拝啓、世界の路上から

ギター片手に世界を旅するミュージシャン&映画監督のブログ(現在の訪問国:104ヶ国)

渋谷駅前での路上ライブ(東京)

2008-01-14 | 旅エッセイ2000「拝啓世界の路上から」
渋谷駅前での路上ライブ風景です。
東京に住んでいた頃、よく歌っていた懐かしい場所です。
2000年の旅はここからスタートしました。

拝啓、世界の路上から あとがき「道はまだ続く/中国・敦煌」

2007-12-27 | 旅エッセイ2000「拝啓世界の路上から」
拝啓、世界の路上から あとがき「道はまだ続く/中国・敦煌」

 ギター1本持って世界中でストリートライブをしよう!そんなことをふと思いつき始めた旅。それが終わった日からちょうど1年、今僕はシルクロードのオアシス、中国の敦煌に来ています。

 本来ならインドの後、香港から陸路で中国に入って万里の長城でゴール!と思っていたのが、トラブルなどもあり予算の都合で、香港から日本へ飛行機で飛んでしまったのが旅の唯一の心残りでした。それで「拝啓、世界の路上から」と銘打ったこの旅エッセイの、あとがきを書くにあたって選んだ場所が、北京郊外にある万里の長城だったのです。

しかしギター片手にその長城で歌っているうちに、地の果てまで続くかのような、万里の長城のずっと先まで行ってみたくなり、長城の西の果てといわれるこの敦煌へとやってきました。そして僕は先程からここ敦煌の砂漠で歌っているのですが、この砂で覆われた地平線の先には、かつてシルクロードと呼ばれた道がまだまだずっと続いています。そうどこまで行っても、道はずっと続いているようです。

 世界一周の旅から日本に戻った僕は、この旅を始めた場所、東京の渋谷駅前の路上へと向かう電車の中で、大学生でしょうか、見知らぬ日本の若者達の会話を耳にしました。そしてその会話を聞いていると、笑ってしまうくらい旅に出る前とまったく何も変わっていなくて、ああ何て日本は平和なのだろうと苛立ちにも似た感情さえ覚えました。

 しかしそれと同時に、その若者達の姿が旅立つ前の自分の姿と重なり、昨日の自分を見ているようで、これから自分はどんな生き方をしていくのだろう、やはり以前と同じ生活に戻るのか、それともまったく新しい人生を模索していくのだろうかと、期待以上に大きな不安を抱えていたことも憶えています。

 そしてあれから1年。それからもいろんな出来事がありました。

 例えばイースター島で出会ったロスが、アジアを旅するといって日本に遊びにきた際、彼と一緒に東京、名古屋、大阪などでストリートライブを行ったこと。
そしてやはり音楽が捨てられずバンドを結成し音楽活動を再会したこと。

この旅をしている途中で、よく人から「旅が終わったらどうするのです?」と何度も聞かれました。その時僕は次のように答えていました。

「僕はいつもうた歌いでありたいと思っている。それは今までもこれからも同じ。昔、僕はどうしても音楽で飯が食いたいと思っていた。音楽って君にとって何って聞かれた時、仕事ですと答えたかったから。どうしても趣味ですと答えるのは、死にそうなぐらいカッコ悪くて嫌だった。でも今は素直な気持ちで、音楽は僕にとって僕の人生そのものですって答えられる。だから飯を食う手段は、食べていけるなら何だっていい。ただ自分の信じるままこれからも生きていくだけだし、この胸の鼓動が止まるその瞬間まで歌い続けたい」

 その気持ちは今でもまったく変わっていません。

 また「旅をして何が変わった?」ともよく聞かれました。その時はきまって次のように答えました。

 「それ以前の僕は幸せとはとても難しいもので、ものすごくがんばって努力した末に、やっと手に入れられるものだと思っていた。でもこの旅で幸せってそんなに難しいものではない、楽しい仲間や大切な人達と綺麗な景色でも見ながら、美味しいご飯を食べられるだけで最高に幸せ。そして僕の場合それに歌があったら、もう他に何も必要ない。そんなごく当たり前のことが、やっと初めてわかるようになれた旅でした」

 そう幸せってそんなに難しくないって思います。難しくしているのは自分自身なのだとね。ただ日本はいろんなモノが溢れ過ぎていて、何が幸せなのか非常にわかりにくい国だなと、そう感じたりもします。
余分なものが多すぎると、本当に大切なものがぼやけてしまうのが残念ですね。「幸せって、失くして初めて気付くもの」それではやっぱり寂し過ぎますから。

 そして今言えることが1つあります。それはこの旅はまだ終わっていないということ。

 シルクロードのオアシスここ敦煌に来て思うことは、どこへ行っても何をしていても、完全な終わりなど無く、僕はいつも何かの過程………そう通過点という言葉が適当かもしれません、その通過点にいつもいるのだということ。どこまでも続く地平線をこうして眺めていると、そんな気持ちにさせられます。
 昨年僕がギター1本持って始めた旅は、確かにインドの後、香港そして渋谷駅前でのストリートライブで一旦幕を閉じました。これで旅が終わったのだ、もう2度とこのような旅をすることも無いのだと思っていました。
でも今僕はまた、こうしてここシルクロードの砂漠でギター片手に歌っている。ひょっとしたらまた僕はギターを持って旅するなんて言い出すかもしれない。
だから僕は「拝啓、世界の路上から」の旅を終わったとは思っていないんです。明日は誰にも分らない。明日が続く限り、人は新たな道を歩んで行くものですから。

 もうすぐ砂漠の砂で出来た山々の間に、太陽が沈もうとしています。
 でも今日の太陽は沈んでも、また明日になれば東の空から明日の太陽が登ってくる。明けない夜など無く、例えいつか僕が息をしなくなったその日も、そしてその後も毎日はずっと続いていく。

旅に出る前、いつも見えない迷路に迷い込んでは出口を探していた自分。きっとどこかにゴールがあるのだと思って、なんとかそこまで辿り着こうともがいていた自分。
でもEXITと書かれたドアも、ゴールの白いテープもどこにも無かった。あったのは今日1日の24時間がずっと、また明日も明後日も続いていくというその事実だけ。

 この胸の鼓動が止まるその瞬間まで、僕はうた歌いでいたい。そしてその時自分の歩いてきた道を振り返って、ああ僕は幸せだったなと、そう言えるよう信じる道を歩いて行きたい。そして大切な人や仲間が傍にいてくれたら、きっと何も怖くはない。それがこの旅の中で、僕が出した1つの答えです。
 
