叙事詩 人間賛歌

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人間は何をしに来て、どこえ行くのか 二十

2008年08月09日 | 人間は何をしに来て、どこえ行くのか

ジッチャン、

「日蓮大聖人は釈迦の言葉、ニルバーナは最上の楽しみである。
に関して次のように言われている。

 「生も歓喜  (生きることも喜び)
 「死も歓喜  (死んだあとも喜び)
 「生きているときは 生の仏」
 「死んだあとは  死の仏」

で、どちらも喜びの生命(仏)であると。

その仏の生命が自分の生命にあることを知ることについて、

 「自分の心(生命)が本来の仏であると知ることを、大歓喜と言うのである。
 南無妙法蓮華経(仏の生命を呼び出す声)は、歓喜の中の大歓喜であ
 る。」   (趣意)

と言われています。

もちろん、人々が嫌がる死がなくなるワケではありませんが、
歓喜の心というのは、生死を超越して続く大宇宙(大自然)の心ですから、
始まりも終わりもなく、この状態が無限に続きます。

 なぜ歓喜の中の大歓喜の心になれるのかについては、

 「自他共に智慧と慈悲あるを喜とはいうなり」  

と御書の文にあるように、自分だけの喜びではなく、
他者に尽くして喜ばせることが歓喜する根源であると言われています。


 前に、大自然の実態は慈悲の心であると言いましたが、
慈悲の行為は簡単に出来ることではありません。困難を伴いますが、
それを永続して行うエネルギーが、歓喜する心であると私は思います。

 自分が歓喜していると、他者になにかしてあげたいという心になるもの
です。
仏教では「深心の本願」といって、自分でも気がついていない心の一番
深いところに、他者に尽くしたいという慈悲の心があるが、無明という壁
にさえぎられて現れないのだ。と説いています。

人間の心が慈悲に基づいた歓喜に満ちたとき、人間は最高に進化した
と言えるのではないでしょうか。

地球に生存する人間の多くがこの境涯になるにつれて、地球から戦争と
いう悲惨がなくなっていくと考えられます。

 ロスの話から脱線しましたが、また朗読に戻ります。

つづく