かぜねこ花鳥風月館

出会いの花鳥風月を心の中にとじこめる日記

風の又三郎の日に届いたNAHAマラソンのメール

2021-09-01 15:22:29 | 日記

きょう9月1日は、オイラにとっては「防災の日」ではなく、「風の又三郎の日」である。

この童話が「9月1日 」という章からはじまっているからで、賢治文学の中でもとくに愛着のある作品でもあるからだ。

なぜ、愛着があるのかといえば、それはこの物語が、かぎりなく「郷愁」に満ち溢れているからだ。何度も読み返したり、映画となった映像世界をくり返し目に焼き付けていると、この物語の村のこども一郎とオイラが重なってしまい、眼を閉じて耳を澄ますと、

空があって

雲があって

風が吹いていて

山があって

川が流れていて

草木が風に揺れていて

友だちがいて

母がいて父がいておじいがいておばあがいて

馬がいて

小さな学校があって

勤勉な教師がいて

こわい大人がいて

と、もうその世界は、賢治文学の一作品といった世界ではなく、オイラが実在して、オイラが帰っていく(還っていく)ジオラマのような甘美な世界そのものである。

では、上記の甘美な世界に登場してくれない肝心の「風の又三郎」とはなにものか

賢治さんは、収穫前の農民が恐れる二百十日の大風と東北地方に伝えられた「風の精」伝承からインスピレーションをうけて、神秘的で不可思議な存在である転校生高田三郎くんをを土着のこどもたちの世界に飛び込ませ、こどもらとの12日間という刹那の交流と別離の物語を描いたが、いまだに「風の又三郎」とはなにものなのか、オイラはいまだにうまく説明できない。

突然やってきて、青い胡桃やすっぱいカリンを吹き飛ばし、朝になるといつのまにか消えてしまう大風のように、子供達には永遠に続いていくような平和で安堵な日常に突然やってきて不安と翳りを生じさせるような存在なのだろうか。

しかし、この物語を読んで、高田三郎くんをいやなヤツだとは誰も思っていない。なにかしら神秘的で不可思議な能力を備えた彼に、子供たちは何かしらのリスペクトさえ抱いていたのかもしれない。「自然の力」といえばいいのかもしれない。どうしても抗えない「何かしらの力」といえばいいのかもしれない。

要すれば、帰っていきたい上記の甘美な郷愁世界というのは、「風の又三郎」の手のひらに存在する平和な一寒村なのだろう。

 

「風の又三郎」を今年もぺらぺらめくりながら、そんな妄想を抱いていた朝、今ではほとんど縁がなくなった「スポーツエントリー」というサイトから「オンラインNAHAマラソンに参加しませんか、今日から募集開始です」という内容のメールが届いていた。

 

コロナのため2年連続中止となったNAHAマラソンをオンラインで開催し、これに3000円というエントリ―代で申し込みをすれば、沖縄のお菓子と来年開催された時の優先出場権を与えます、ということだった。オンラインとは11月13日から12月12日の約1ヶ月間、日本中のどこを走ってもいいが、GPSアプリで走った記録を残して、その記録を大会事務局に送ると完走証をくれるというたわいもないものだ。

オイラは、NAHAマラソンについては2018年に走ったのを卒業大会としていて、その優先出場権にはあまり興味がないのだが、再開した「スロージョギング」で、いささかなりでもランニングの快感をふたたび感じ始めてきた矢先なので、「そうか、寒くなった11月から、このオンラインマラソンを追い風にしながらジャーニーランをしてみようか」という気持ちになって、いささかの躊躇もなくエントリーしてしまった。

あるいは、このオンラインマラソンを契機に、またNAHAマラソンを余裕で完走できるような体力と体重にベクトルが向かうなら、その優先出場権というカードを行使するのかもしれない。

「風の又三郎の日」に突然ふらりとやってきたメール、「何かしらの力」が働いているのかもしれない。

NAHAマラソン

 

 

          

 

風の又三郎の最終章、9月12日の朝に、一郎の家の前にいっぱい落ちていたのは、クルミやカリンではなく青いクリのイガでした。

 

 

 

 

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