かぜねこ花鳥風月館

出会いの花鳥風月を心の中にとじこめる日記

人生最後のテント泊用のザック?

2021-09-07 11:49:11 | 日記

健康年齢といわれる75歳ころまでは、テントをザックに入れて、アルプスや飯豊・朝日の縦走や整備されたロングトレイルコースを楽しみたいと思っているが、このところの体力低下もあって、この夏には、20k程度の重い荷物を背負って登るのが苦痛になっていた。

そのため、ランニングというトレーニングを再開したが、現在使用しているモンベル製の50Lアルパインザックだが、腰にザックの荷重をもってこようとしてヒップベルトを締め歩いていると、時おり腰の両脇が苦しくなってきて、緩めると今度は荷が肩に食い込んでくる。いろいろベルトを調整しても原因が分からない。

ザックのせいでなく、調整能力のせいだとおもうが、もうちょと腰全体で荷重を受け留めて快適に歩けるザックがあるのではと、YouTube等であれこれ検索、昔愛用したフランスのミレー、イギリスのカリマーなどもなかなかなのだが、このところ人気の高いドイツのドイター社製の50Lザックの背面構造とバックレングス(背面長)調整の容易さ、やや細長のデザインに落ち着いたグリーン系のカラーなどに魅かれていたが、なぜかアマゾンのサイトでは、グリーンだけ他のカラーより2000円高く設定されていたので迷っていたが、再びサイトを開いたら2000円値下げされていたので、酒に酔っていたこともあり、衝動的に発注してしまった。

ザックを通販で買うの危険で、店頭で背負い比べをするべきだとは思うが、チビのオイラに一番大事なのはバックレングスの調整なのであり、それが容易にできるとなれば、あとは背面やヒップベルトの構造を画面で見ただけで大体の具合が分かったので、心配はしていなかった。

何と、翌日夕刻には届いたので、バックレングスを最短近くに調整し、少しザックに荷を詰めて背負って、各種ベルトを調整してみたら、想像どおりGoodな背負い心地で安心した。まあ、実のところ20k程度の荷を詰めて山を歩かねば評価はできないのだろうが、「このザックとなら、やっていけそう」という長年の感が働いている。

だが、これから秋の山で荷がかさばっても来るが、どんなにいいザックでも今のオイラには20kは辛い。肩にかけたG3Ⅹやミニ三脚をザックに入れても15k以内となるよう、これもYouTubeのお世話で軽量化に努めよう。

このドイターのザック、新しい仲間として加わったが、馬が合えば大事に使って75歳までのあと○年、つきあっていこうじゃないの。「人生最後のテン泊用ザック」としていい景色を見させてあげたい。

さて、ドイター君のデビューの山はどこにしようか。朝晩冷えてきたし、そろそろ2000m付近は紅葉も始まるころか。来週には、本県の「緊急事態宣言」も解除か。

 

      

       新しい仲間 ドイターエアコンタクトライト 50L+10

 

 

 

 

 

 


深田日本百名山登頂の思い出  5 大雪山(たいせつざん・2291米)

 

北海道には、札幌に3ヵ月、釧路に2年、旭川に1年、1981年1月から3年3ヵ月在住したが、北海道を離れても、サロマ湖ウルトラマラソンに5回、利尻・礼文にマラソン等で2回訪れているが、北海道の屋根といわれている大雪山は、北海道在住時に集中して歩いただけで、北海道を出てからは1回だけとさみしい。

最高峰の旭岳(2291米)には、81年に最初に登っているが、83年、旭川時代の1年間は、地元の山岳会に属していたこともあり、残雪の季節から雪が降り積もる10月までの間に毎週のように歩いた。深田さんが言うように、旭岳を中心に広大な湿原とお花畑が点在する道が四通八達しており、特定のピークを目指すというよりは、大雪という山域を逍遥するといった具合に歩いた。登山口も勇駒別(旭岳温泉)、愛山渓温泉、層雲峡温泉といった温泉地から伸びており、下山後の温泉もまた楽しみであった。

銀泉台という東側の登山口もあり、そこから白雲岳(2230米)に登ったが、山頂から眺めた旭岳の残雪も見事であったが、何と言っても記憶に残るのは、旭川の山岳会のメンバーと愛山渓小屋で遅くまで宴会し、翌日歩いた安足間岳(2194米)、当麻岳(2076米)周辺の紅葉風景だ。9月半ばだったか、ナナカマドの赤を中心にとした極彩色は、生涯出会えた紅葉シーンでは最高だったのではないか。

