叙事詩 人間賛歌

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人間は何をしに来て、どこえ行くのか 十九

2008年08月07日 | 人間は何をしに来て、どこえ行くのか

山本さん、

「先生、前回で、ニルバーナ(死のこと)は最上の楽しみであると、
釈迦のコトバを引用されましたが、死を賛美するようでいかがなものかと
思うのですが。

 いま日本は世界一高い自殺率をなんとか押さえようとして、法律や条令
をつくっていますが、それに水をさすようでまずいのではないでしょうか。」

ジッチャン、

「山本さん、よい点を指摘してくれました。私も言ったてまえそのことで悩ん
でいたのです。
 そこで今回はちょつと早いとは思いますが、釈迦のコトバについて、私の
説明不足だったところを補足しておきます。


 仏教を学ぶうえで、一番難しいとされる生死の問題ですが、
これを明らかにして生死の苦しみをなくすのが、仏教の究極の目的ですか
ら、よく聞いてください。

 仏教では生と死を別々に捉えず、生死不二と捉えるのです。
生死不二というのは、二っのようだが別々には切り離せない一体のことで、
たとえば、体と影の関係をみると、体があって影がないとか、
影があって体がない、というようなことはあり得ません。

 体と影は二であっても実際は二ではないことを不二というのです。

 釈迦のコトバを生死不二の視点でみると、
 死は最上の楽しみ(喜び)であるということは、
 生も最上の楽しみ(喜び)であることになります。

生が喜びであるから、死も喜びであり、生死は不二で別々ではないのです。
自殺される人は、苦しみから逃れようとして死を選ぶのでしょうが、他人を
殺すか、自分を殺すかの違いはあっても、殺生罪に違いはありません。

仏教では殺生を一番重い罪として戒めていますので、重い罰を受けるか
もしれないのです。
 非常に微妙なところですが、

人間は生死の苦しみである無明(生命に明らかでない、無知なこと)を破り
死の恐怖から開放されるために生まれてきた。と仏教は教えています。

つづく