人にはそれぞれの道があり、それぞれの生き方があります。それは旅だって同じ。同じ道、同じ旅、まったく同じ生き方なんてものは存在しません。だから僕の出した答えが正しいかどうかなんてわからないし、ひょっとしたら人の数だけ答えはあるのかもしれない。またそれは永遠ではなく、変化していくものなのかもしれない。
でも今はこれでいいって思います。これが「今の僕らしい答え」なのだと。

 最後に、この旅で出会った全ての人へ「ありがとう」を言わせてください。皆さんと出会えて、本当に楽しい旅が出来ました。またいつかどこかで会えるのを、心から楽しみにしています。

そしてまだ見知らぬ人へ。もし世界のどこかの町で、歌っている僕を見かけたら声をかけてください。もしかしたら、そこからまた新しいストーリーが始まるかもしれませんからね。そうきっとまだ旅は続きます。

それではまた会う日まで、今日のところはこれで一旦おしまいにしようと思います。
「拝啓、世界の路上から」………この話に「敬具」は必要なさそうです。

拝啓、世界の路上から 第15話「混沌の聖地へ/インド」(後編)

2007-12-27 | 旅エッセイ2000「拝啓世界の路上から」
拝啓、世界の路上から 第15話「混沌の聖地へ/インド」(後編)

 デリーからの夜行列車で、バラナシに着いたのは朝の10時半頃。列車の中で偶然ニューデリー駅の外国人チケットオフィスで会った日本人青年、フジバヤシ君とばったり再会し、チケットを確認すると座席も前後。じゃあバラナシまでご一緒しましょうということになる。
列車は2Aのコーチで広々としており、エアコンも効いていて快適。だがここで問題が発生。実は茶羽ゴキブリが大量発生しすでに2、30匹は殺しているというのに、次から次へと沸いてきてキリがない。イースター島(第8話)の時も話したが、僕は大のゴキブリ嫌いなのに枕元をチョロチョロ走られるので、寝ながら間違って食べちゃったらどうしようと気が気でない。おまけに風邪の下痢も再発し、トイレに行くこと十数回。脱水症状ぎみでフラフラになりながら、バラナシのカントメント駅で降車する。
話の流れでバラナシの町もフジバヤシ君と一緒に回ることになり、2人でオートリクシャ(タクシー)に乗ってガンジス河沿いの旧市街に向かう。

 ヒンドゥ教徒に母なる大河と呼ばれ信仰されている、ガンジス河のほとりに広がる人口約120万人の町バラナシは、ヒンドゥ教三大神の1人であるシヴァ神の聖地であり、年間100万人もの巡礼者が訪れるヒンドゥ教の七聖地の1つ。ヒンドゥの教えではこの地で生を終えて火葬され、遺灰をガンジス河に流されたものは天国に行けるといわれている。
一方我々のようなバックパッカーにとっても、ヒマラヤ山脈に抱かれる国ネパールと、インドとを結ぶ交通の要所であり、さらに東のカルカッタと北のデリーとを移動する者、ヒンドゥの聖地で沐浴したいと思う者、数え切れない多くの旅行者がこの町に立ち寄る、北インド有数の観光都市となっている。

 僕達を乗せたオートリクシャは、走り出して5分もすると辺鄙な場所で急に止まる。そしてそのリクシャの運転手が、僕達が告げた宿とは違う宿へ行かないかと切り出してきた。なんでも僕達の予定している宿へ行くには途中の路地が狭く、その1km手前までしかリクシャでは行けないからというのだ。
 最初乗るときに宿の名前を告げると、その宿をよく知っていて宿のすぐ前まで行ってくれると、事前に何度も何度も確認してから乗っているのにも関わらず、このような提案をしてきたのだ。
約束が違うだろうが!と言うが、じゃあ1kmも歩くのか?無理だろう?などと強気に出てくる。それならもういいとリクシャを降りようとすると、バカ!と大声で罵声を浴びせてきた。
 それでも無視してフジバヤシ君にさっさと降りようと誘うと、今度はおもちゃのピストルを僕に向けて、ぶっ殺すぞ!と低いドスのきいた声で脅してきた。
 こちらも完全にキレて、ああ上等だ!やれるものならやってみやがれ!と日本語で吐き捨て、そのリクシャを飛び降りる。

 すぐさま他のリクシャを探そうとするが、ここはリクシャがあまり通らない場所らしい。ヤツはわざとこの場所を選んで車を止めたようだ。だがいつまで待っても他のリクシャが通りそうにないので、少し歩いてから探すことに。

 しばらく歩くと、リクシャが行き交う通りに出る。だがやはり宿の名前を告げると、オートリクシャでは近くまでは入れないといわれる。ヒラバヤシ君がガンジス河沿いのその宿にどうしても泊まりたいというので、しかたなくサイクルリクシャに乗って20ルピー、50円でその宿の近くまで行ってもらうことにする。

 サイクルリクシャというのは自転車の後ろにギリギリ2人乗れる程の、小さな座席が付いている人力タクシーなのだが、僕達はバックパックやギターを持っている上、道が悪くガタガタと揺れ今にも振り落とされそう。荷物用のスペースなども当然無いので、重い荷物を片手で宙吊りにしなくてはいけなく、乗り続けるのがかなりツライ状態。またリクシャの運転手も相当辛そうで、少し悪いことをしたかなと思う。
 
 15分程走ってリクシャは、ダシャシュワメードガートというバラナシ最大の沐浴場の近くに止まった。ガート(沐浴場)というのは、ヒンドゥ教徒の信仰の対象である、ガンジス河に入って体を清める為の場所だ。

運転手にありがとうとお礼を言って、少し多めにお金をあげてリクシャを降りる。そこから細い路地に入り、予定していた宿を探す。だがなかなか見つからない。しかも道には牛や人のウンコだらけ。すごく臭い。
 さらに紹介料をせしめようと、客引きのインド人がさっきからずっと付いて来る。初めは無視していたが、あまりにもしつこいので追い払う。だがなかなかあきらめずいつまでもしつこくついてきて、他の宿に連れて行こうとする。ストーカーもびっくりする程のしつこさだ。
その内こちらもキレて、あっちいけバカヤローと怒鳴ると、他のインド人達と一緒になって、メニ―・ジャパニー、バカ・バカ・アンポンタン!とからかってくる。
 予定している宿もかなり奥まった場所にあるのか、いくら探しても見つからない。おまけに通路はかなり入り組んでいて迷路の様。このままだと迷子になりかねない。残念だがその宿は諦め、他の宿を探すことに。