それから、10年以上あと、同じ感動を味合わせたいと職場の後輩を誘って同じ時期に同じコースを歩いたが、あの時の輝きを見せることができなかった。すこし、時機を失したか、ハズレ年だったか、残念であった。

大雪山のことは、いつも心を離れたことはなく、コロナがすっかり収まれば再訪し、避難小屋を繋ぎながら、短い夏をあちらこちらと逍遥したい。

 

          

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富士山初冠雪

2021-09-07 08:18:44 | 日記

今朝の朝日新聞の天声人語に昨日富士山に初冠雪があったと記されていた。確認されたのが静岡側であり、山梨側から確認しないと公式な初冠雪記録にならないとのこと。これも静岡と山梨の縄張り争いか、縦割り行政かと驚いたが、本日のウェザーニュースで、9月7日付でに甲府気象台から初冠雪の発表があったとのこと。山梨側のきのうの富士は雲の中だったのだろう。

平年より25日、昨年より21日早いとのことで、頂上付近ではどれくらいの積雪だったのだろう。じつは、ほんの1週間前まで、須走口から富士を登ろうとしていたが、予定では天気を見て今日か明日には頂上に立つ予定であったが、「緊急事態宣言下」であきらめていた。

「凍えなくてよかった」という気持ちと、「ああ、初冠雪の絶景をカメラに収められず残念無念!」という気持ちが交錯した複雑な気持ち。もしかしたら、融雪が凍ったら危険なので、観音様とマリア様が「おやめなさい」とささやいたのかも。

でも、雲一つない青空・・・・・

 

     

        結構降ったよね。あれが融けてまた凍ったら岩場は滑落注意!

 

ウェザーニュース

 


深田日本百名山登頂の思い出  4 阿寒岳(1503米→1499米)

 

阿寒岳という山名の山はなくて、阿寒湖の東の雄阿寒岳(おあかんだけ・1370米)と阿寒湖の西の雌阿寒岳(めあかんだけ1499米)の総称。新潮社昭和50年20刷には、標高1530米と記載されているが、現在の雌阿寒岳は1499米であり、あるいは小噴火で標高が減ったのかもしれない。深田さんが阿寒岳を登りに来た昭和34年(1959年)は、雌阿寒岳登山が禁止されていて、深田さんは雄阿寒岳にしか登っていない。ちなみに、深田さんは今は廃道となっている南の尾根(オクルシュベコース)を登って、オイラも登った現在唯一の登山道を下っている。

オイラは、釧路勤務時代1981年から1982年に釧路からひとり車を走らせて、雄阿寒岳と雌阿寒岳を別々の日に日帰り登山をしている。ただし、雌阿寒岳の隣に颯爽と屹立する阿寒冨士(1475米)には、登った記憶がない。雌阿寒岳のふもとにあるコバルトブルーが美しい小さな湖・オンネトーと雌阿寒温泉を愛していて数回訪ねているが、阿寒冨士にどうして登らなかったのだろう。その理由が思い出せない。

コロナが落ち着いたら、元気なうちに北海道の山旅をして、登り残した山や再登したい山を登りたいと思っているが、阿寒湖畔にはクマの心配のなさそうな場所にキャンプ場があるみたいだ。ここを基地に、再び雄阿寒、雌阿寒、阿寒冨士、オンネトーとあちこち周ってみたいな。

         

 

 

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傘さしランニング

2021-09-06 08:48:31 | 日記

パラマラソンは、NHKのライブでじっくり視聴させていただいたが、女子視覚障害部門の道下美里選手の金メダルにも驚いたが、66歳の西島美保子選手が3:29:12で8位入賞したことにもっと驚いた。オイラとほぼ同年代だ。

オイラは46歳で初完走したフルマラソンを64歳のNAHAマラソンをもって卒業したが、60過ぎたら二度と4時間を切ることがなかった。それを年齢のせいにして、なんら悔しい思いをしなかったが、西島選手には、記録を伸ばそうとする意志とトレーニングさえ積めば、まだまだ60代でもサブフォーで完走できる可能性がありありなんだと教えられた。

考えてみたら、ヒトが老いていくのも「障害」、ヒトはだれでも障害者という立場になるのであって、パラリンピアンには「障害を克服しようとする力への意志」が生じた時点で、克服できる可能性があることを教えられた。

午後、スロージョグを兼ねて図書館に向かう途中で雨が降ってきたので、モンベルのトレッキングアンブレラをさしてジョグした。スロージョグなら傘をさしても空気抵抗がなく、まったく問題なく走れる。

高齢という「障害」、雨降りという「障害」、〇〇という「障害」、パラリンピアンに教えてもらったので、どうやったら克服できるのか・・・・前向きに生きていこう。

 

