goo blog サービス終了のお知らせ 

神なる冬

カミナルフユはマヤの遺跡
コンサドーレサポーターなSFファンのブログ(謎)

[SF] know

2013-08-17 23:02:43 | SF

『know』 野崎まど (ハヤカワ文庫 JA)

 

国民の脳に電子葉を埋め込むことが義務化され、社会が高度に情報化された近未来。量子コンピュータである量子葉を脳に埋め込まれて育った少女が世界を変える。

未来のすべてを演算により知ってしまう少女といえば、つい最近読んだ『NOVA10』に収録の伴名練「かみ☆ふぁみ」とのシンクロニシティもおもしろい。あちらは神様だったが、こちらはクラス9という常識を超えた、すべてを知る半人間/半計算機。

主人公やその他の登場人物の名前も象徴的。少女の名前は“知ル”。少女のエスコート役となる情報省の役人の名前は“連レル”。量子コンピュータを開発した(スポンサーになった)会社の社長の名前は“問ウ”。こうして、人物には登場時から役割が暗示される。

もちろん、タイトルでもあり、少女の名前でもあり、一部で話題の最期の一文でもある「知る」ということが物語のテーマとなる。冒頭で、情報化社会においては、“知っている”とは“検索できる”と同意であるという鋭い指摘。脳が電子葉によって直接ネットワークにつながってしまえば、ネット上で検索できることと、知っていることの差分は無くなってしまう。

そしてさらに、電子葉と共に育った知ルは、電子葉の能力を最大に使い切るために、“すべて”を知ろうとする。その先にあるものは、今まで、誰も知りえなかったもの。

知ることとは生きること。知識欲こそが生命の源。生命が物理的自己組織化であるならば、知るとは情報の自己組織化そのものである。

SFの世界(実際にコンピュータ科学においてもだが)にはシンギュラリティというコンセプトがある。情報機器が進化しすぎて、人間の能力を超え、人間には理解できない別な世界を見出すというものだ。コンピューターが人間を超えるポイント。それが特異点=シンギュラリティ・ポイント。この小説は、極めて日本的にシンギュラリティ・ポイントを真正面から描いた作品であるといえる。

“知る”とは何かという命題に対し、仏教での“悟り”、“覚悟”という言葉の意味を引き合いに出す。シンギュラリティとは計算機の悟りであるのか。そして、すべてを知った“知る”の先にあるのは何かを、古事記のエピソードに絡めて語る。何より、最終的にすべてを知るのがおっさんではなく、14歳の少女であることも、いろいろな意味で日本的。

限界を越えた“知る”の先から、果たして知ルは帰って来られるのか。それにこたえる最後の一文の美しさは、確かに称賛されるべきだろう。

 

 


[映画] ワールド・ウォーZ

2013-08-17 22:13:55 | 映画

『ワールド・ウォー Z』


[c]2012 PARAMOUNT PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED. 

 

原作があまりにすばらしかったので心待ちにしていた映画。

しかし、蓋を開けてみれば、ブラッド・ピットが何を思ってこの小説の版権を買ったのかわからないくらい、原作とは無関係なただのゾンビ映画だった。

 

この映画のゾンビは走る系。映画の『…28日後』からゾンビは走るようになったと言われているけれど、確かにゾンビが走るのは怖い。ゲームのバイオ・ハザードだって、雑魚ゾンビが走り出すようであればクリアはおぼつかいないだろう。しかし、ゾンビはゆらゆら動いているからいいのであって、これだけ走るゾンビが相手じゃ、怖いというより、絶望感しかない。本気で世界滅亡は近いな。

しかし、音で注意を惹くまではゆらゆら揺れている描写もあったので、そこはオリジナルなゾンビに近いシーンもあった。

とはいえ、原作の面白さは対ゾンビ戦術のバリエーションや、人々がどのようにゾンビに対抗し、ゾンビの存在する世界を受け入れていったのかというところにあったのに対し、この映画ではその部分はほんのとばくちに過ぎず、すべてはこれからで終わってしまう。

どちらかというと、この映画では新たなゾンビ像を描くとともに、家族の元へ帰る男の物語に終始してしまっている。ならば、『ワールド・ウォーZ』をわざわざ原作に持ってくる必要も無かったんじゃないかと思う。

また、ブラッド・ピット演じる主人公はUN職員としてウィルスの正体を探りに探索に行くわけだが、彼の立場も良くわからない。もっと疫学の重要性に焦点をあてた啓発性みたいな部分があっても面白かったんじゃないかと思う。結果的には、アイディア一発勝負だったわけだけれど、なんで致死性じゃなきゃいけないのかとか、いろいろ理屈が曖昧。どちらかというと、四肢欠損や盲目、聾唖あたりに持っていった方が、イスラエル女兵士のエピソードと直接つなっがったし、致死性でなければならない強引さもなくなったんじゃないかとか。

 

なんだかマイナスポイントばかり上げているけれども、総体的にはスリリングなゾンビ映画で、2時間という時間をまったく時間を感じさせなかった。あれ、もう終わりなのかというのが感想。まだ半分ぐらいなのかと思ってた。

とにかく、走るどころか飛びかかる、よじ登る、人間ピラミッドを作ると、アクティブで手におえないゾンビ像が絶望的。あんなの、クラシックで常識的なゾンビ対策では対処できません。もう無理。

ただし、物語としては新鮮な感動も深遠なテーマも見られないので、ゾンビ好きなひとのためだけの映画なのかもしれない。ゾンビ映画だというのは宣伝で隠しているっぽいんだけどな!