるものを追求することにあてる,といった大らかな教育構想も語られている。


第四章

日本の高校生の学力の国際比較がメインテーマ。
当時,日本の高校生は計算力は高いが,文章題はダメだったらしい。
計算なんか電卓でいい,という意見が述べられているが,それは暴論である。
計算の原理は自分でやってみないと理解できない。
そうして計算の原理がわかった上でないと電卓という文明の利器を使いこなすことはできないのではないだろうか。

アメリカの数学教育の方針が,「現代化(幾何の追放)」,「基礎,基本の重視」から「問題解決」に移り変わったそうで,日本もその動きに追従したようだ。
今のスローガンは何なんだろう。

「学者(が教え,学者になる者のため)の数学」ではなく,「大衆の数学」というべきカリキュラムを編み出す必要がある,という意見があった。
ピタゴラスの定理の証明を理論的に厳密に理解することよりも,それが成立することを直観的に理解し,現実問題に応用する力を養うことが重要だというのである。
しかし僕にはその「大衆の数学」の具体的なイメージがさっぱり湧かなかった。


第五章

十数年も数学を教えていたベテランの先生ですら,「何のために数学を教えるのか」という生徒からの質問にずーっと悩み続けているらしい。
そんな簡単に答えが出るような問いではないということを知ってほっとした。

実社会で対面するような具体的な問題を数学的に定式化する(数学モデルを作る)ような訓練ができるような数学教育というものの重要性が指摘されていた。
これは僕も大きな課題だと思っている。

どうやら数学は「論理的・体系的に思考する力」を培うのに有効らしい。
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