 しかし重い荷物を担いで歩き回ったのがいけなかったのか、興奮して怒鳴ったのが原因かはわからないが、どうやらまた風邪をぶり返したらしい。熱も出てきたのか目眩いもする。
 とりあえずどこか安全な宿をと、僕が唯一知っているバラナシの日本人宿クミコハウスを目指す。だが次に乗ったオートリクシャも、知っている宿だから大丈夫といったにも関わらず、紹介料をとろうとまた別の宿に連れて行こうとする。こちらが指定した宿以外は金を払わないと言うと、判ったお前のいう通りにすると答えるがものの2分もしないうちに、また違う紹介料のとれる宿へ連れて行こうとする。アホかお前は。

 しかたなくこのリクシャも降りてさらに別のリクシャに乗るが、こいつもまた同じことを繰り返す。おまけに先程から次から次へと客引きが群がってきて、俺の知っている宿に泊まれ、いや俺の宿だと次々に声をかけてくる。いらないと言っても一歩も引き下がらないので無視していると、こいつらも揃ってバカ!バカ!と罵声を浴びせ始めた。
 最後には皆でそろってバーカバーカの大合唱に。いったいどうなっているのだ、この町は。狂ってる。

 熱もかなり高くなってきて、もうほとんど意識がない。さらに腹も痛くなり最悪の状態。そして数台のリクシャにあちこち連れまわされ、持っている地図からもすっかり離れてしまった場所で、今自分達がどこにいるのかもわからない。
 でもこんな時相方がいるのは心強い。先程まで不安げにしていたフジバヤシ君が、僕の状態を察してくれ、たまたま通りがかった日本人に現在地を聞いてくれて、彼達の泊まっている宿を紹介してもらったのだ。すぐさま別のリクシャを拾い、その通りがかりの日本人と共に、その宿まで連れて行ってくれた。そしてそれぞれシングルルームにチェックインする。ここがトイレ・シャワー共同で1泊80ルピー、200円。

 体調が悪い僕は、夕方まで薬を飲んで寝ることに。
 その薬が効いたのか熱は少し下がったのだが、酷い下痢が続き、体中の水分が無くなって脱水状態になる。
 少しでも体に何か入れようとフジバヤシ君と一緒に、宿近くの洋風レストランで夕食をとる。また薬を飲んで安静にし水分補給も絶やさないようにするが、下痢はさらに酷くなり、この晩だけでトイレに30回以上も起きるはめになった。こんなに酷い下痢は初めてだ。

 翌朝、フジバヤシ君が部屋にでかいヤモリがいて、とてもじゃないが耐えられないというので、他のもう少し良いホテルに移ることに。僕の部屋にもでかいヤモリが3匹いて、天井や壁を這いずり回って餌のハエなどをバクッと食べていた。また昨夜は熱と下痢にうなされて眠れなかったので、そいつらをポチ、タマ、まさおと勝手に名付けて、ベッドで横になりながらじっと観察していたのだ。なぜ1匹だけまさおなのかは、僕にも分らなかったが、なんとなく顔がまさおって感じ。直接的に害がある訳ではないし虫を食べてくれるので、実を言うと僕はあまり気にしていなかった。
だが問題はトイレの方で、昨夜のように5分おきにトイレに走るような状態で共同トイレはかなり辛い。今は幾分良くなってはいるが、またいつ体調が悪くなるか分らない。そのトイレに誰かが入っていると別の階に走らねばならず、万が一間に合わないと困るので、できれば部屋にトイレがある程度の少しマシな宿にと、一緒に移動することにしたのだ。
 そしてこの日は前日の宿近くにある見栄えの良いホテルで紹介された、アッスィーガートという沐浴場近くの、奥まった所にあるホテルに泊まることにする。本当はその見栄えの良いホテルに泊まりたかったのだが、満室といわれたからだ。ここが1泊シングルで150ルピー、375円。
 
 少し高い宿なので部屋はまずまず。しかしここの従業員が最悪で、顔を合わせる度に僕達をツアーに行かせようとする。いらないと断っているのに部屋にまでやってきて、ドンドンとドアを激しく何度も叩き何度も勧誘される。
 宿の食堂で食事をしていてもすぐまたツアーはどうだと誘われ、そのくせ頼んだ食事は忘れてこなかったりするものだから、呆れてモノも言えない。
それでもこの日も昼間部屋で休んでいたせいか、だいぶ体調が戻ってきた。

夕方少し元気になったので、宿から歩いて10分程のアッスィーガートへ、ギターを持って出かけることに。そして沐浴場のコンクリートの階段に腰を下ろし、ギターを片手に歌い始める。
 するとここでも大勢の子供達が寄ってきて、あっという間に囲まれる。そのまま歌い続けると、ガンジス河に吸い寄せられるようにして、言葉とフレーズの1つ1つがまるでシャボン玉の様に次々に消えて行く。そしてスローバラードを歌い出すと一瞬シーンとなり、歌声があたり一帯に響き渡った。

僕の周りにいる子供達は、いわゆるカースト外(どのカーストにも属さない、それ以下という位置付け)の乞食の子供達だったが、非常に人懐っこくてすぐに仲良くなれた。
 トラブルで行けなくなってしまったが、もし予定通りデリーで列車の乗り換えが出来ていれば、カルカッタのマザーハウス(マザーテレサの建てた施設)に住む孤児達に、自分の歌を聞いてもらおうと思っていた。でもそれが駄目になり泣く泣く諦めたのだが、これでその代わりが出来たような気がしてなんだか少し嬉しかった。

 しかし30分もすると雨が振り出してきて、どんどんと雨足が強くなる。雨宿りする場所もないので、1時間半くらい歌ったところで切り上げて宿に戻ることに。

 道のあちこちにある、多くの野良牛の糞や人糞が雨で流れ出し道はぐちゃぐちゃ。かなり非衛生的だ。歩いていても土なのかウンコなのかまったく分らない。もう最低。
それでもなんとか宿に戻ってくると、この宿でも巨大ヤモリが大量発生し、あちこちの壁や天井にへばりついている。やはり雨季のバラナシは、どこへ行っても同じなのかもしれない。フジバヤシ君はちょっとブルーのようだったが、僕は少し体調が良くなったこともあって、この晩は快適に眠ることができた。

