かぜねこ花鳥風月館

出会いの花鳥風月を心の中にとじこめる日記

吾妻山の秋の色2

2021-09-28 15:26:34 | 日記

 

      

滑川温泉の登山口から、この写真を撮っている霧の平というポイントまでは、山と高原地図のコースタイムでは「1時間」と表示されていたが、2時間を要した。どんなにいいザックを手に入れても、15kオーバーのザックを背負った場合、登りのタイムは「標準の倍はかかる」と納得した。

この霧の平から、この写真の中央左のピーク、家形山の物見台までコースタイムは2時間10分とあるので、「4時間はかかる」と観念しながら登ったら、その通りになった。それでも、ジョギングを始めたせいかばててはいなかった。

 

    

家形山の山頂に着いたのは午後3時すぎ。さっきまでのガスが晴れて午後の日差しに五色沼の青さが深みを増して、沼のほとりの樹々は色づきを増していた。家形山をくだり、正面の一切経山の山頂に立ったのは午後5時前、浄土平のテント場に着いた時には、とっぷり暮れていた。7時に宿を出てから11時間を要したことになり、今後の山行計画は「登りは倍」という意識でたてねばならないと言い聞かせた。

      

 昭和のころまで山スキーの人気スポットだったのだろうが、かつての標識がこんなだから廃れようが分かる。

 

         

 二日目、初めて上った東吾妻山はずっとガスっていたが、鎌沼まで下りてくるとやさしい姿を現してくれた。頂上付近はハイマツがびっしりと育っていて、湿原もあり好きになった。また晴れた日に登ってみよう。

   

   

   

  鎌沼は、ミネカエデの黄色とナナカマドの赤が冴えて、多くのハイカーが歓声をあげていた。

  来年は、コースタイムの倍の計画を立てて、西吾妻山方面に縦走してみよう。初夏がいいかな、秋がいいかな、どちらもよさそう。

 


深田日本百名山登頂の思い出   18 蔵王山(1841米)

 

下記の地図の緑のマーキングのとおり、ふるさとの山で百名山の中では一番多くあちこちのルートを歩いているが、学生時代は深田イズムにはまっていて頂上近くまで山岳道路やロープウェイが伸びている山を「大衆登山の山」として忌避していたので、昭和52年(1977年)に一度最高峰熊野岳やお釜のある刈田岳に登っただけ。

あちこちのルートを歩き始めたのは、宮城にもどった90年代以降。記録がないので何度登ったか分からないが、90年以降はもっぱらソロ登山を流儀としていたので、蔵王を誰かと歩いた、登ったという記憶がない。

現在は噴火の兆候か登山道の荒廃が進んだせいかルート図から消えているが、峩々温泉や賽の河原から、かもしか温泉跡を経由し、ロバの耳という岩稜をよじ登り、お釜の火口壁を周回し、展望所からこちらを見ている観光客に何かしら優越意識を抱きながら刈田岳までいくというコースを歩いたのが「若かりしころ」のいい思い出であるが、もうそんな勇気は微塵もない。

その後、花の写真に夢中になっていた90年代後半は、南の不忘山や屏風岳の芝草平などの足繁く通ったが、2000年以降、具体的には沖縄から帰った2006以降はマイカーを持たなくなったので、バスも走らなくなった南方面への足は途絶えている。

そして現在は、「蔵王古道」という信仰の道をたどって宮城側の遠刈田(とうがった)温泉からや山形側の宝沢(ほうさわ)集落から山頂に向かって、宮城側なら蔵王温泉に下り、山形側なら遠刈田に下って、それぞれの湯をいただくという企画で蔵王山と向き合っている。蔵王権現様を心に抱きながら、体力が尽きるまでの年中行事としていきたい。

また、あたりのオオシラビソはほとんど枯れていたが、山形蔵王の樹氷には一度も出会えていないので、年が明けたらロープウェイで地蔵岳まで行って、スノーシューでスキー場脇を下ってくることにしたい。

 

    

 

   

    

           船形山頂から5月末の蔵王連峰を望む。

コメント    この記事についてブログを書く
« 吾妻山の秋の色 1 | トップ | 吾妻小舎のオヤジさん »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