        

 


深田日本百名山登頂の思い出  3 斜里岳(しゃりだけ)

斜里岳は、釧路勤務時代だから1981年から1982年の2か年間に、たしか2回は登った。3回かもしれないが、一度は職場の仲間たちと登った。沢筋を行く旧道と尾根筋の新道、どちらも歩いたが旧道の方が変化があって楽しい。深田さん親子(妻と小学6年生の次男)も1959年に同じ道を歩いたが、頂上ではガスって何も見えなかったと記している。オイラは、いずれも晴れの頂上を経験したが、当時の写真というものはなく、どんな風景を目にしたのか忘れた。多分北側にオホーツク海が大きく広がっていたのだろ。

新潮社日本百名山に登載されている斜里岳の山容に長いことあこがれていたが、この写真を撮った場所に立ったことはない。何度も行った摩周湖の展望台からは、あのような秀麗な山容ではなかったような気がする。一度でいいから真っ白にお化粧した斜里岳を本の写真の場所から眺めたいと思っている。

 

 

     

 

     

                新潮社 日本百名山掲載の「斜里岳」

 

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徳本峠から穂高を眺めた日

2021-09-04 12:08:47 | 日記

今朝のNHKR1「石丸謙二郎の山カフェ」の「山からオハヨー」に、北アルプス新島々から上高地を結ぶ徳本峠(とくごうとうげ)に建つ徳本小屋の御主人が登場していた。

新島々からのルートは、昭和初期に上高地までの道路が開通されるまで槍・穂高方面に登る者が必ず通ったクラシックルートで、あのウェストンさんや、高村光太郎夫妻、芥川龍之介らも行き来したし、深田久弥さんは家族で峠から島々方面に下山した際、途中日が暮れて大いに難儀したと何かのエッセイに書いていた。

こんな、著名なルートなので一度歩きたいと思っていたところ、ランニング仲間にKさんという体力の有り余った青年がいたので、彼を誘って2012年10月の初めに歩いた。

ルートは

1日目 島々集落の空き地にテン泊仮眠

2日目 島々~徳本峠~霞沢岳(2646米)ピストン徳本峠テン泊

3日目 徳本峠~徳沢園~屏風の頭~涸沢テン泊

4日目 涸沢~涸沢岳(3110米)ピストン~横尾~上高地

という結構ハードな旅程だったが、いずれも好天に恵まれ、涸沢では10年に一度という極彩の紅葉に巡り合った。メインの2日目は、昼頃徳本峠について小屋のオヤジに往復7時間もかかる霞沢岳をこれから往復すると言ったら、遅いからやめとけと言われたが、二人とも当時は富士登山競争を走る仲間だったので、「走っていくので大丈夫です」と言って許してもらった。走りはしなかったが、二人とも空身で結構速足だったので夕暮れとともに小屋に戻って、小屋のビールで乾杯した思い出がある。

翌日、穂高に新雪が輝いていた。まるでヨーロッパアルプスを眺めているようで二人で歓声をあげた。

 

今朝のラジオでも言っていたが、昨年までの台風の影響で島々から徳本峠までのクラシックルートは、現在通行止めなんだとか。長野県警が「北アルプス新島々登山口通行止め」と言ってる意味がようやく分かった。最近の悪天続きの山模様、2012年10月のあの日は、奇跡だったんだと心にとどめておく。

 

 

 

 

     

           2012年10月7日、穂高に新雪が下りてた。(徳本峠展望地から)   

 

 

 

 


深田日本百名山登頂の思い出 2 羅臼岳(1661米)

 

2年間の釧路勤務という土地の利があったので、この間、羅臼岳には3度登った。1981年から82年にかけて。

うち2回は、職場の後輩、先輩と別々に。あと1回は妻と。ちなみに、妻と登ったのは北海道時代の羅臼とトムラウシだけで、その後、現在まで登っていない。下り坂がまるでダメで、一緒に歩くのをあきらめて今に至る。(ちなみに、妻はその後ぶくぶく太って山とは無縁な体躯をしている。)

登ったのは、3度とも深田さんと同じ羅臼温泉からの道で、1度職場の先輩と登った時は、頂上直下の岩清水という苔のびっしり生えた岩壁からつめたい水の滴り落ちる地点にテントを張って一晩明かした。現在の地図をみるとテント場の地点には「フードロッカー」という表示がされているが、これはテントにいい匂いのする食料をおいていたらヒグマに襲われるので、そんな事件を防ぐために寝るときに食料を入れておく頑丈なロッカーのことだろうが、40年前にはヒグマの恐怖というものは全くなく、狭いテントに食料と酒を香らせながらいびきをかいていた。いい気なもんだった。