 次の朝、フジバヤシ君と2人でマニカルニカーガート近くにある、バラナシ最大の火葬場に行く。ここも細い路地を抜けていくのだが、途中また頼んでもいないガイドが勝手についてきて、あれこれと説明を始めた。僕は無視していたが、フジバヤシ君は彼の話に熱心に耳をかたむけている。

 しばらくしてその男に、火葬場横の死を待つ人の部屋に連れていかれる。そこには1人の老婆が寝ており、彼の話ではここで死ぬのを待っているとのこと。でも彼女には身寄りが無く、彼女を燃やす為の薪代を寄付しろといってくる。藤林君は彼の言い値である、50ルピーを払っていたが、僕は完全に無視。この自称ガイドがその老婆と無関係であるのは、誰の目にも明らかだったからだ。それでも彼はしつこく僕のカルマ(汚れ)を取り除く為にお布施を出せと迫ってきたが、カルマを取り除く必要があるのは、僕ではなくこの男の方じゃないかと思い断る。
 フジバヤシ君にも、お金を払う必要はないと忠告したのだが、彼いわく納得して払ったそうなので、まあそれは個人の自由だとそれ以上は何も言わなかった。

 しばらく2人でガンジス河と、燃える死体をぼおっと眺めていた。そしてフジバヤシ君がぽつりという。「うーん、やっぱりバラナシって、生と死が交わる場所ですね」と。

 しかし僕の印象は少し違う。

 ガンジス河が雨季の為茶色く濁っていたこともあるが、僕にはただの何てことはない汚い川としか思えなかった。そして火葬場にしても、近代化されているという違いはあるものの、日本にも幾らでもあるではないかと思う。
 僕は親族の死を何度もこれまで見送っているので、火葬の方法という意味では確かに興味深いものの、何もここまで来ないと「死」というものを実感できないのかと、少し寂しく思う。
 人間は確かに皆いずれ死ぬ。だからこそ今を生きようと思う。そういう意味で「死」というものを意識するのは大切だが、バラナシに来ないとそれを感じられないというのは、少し違うのではないかと思うのだ。

 ガンジス河は確かにヒンドゥ教徒の聖地だし、それは疑いのない事実だ。しかし同じインド人でもスィーク教徒や、イスラム教徒はこの町では見かけない。それをまったく無関係な日本人が、無条件にありがたがるのはどうかと思う。
 ヒンドゥに帰依するものならいざ知らず、皆が無条件にクリスマスや初詣をごっちゃにする同じ次元でありがたがって、聖地だ聖地だと持て囃すものだから、この町の人心もツーリスト、特に日本人に対して擦れていくのではないのか。

 目を凝らしてこの町をよく見てほしい。剥き出しの悪意が、これほど顕著に表れているのは、今インドのどの都市よりも酷いのではないか。

 沢木耕太郎の深夜特急に憧れ、この地を目指す若者は今も昔も数多くいると思うし、僕もその内の1人だ。しかし僕達は自分自身のこの目で、現実をちゃんと直視することが大切だと思う。
 簡単に騙され現地の人間にとっては1年分近い給料を、気安くほいほいとバラ撒けば、次第に人を騙して金を取るのが当たり前のようになってしまう。バラナシをここまで悪意に満ちた町にしてしまったのは、僕達外国人旅行者の責任では無いのか。これでは確かに彼達のいう通り、メニージャパニーは、バカで、アンポンタンで、騙されて当然の存在なのかもしれないと思う。

 僕達1人1人それぞれに、目と、耳と、体と、心があるのは、自分自身でちゃんと物事を受け止める為にあるのだと思うし、それはすごく大切なことだと思う。
だからこそ、この町を訪れる旅行者に問いたい。ガンジス河は、バラナシは、本当に「君にとって」聖地なのかと。

 考えた上でそれでもここは聖地で、ガンジス河をありがたがるならば問題はない。ただガンジス河やバラナシ=(イコール)聖地というモノの見方は、とても危険なことではないかと、僕はそう強く感じずにはいられないのだ。そしてそのことは日本から遠く離れたある国の、一地方都市に限ったことだけではないと思う。

 僕達1人1人それぞれに目と、耳と、体と、心があること。それはとても重要なことのような気がするのだ。

 火葬場を離れて、今日の夕方デリーに戻るというフジバヤシ君と別れる。その足で宿をチェックアウトし、オートリクシャで鉄道駅へと向かうことに。
 事前に40ルピーと約束していたにもかかわらず、支払いの時になって50ルピーと催促されたが、少し体調が戻った僕は笑顔でサンキューと40ルピーだけを彼の手に渡し、予約した列車に乗った。

 さらば混沌の町、バラナシよ。

バラナシから夜行列車で走ること29時間、ムンバイ(ボンベイ)のビクトリアターミナス駅に再び戻ってきたのは、翌日の午後3時。そしてそのままタクシーに乗って、サルベーションアーミー(救世軍)という、以前僕が宿泊していた宿へと向かう。
 宿に着き受け付けに行くと、ドミトリールームのベッドに空きがあったので、チェックインし部屋に入る。本当は今晩の深夜便で香港に向う予定なので、宿泊する必要はないのだが、疲れていたので少しだけでも横になろうと宿をとったのだ。
部屋に入るとそこには、他にも3人の日本人が部屋で寛いでいた。彼達と旅の話をしたり、ギター片手に歌ったりしながら時間が過ぎて行く。

 その後宿の食堂で夕食を取り、部屋に戻る途中の階段でまたギター片手に歌っていると、オーストラリアとニュージーランドの女の子2人組みが、階段に腰掛けじっと僕の歌を聞いている。そして彼女達は曲が終わると拍手してくれた。
 
 しかし次の曲の途中で、ギターの3弦が切れる。すぐさま弦を張り替えようと思ったが、どうやら代えを切らしてしまったらしい。
困っているとニュージーランドの彼女が、私持っているわよと自分の部屋に戻って、3弦を1本持ってきてくれた。弦の代金を支払おうとするが、いいわよそんなのと言って受けとろうとしない。
 話してみると彼女もギターを弾くらしく、それならと彼女のギターと僕の歌でセッション大会となり盛り上がる。

 しかし30分もしないうちに、もう夜も遅いのでとガードマンに止められ、お開きになってしまった。せっかく盛り上がってきたのにすごく残念だ。
 それでも僕達のセッションに感激しましたといって、相部屋の日本人青年がジュースをご馳走してくれる。なんだか少し悪い気がしたが、ありがたく好意に甘えることに。

 深夜12時になったので、宿をチェックアウトしてタクシーで空港へと向かう。予定では明日には香港、そして明後日にはいよいよ日本だ。そう間も無く長いようで、あっという間だったこの旅が終わろうとしている。

やっと終わるという達成感と、終わってしまうという寂しさ。まだ見ぬ明日への期待と不安が入り混じった複雑な心境。この先いったい何が、この僕を待ち受けているのだろう。
そして僕はこの旅をしたことで、何が変わって行くのだろうか。

 何かを探すように始めた旅。果たして僕はその探していたものを、見つけることが出来たのだろうか?

