国民の脳に電子葉を埋め込むことが義務化され、社会が高度に情報化された近未来。量子コンピュータである量子葉を脳に埋め込まれて育った少女が世界を変える。
未来のすべてを演算により知ってしまう少女といえば、つい最近読んだ『NOVA10』に収録の伴名練「かみ☆ふぁみ」とのシンクロニシティもおもしろい。あちらは神様だったが、こちらはクラス9という常識を超えた、すべてを知る半人間/半計算機。
主人公やその他の登場人物の名前も象徴的。少女の名前は“知ル”。少女のエスコート役となる情報省の役人の名前は“連レル”。量子コンピュータを開発した(スポンサーになった)会社の社長の名前は“問ウ”。こうして、人物には登場時から役割が暗示される。
もちろん、タイトルでもあり、少女の名前でもあり、一部で話題の最期の一文でもある「知る」ということが物語のテーマとなる。冒頭で、情報化社会においては、“知っている”とは“検索できる”と同意であるという鋭い指摘。脳が電子葉によって直接ネットワークにつながってしまえば、ネット上で検索できることと、知っていることの差分は無くなってしまう。
そしてさらに、電子葉と共に育った知ルは、電子葉の能力を最大に使い切るために、“すべて”を知ろうとする。その先にあるものは、今まで、誰も知りえなかったもの。
知ることとは生きること。知識欲こそが生命の源。生命が物理的自己組織化であるならば、知るとは情報の自己組織化そのものである。
SFの世界(実際にコンピュータ科学においてもだが)にはシンギュラリティというコンセプトがある。情報機器が進化しすぎて、人間の能力を超え、人間には理解できない別な世界を見出すというものだ。コンピューターが人間を超えるポイント。それが特異点=シンギュラリティ・ポイント。この小説は、極めて日本的にシンギュラリティ・ポイントを真正面から描いた作品であるといえる。
“知る”とは何かという命題に対し、仏教での“悟り”、“覚悟”という言葉の意味を引き合いに出す。シンギュラリティとは計算機の悟りであるのか。そして、すべてを知った“知る”の先にあるのは何かを、古事記のエピソードに絡めて語る。何より、最終的にすべてを知るのがおっさんではなく、14歳の少女であることも、いろいろな意味で日本的。
限界を越えた“知る”の先から、果たして知ルは帰って来られるのか。それにこたえる最後の一文の美しさは、確かに称賛されるべきだろう。