記憶では2004,5年ごろ、レンタカーで西側ウトロ方面の岩尾別小屋に行って泊まり、硫黄山登山口から硫黄山(1562米)をピストンし、有名なお湯の流れるカムイワッカ湯の滝を楽しんだが、あるいは翌日羅臼岳もピストンしたのかもしれない。記憶があいまいなので?であるが。当時は、山を登った後にサロマ湖ウルトラマラソン100kを走るという無謀なミドル世代であって、山もサッササッサとあちこち歩き回ったことが、記憶を虚ろにしているのかもしれない。

 

羅臼岳から硫黄山までの縦走を夢見ていたが、フードロッカーがあちこち配置されているので、もう夢のままで終わるのだろう。(😅)

 

        

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                     

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深田日本百名山登頂の記憶を書き留めておこう

2021-09-03 11:22:07 | 日記

2016年9月5日「ウルトラマラソン後遺症」から始まったこのブログもまもなく7年目に入る。山や自然とかかわっているうちは備忘録として続けて行こうと思っているが、健康問題や機器の不調、あるいはすべての電子機器に嫌気がさしてパソコン、携帯をすべて放棄した仙人生活に突入することで、このブログが終わる日も突然やってくるのかもしれない。ただ、6年間何気なく続けたことで、記録癖のないオイラも山をはじめとした旅のおおまかな記録にもなっていることに気づいたので、これからも続けられるだけ続けていこう。

2021年も残り1/3,120日ばかりとなってきたが、今年の目標の一つに57歳までに登頂をはたした深田日本百名山について、「山と渓谷1月号」の付録「日本百名山ルートマップ」を見ながら登ったルートや思い出を呼び戻して記録しておこうというものがあったが、三日坊主癖のため頓挫している。

そこで、このブログの追記的なものとして、今日から1日1座ないし2座を書き込んでおこうと思いついた。ルートマップに歩いたルートを緑の蛍光ペンで色付けし、携帯で撮ってこのページに貼り付けて、思い出を数行綴る。登った年月日は大方不明だが、推定でも記録する。この程度ならばあまり負担にならないので、年内には、100座目の宮之浦岳に到達できるだろう。

 

 

 

 

 


1.利尻岳 (1718米)

利尻山のある利尻島には3度訪れて、利尻山にも3度登っている。すべてメインコースの鴛泊から。深田さんは、沓形コースを登っている。この山には、かつて鬼脇コースというものもあったが、現在は廃道になっている。

はじめて登った年は1983年とはっきり覚えている。季節は6月半ばだったか。覚えているのは、仕事で北海道に住んでいた3年3か月のうち、1983年4月から翌年3月まで滞在した旭川から登りに行ったからだ。スイングバックの車に自転車を押し込んで稚内まで行き、自転車といっしょに船で利尻にわたり、ふもとにテントを張ってから翌日登頂し、登頂した日に八合目の避難小屋に泊まって、翌日下山。下山してから島内を自転車で1周した。元気だった。

翌日、船で花の百名山礼文島に渡り、礼文岳(490米)にのぼり、党内をサイクリングした。礼文島では、どこかの民宿に泊まったと記憶している。当時は、予約制というものではなく、港に船が着いたら、酒場のポン引きみたいに民宿屋さんたちが旅行者の手を引っ張って誘っていた。が、連れていかれた民宿、とてもよい民宿で、海鮮のてんこ盛りだった。某お茶漬け食品メーカーの研究員だという若い二人ずれの女性と深夜まで歓談した。そんなことだけは記憶が鮮明だ。

利尻山に登った残りの2回は、いずれも前日行われた利尻島1周ウルトラマラソン(悠遊覧人G)の翌日登ったもの。6月初めで頂上付近はまだ雪があった。とくに、最後の登頂時は絶好の好天気で、マラソン仲間数人とワイワイおしゃべりしながら登って、360度の洋上パノラマとから樺太方面の雲海に歓声をあげた記憶がある。

その2回の登頂年だが、果たしていつだったか、震災後か震災前か、2000年代なのに、それさえも記憶があいまいである。家のどこかに記録証が眠っていそうで探せば分かるし、SDカードを調べれば当時撮った写真も見つかるはずであるが、・・・・後で調べて このページに書き込んでおくことにしよう。(いい加減なヤツ)

 

礼文と利尻、近いうちに再訪し、のんびりキャンプをしながら花と海鮮を楽しむことにしたい。北海道でクマの心配をせずとも憩える初夏の楽園だ。

 

 

                                     

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