 闇の中、自身のヘッドライトの灯りに導かれるようして走る、空港行きのタクシーの中で、僕はそんなことを考えていた。

拝啓、世界の路上から 第15話「混沌の聖地へ/インド」(前編)

2007-12-27 | 旅エッセイ2000「拝啓世界の路上から」
拝啓、世界の路上から 第15話「混沌の聖地へ/インド」(前編)

 え?このギターを弾いてくれっていうのか?よしわかった、1曲歌おう。
 
 エジプトのアスワンからカイロに戻った僕は、そのまま飛行機でインド最大の都市ムンバイ(ボンベイ)に入る。アラビア海に面した西インドのムンバイから、さらにバスで北東約350km離れた、デカン高原にある古い市場町アウランガーバードに移動。そこで世界遺産であるエローラなどの石窟寺院を観光したり、曲作りをしたりして数日過ごす。そして次なる目的地デリー、アグラといった北インドの都市を目指して鉄道に乗り、乗り換えの為、今ここマンマード駅で列車待ちをしているのだ。

2番ホームから出るというアグラ行きの夜行列車を待って、ベンチに荷物をおろして座っていると、通りがかりのインド人が僕のギターを指差し弾くのか?と聞いてくる。
 どうせすることも無いしじゃあ1曲やるかと歌い始めると、あっという間に大勢人が集まってきてしまった。
1曲歌い終わるともっと歌え、歌ってくれと皆で大合唱。インドではインド以外の音楽(たいていはインド映画音楽が主流)をあまり聞く機会がないので、珍しいのだろうか。だが世界的に有名な英語の曲さえも、皆ほとんど知らないみたい。だがその中に若い頃わしはイギリスに住んでいたんじゃと自慢する、駅の売店で店番をしている爺さんがいたので、これは知ってる?とビートルズを歌うと、おお知っとるぞ!としきりに懐かしがっていた。

 何曲か歌い終わると、ほらチャイを飲めクッキーはどうだとご馳走してくれる。何もしなくても勧められる時もあるのだが、そういう時は下心があるのか親切からなのかが区別できないので、お腹空いていないからと大抵断わる。でもこの時ばかりはお言葉に甘えいただくことに。

 午後7時、予定ではそろそろ列車が来るころだが、いくら待ってもなかなかやってこない。駅に列車が着く度に、これか?これなのか?と聞いてみるが、違うお前の乗る列車は遅れているらしいと、そんなことを繰り返す。結局40分遅れで列車が到着。インドの列車はよく遅れると聞いていたが、なんとか目的の列車に乗ることができた。

 アウランガーバードからマンマードに来る時は最も安い2等列車だったのだが、これから向かう北インドのきっての観光都市アグラまでは、少し奮発して同じ2等でもエアコン付の寝台を予約していた。僕のベッドは3段ベットの1番上で、席を見つけるとまず荷物を座席下に入れ、盗難防止に自転車用のチェーンを使って座席の柱とくくりつける。すると隣の席に座っていたインド人が、また僕のギターを見て弾くのか?と聞いてきた。
 そうだと答えるとやはり弾いてくれというので、ギターを取り出して歌うことに。するとまたあっという間に、同じ車両中のインド人が集まってきてしまった。すごい人の数。調子に乗ってアップテンポの曲を演奏すると、皆そろって手拍子をしてくれたりする。僕達の車両は、即席ミニライブ会場に早変わり。でもなんだかすごく楽しい。

 歌い終わると皆本当に親切にしてくれ、インドに来て初めてインド人と友達として話しができる。会話の中でインドではどこを回るのかと聞かれ、西のムンバイからアウランガーバードを通ってここまできたが、次に北のアグラ、デリー、そして東のカルカッタの方へ向かおうと思っていることを告げる。すると彼達が南部出身だからだろうか、北はやめておけ、メシはまずいし人も悪い、デリーからカルカッタなどに行かず南に行け、特に音楽をやるならマイソールやマドゥライがオススメだといわれる。
 でももう列車のチケットを買ってしまったからねと言うと、ひどく残念そうな顔をして、そうかそれなら次は絶対南に来てくれよと手を差し出してきた。僕もそれに応えギュッと握手を交わしこの夜は眠りについた。

 翌朝11時過ぎに列車はアグラのカント駅に到着。車中で友達になったインド人は、皆総出で列車を降りてホームまで見送りに来てくれ、しかもいいというのに荷物まで持ってくれる。そして皆と次々に硬い握手を交わして、サヨナラといって手を振り別れる。
 知り合ったばかりだったが、皆あまりにもいい奴達だったのでちょっと涙がこぼれそう。ああインドも悪くないという気持ちにさせられる。だがそれも束の間、列車を降りて歩き出したとたん、しきりに数人のリクシャワーラー(タクシードライバー)につきまとわれる。ここカント駅は郊外にある為、タクシーを使わないと町の中心部に行けないので、こうして駅でドライバーが観光客待ちをしているのだ。
 
 インドの首都デリーからヤムナー川沿いに約200km南に下った、地方都市アグラは有名な世界遺産、タージマハルがあるインド屈指の観光都市。発祥は紀元前3世紀といわれているがこの町を歴史の表舞台に登場させたのは、1558年にムガル帝国第3皇帝アクバルが、首都をデリーからこの地に移してから。その後約1世紀に渡り、この地はムガル帝国の首都として栄える。ちなみにムガル帝国というのはモンゴルのチンギス・ハーン一族の血を引く、初代皇帝バーブルが興した国で、ムガルという名前もモンゴルが訛ったものらしい。

 いや結構と言うのに、数人のリクシャワーラーがゾロゾロとどこまでもついてくる。地の果てまで付いてくるのではないかと思うくらい、本当にしつこい。
その中で1番人の良さそうな奴に、幾らだと聞くと30ルピー、75円というので、そのリクシャでタージマハルの南門まで行くことに。
そしてそこから2分程歩き、屋上からタージマハルが見えるという安宿にチェックインする。シングルルームの空きを聞くが残念ながら満室。だが150ルピーなら悪くないと、少し奮発して空きのあったダブルルームに決めた。これで1泊375円。

 宿の近くで昼食をとった後、友人にEメールを送ろうとすぐ近くにあったインターネットカフェに行く。しかしインターネットカフェといっても、普通の商店にぽつんと1台ダイヤルアップ接続の、WINDOWS95のパソコンが置いてあるだけのもの。
 この辺りにはこのような店が何件かあり、1件目では今接続するので待っていろといわれ15分待つが、いつまで待ってもつながらないのでもういいやと出てきてしまう。
続いて入った店では一応つながったが、速度が驚異的に遅い。モデムは内臓の28.8Kもしくは56Kの内臓モデムが、自作パソコンのようなものに差し込まれているのだが、体感的には9600bpsすら出ていない。インドのシリコンバレーと呼ばれるバンガロールや、デリーなどの大都市ではまた違うのかもしれないが、日本では56Kすら遅く感じる時代になかなかスゴイものがある。
さらに追い討ちをかけるように30分もすると、いきなり店のヒューズが飛んでしまい停電になる。店のオヤジがあれこれブレーカーの配線をいじって、30分もすると一応なんとか復帰したが問題はその後。
まあここはインドこんなこともあるだろうと、僕はおとなしく待っていたのだが、停電が起きた時の約束ではそれまでの時間を止めて、再び接続後から計算してくれるといっていたにも関わらず、いざつながったら店の主人がとんでもない提案をしてくる。
 この停電で店も大変な思いをした、だから停電している間の料金を半分払ってくれないかというのだ。それは僕には関係ないだろうと話すと、確かにそうだが君が半分、私が半分でちょうどいいじゃないかと勝手なことをぬかす。約束が違う。それなら金は払わないぞと怒鳴って、ようやく当初の約束の条件に戻る。
インド人がかなり図々しいということは知っていたが、思っていた以上に商魂たくましいと違った意味で感心してしまう。中国人とインド人が世界中に根づいて商売を成功させているのは、こういった理由なのかもしれない。でもきっと僕はもうこの店には、2度と来ないであろう。たくましいが長い目で見たらアホだと思う。

 宿に戻ってから自分の体調の異変に気付く。おかしい。どうも熱っぽいようだ。額に手をあてるとかなり熱があるようなので、とりあえず今日1日は無理をせず、薬を飲んで寝ることにする。

 夜7時過ぎに起きるとあたりは真っ暗になっており、ひょっとしたら月明かりに照らされた、タージマハルが見られるかもと屋上に出てみる。だが天気が悪いせいか、真っ暗で何も見えない。しかたなく軽めの夕食をとり、また薬を飲んで寝る。

 翌朝もまだ体調がすぐれない。だがこの日は金曜日で通常500ルピー、1250円もするバカ高いタージマハルの入場料が、なんと無料になるので体に鞭打ち朝1番でタージマハルを見に行く。

本体の高さ67m、長さ57m×57m、祭壇の広さ95m×95mの大きさを持つ、白大理石で出来た世界遺産タージマハルは、第5代皇帝シャー・ジャハーンが最愛の妻ムムターズ・マハルの死を惜しんで、その死の翌年1632年に着工を指示し、22年後の1653年に完成した巨大な墓。タージマハルという名前も、妻の名前が変化したものだとか。インドといえば白大理石で作られたタマネギのような、丸い屋根のイスラムのモスクを彷彿させるこの建築物をイメージする人も多い。だが世界的に有名なこの建築物は、モスク(礼拝所)や宮殿ではなく巨大な墓なのである。

宿から歩いてすぐの、南門をくぐるとすぐ正門に出る。それを通り過ぎて敷地内に入ると、真っ青な空の下、透き通るぐらい真っ白なタージマハルが悠然と聳え立っている。

タージマハルは間近で見ると確かに迫力がある。しかし理由はわからないが、タージマハルに来たぞという感動が沸いてこない。感じるのは、ああハイハイこれがタージマハルねといった程度のものなのだ。インドに来たら絶対に寄りたいとすごく楽しみにしていたはずなのに、僕はどうかしてしまったのだろうか。

 靴を脱いで建物の中に入ってみるが、30分もしないうちに出てきてしまった。本当ならこの後、ムガル帝国時代に皇帝の居城だったアグラ城に行くはずだったが、どうも熱が下がらないのでそのまま宿に戻りもう2時間ほど眠ることに。
 
 11時頃ホテルをチェックアウトし、オートリクシャに30ルピー、75円で乗ってカント駅へ向かう。この日は昼12時過ぎの列車で一度デリーへ行き、そこで乗り換えて夕方発の夜行列車でカルカッタに向かう移動日。
体調はまだおもわしくなかったが、せっかく買ったチケットが無駄になるのも惜しいしと、少し無理をしてでも移動することにしたのだがこれがこの後裏目に出る。

 カント駅のホームで、待てども待てどもデリー行きの列車がこない。乗り換えには3時間近くゆとりを見ていたのだが、すでに予定より1時間以上経過している。偶然同じ列車に乗るという、駅で会った日本人の女の子と一緒に他のインド人に聞いてみるが、遅れていると一言だけ。
幾ら待っても列車が来ないのでさらに状況を探っていると、偶然通りがかった駅員の次の言葉に僕達は愕然とする。「デリー行きの列車は、トラブルで現在6時間遅れです。」

 何?6時間遅れだって?
 
 冗談じゃない。これではラチがあかないと、とりあえず次に来たデリー方面行きの列車に飛び乗ることにするが、その次の列車が来たのはそれからさらに4時間後。もう日も沈みかけた夕方5時近く。今日この後デリーで乗り換え予定の、カルカッタ行きの列車は完全にアウト。
 結局デリーの中央駅である、ニューデリー駅に着いたのは夜9時過ぎ。一緒に列車に乗った日本人の女の子が泊まるというホテルが、ニューデリー駅から真っ直ぐ伸びたメインバザール通り沿いにあるというので、当ても無いしとついて行くことに。
受け付けで聞いてみると空室があるというので、そのままチェックインする。彼女は翌日帰国するらしく、300ルピーの部屋に泊まるとのことだったが、僕は80ルピー、200円のシングルルームを選択。体調が相変わらずかなり悪かったので、早めに眠ることに。

 ヒンドゥの民が聖なる川として崇拝するガンジス河の支流になる、ヤムナー川沿いに発展してきたインド共和国の首都として君臨するデリーは、人口937万人の北インド最大の大都市。
だがデリーがインドの歴史に顔を出すのは意外に遅く、1206年のこと。しかしその後は様々な民族と宗教が交差するインドの歴史と、このデリーとは切っても切れないものとなり、デリーの歴史を語ることはインドの歴史を語るといっても過言でない程、デリーはインドの中心となってきた。そこでそのデリーの歴史をここで簡単に振り返ってみたいと思う。

デリーが初めて首都となったのは、1206年のデリー・スルタン朝の時代。トルコ系民族がこの地を支配し、初めてインドに興ったイスラム教国家でもある。
それから約320年間、この地で5つのイスラム王朝が続くが、アグラの項で述べたチンギス・ハーン一族の血を引くバーブルが、現在のアフガニスタンからこの地に南下し制圧。ムガル帝国が誕生して、アグラに首都機能は移される。だがタージマハルを築いたムガル帝国第5代皇帝、シャー・ジャハーンが1638年に再びこの地に遷都し、デリーはまた歴史の表舞台に登場する。
18世紀に入るとムガル帝国は衰退し、その隙を突いたイギリスがインドの政治、経済に介入し東インド会社を設立。実質的にインドを統治下に置き、首都機能をカルカッタに移してしまう。ここでまたデリーはインド史から姿を消そうとしていた。
しかしその後イギリスの推し進める、カースト制度の撤廃政策に怒ったヒンドゥ教徒が、ただのお飾りでしかなかった当時の皇帝、バハードゥル・シャー2世を擁立し、1857年にセポイの反乱を起こすものの、鎮圧されムガル帝国は滅亡。1858年にイギリスは東インド会社を解散させ、正式にインドをイギリスの直轄領とし植民地時代に突入する。
次にデリーが歴史に登場するのが、イギリス統治下時代の1912年。当時首都であったカルカッタでは、イギリスの植民地支配に対抗する民衆運動が激化していた。その対応策としてとられたのが、かつて首都機能があったデリーへの遷都だった。これが現在のニューデリーの始まりである。(ムガル帝国時代の城やムスクが残るエリアは、これに対しオールドデリーと呼ばれている)
20世紀に入るとイギリスはイスラム教徒を優遇し、ヒンドゥ教徒を冷遇する政策を次々に展開。この2大勢力を対立させることによって、反英民主運動を押さえ込もうとした。これは後にインドが国土を2分することになる、大きな要因ともなる。
だが第一次世界大戦でイギリスに協力すれば、インドに自治権をあたえるという公約を守らなかったイギリス政府に対して、大戦で多数の犠牲を払ったのに約束が違うとさらに民衆運動は悪化。それに対してイギリス政府は武力を持ってこれを鎮圧した為、それに怒ったインドの偉大なる父、M.K.ガンディが、反英運動の中心的存在であった国民会議派を率いて、非暴力・非服従運動を展開。それは瞬く間にインド全土へと広まる。
その後第二次世界大戦が勃発し、それに疲弊したイギリスはインドに対する支配力を弱め、比例するようにガンディ率いる民衆運動が活発化。イギリス政府は策に窮して、ガンディ達指導者を投獄するなどで対抗するが、これが仇となり遂に1947年8月に、ガンディ率いる国民会議派を中心としたインド共和国の独立を容認。
しかし国民会議派はヒンドゥ教徒が中心となっていた為、これと対立関係にあった親英派のイスラム教徒を中心としたイスラム連合は、インド共和国への加入を拒否。東西のパキスタン・イスラム共和国として独自に独立する。これによってインドは国土を2分した2つのインドとなり、インド、パキスタン両国の対立は現在なお続いている。(その後東パキスタンは1971年にパキスタンから独立し、バングラデシュ人民共和国となる)
このような歴史を持つデリーは、そのインド共和国の首都として、以来現在までインドの政治の中枢となっているのだ。

 翌朝7時に起きると宿から10分程歩き、ニューデリー駅の2階にある外国人専用のチケットオフィスに向かう。昨日乗ることが出来なかった列車の、チケットの払い戻しの交渉をする為だ。しかし階段のところでインド人2人組みが立ちはだかり、どこへ行くのだと聞いてきた。

 外国人用オフィスと答えると、今閉まっているのでこちらに来いというのでついて行くことに。しかし駅から出て外の旅行代理店に向かおうとするので、こいつはサギだと思いどこへ行くのだ、俺は駅のオフィシャルオフィスで手続きすると言って、無視して駅へ戻ってくる。
 しかしなかなかしつこくて、2階へ上がる階段のところでもう1人の仲間とさらに立ちはだかる。なぜだ!俺は外国人ツーリストだ!だから絶対外国人オフィス以外では手続きしない!と怒鳴ると、しぶしぶ2人組みはそこをどき通してくれた。

 2階へ上がり、入り口の所で8時まで時間を潰す。8時過ぎにオフィスが開き、さっそく昨日のトラブルを説明する。すると受け付けの係員が、これは自分のボスでないと対応できない、だからボスの来る10時までそこで待てといわれる。しかたなく椅子に座って待っていると、すいませんちょっといいですかと、日本人の青年が声をかけてきた。
 彼はなんでもこの後バラナシ(ベナレス)に向かうとのことで、その時僕が手に持っていた現地の時刻表を、できれば見せてもらえないかというのだ。
他にすることもないので快く了解して、彼の希望する列車のコード番号を探してあげる。また彼は初めてインドの鉄道に乗るというので、手続き方法や寝台列車では盗難防止用のチェーンが必要だということも、ついでにアドバイスする。

 10時になって受け付けでいっていたボスらしき人物が来たので、そこへ行き諸事情を説明する。しかし30分粘っても列車の変更はできないという。列車が遅れたのは事実だが、そもそも君の持っている2枚のチケットは別々のもので、一方が遅れたからといって乗り換え予定の列車に乗れないのは、我々の責任ではないというのが彼の言い分だ。
普通飛行機などは同じ会社の便の乗り継ぎが遅れたら、ちゃんと保証してくれる。しかもこの2枚のチケットは、同じ日に同時に購入したものだとレシートを見せて説明するが、まったく相手にしてくれない。
 これ以上話しても平行線のままなので、しかたなく彼のいう可能な払い戻し額、50%を受け取ることに。デリー=カルカッタ間の超特急列車、ラージタニーエクスプレス3Aチケット代金1500ルピーの50%、750ルピーと、カルカッタ=バラナシ間の2Aチケット代金1008ルピーの手数料、25%を引かれた756ルピー、合わせて1506ルピーが払い戻される。しかしこちらは何も悪くないのに、1002ルピー、2500円が消えてしまった。
1000ルピーといえば10日分の宿代を上回る金額。かなり納得できないものがある。だがこれも一種の事故にあったのだと、あきらめることに。そしてその分のお金で今晩のニューデリー発、バラナシ行きのチケットを購入する。まだ体調がすぐれないので、2Aの寝台席のチケットを1098ルピー、2750円で購入。払い戻し分の差額は、カルカッタ一都市を諦めることで調整。何でこうなるの?

 3時間の戦いの後、宿に戻り1泊延長してまた眠ることに。今晩の列車が夜8時40分発なので昼間も無理をせず休んで、風邪を治すことに専念しようと思ったからだ。
 それが良かったのか夕方目覚めた頃には、ほぼ熱は下がっていた。しかし次にやってきたのがひどい下痢。
 インドに来てから生物は口にしていないので、おそらく風邪からきているのだろうと軽めの食事を取り、風邪薬を飲んでまた少し休む。
しばらくして少し良くなってきたので、ニューデリー駅から真っ直ぐ伸びたメインバザール通り沿いの、インターネットカフェに入ってみる。すると中にはコンピュータが60台程度あり、内装も綺麗。そして使ってみるとデリーのインターネットカフェは、日本語のタイピングができる上に高速。どうやらここはISDN回線を使って、簡単なLAN(ローカル・エリア・ネットワーク)を構築しているみたい。また1時間20ルピーと安いのがいい。

列車の時間になったので、宿をチェックアウトし駅へ向かう。体調はまだ完全ではなかったが、なんとか1晩の移動ぐらいは耐えられそうだ。

拝啓、世界の路上から 第14話「ライヴ・イン・ピラミッド/エジプト」(後編)

2007-12-27 | 旅エッセイ2000「拝啓世界の路上から」
拝啓、世界の路上から 第14話「ライヴ・イン・ピラミッド/エジプト」(後編)

 翌朝サファリホテルに宿泊していた大学生、シライ君と朝7時半の列車でルクソールへ向かう。かなりオンボロな列車の2等座席で揺られること約10時間、カイロから南に約670km離れたルクソールに到着したのは夕方の6時頃。

 紀元前2000年頃発祥し、古代エジプト文明の中王国、新王国、末期王朝時代と3つの時代に首都として君臨した歴史を持つ、かつてテーベと呼ばれたルクソールは、人口5万人のナイル川沿いの町。
この町はナイル川を挟んで東岸と西岸に分けられており、東岸は現在も市民の暮らしの中心となっていて、カルナック神殿、ルクソール神殿などの有名な遺跡がある。また西岸はかつてネクロポリス(死者の都)と呼ばれ、王家の谷やハトシェプト埋葬殿などに代表される王族、貴族などの墓地となっていた場所。
ルクソールの語源は、アラビア語で城塞の意味を持つ「エル・ウスクール」で、ローマ帝国時代にこの町が、城壁に囲まれた大要塞であったことから名付けられたという。

ナイル川東岸にあるルクソール駅に着いた僕達は、ギザ以上にしつこくウルサイ客引きをくぐり抜け、カイロの日本人宿サファリホテルの情報ノートに書かれていた、駅から5分程歩いた所にある安宿にチェックインする。ここはシャワー、トイレ、ファン付きの部屋が1人6エジプトポンド、約180円。

 一日中列車の硬い座席に座りっぱなしで、体がなまっていた僕達は町に着いていざ行動開始と、部屋に荷物を置いたその足で流しの乗合タクシーに乗って、東岸の見所であるカルナック神殿に行く。
だが着いた時には既に入り口が閉まっており、そのままとぼとぼと歩いて帰ることに。

 その帰り道に商店街に立ち寄り水と野菜とメロン、そして店先につるされたマトンの肉を量り売りで切ってもらい購入する。
値段はそれぞれ水が2リットルで1.5エジプトポンド、45円。野菜がジャガイモ2個タマネギ1個、ナスとズッキーニが1本ずつ、ニンニク1個であわせて3エジプトポンド、90円。よく熟れたメロンが丸々1個で5ポンド、150円。そしてマトン(羊肉)が0.25キログラムで4ポンド、120円。これらをシェアすることに。

宿のキッチンで先程購入した野菜と、僕の持っていた固形のルウと日本米を使ってカレーを作る。今夜のメニューは久々のカレーだ。そして八百屋で買ったメロンは冷凍庫で冷やす。
 1時間程して出来上がったカレーを、ハフハフ言いながら口に運ぶ。マトンは少し硬かったがなかなかの味。本当は鶏肉か牛肉を探していたのだが、イスラム圏で肉といったら一般的にはマトンになってしまう。鶏肉も生きたままの鶏なら売っていたが、言い出しっぺの調理担当者である僕が、鶏の首をキュッと締めてさばかなくてはいけないので、さすがにそれはちょっとと思い諦めた。やってやれないことは無いのだろうが、当分鶏に襲われる夢を見そうな気がしたから。
 さらに食後のデザートにと冷やしておいたよく熟れたメロンを切って食べると、それはこの世の物と思えない程濃厚でねっとりまったぁりとした甘さ。これまでの人生の中で、最高に美味いメロンだと断言できる。このような絶品のメロンが出来るのは、気候のせいなのだろうか。
よくラーメンの為だけに東京から札幌や博多に行く人がいるが、このメロンの為だけにエジプトに来てもよいと思う程。でも本当にそうしたら、ものすごく高いメロンになってしまうのだけど。

 翌朝部屋をチェックアウトした後、シライ君と2人で自転車を借りて遺跡を見て回ることに。しかし前夜泊まった宿で自転車を借りる際に、5分でいいから日本人観光客の客引きを手伝ってほしいと頼まれる。もし手伝ってくれたらお礼に、後でシャワーを使わせてあげるし、ミネラルウォーターもあげるからというのだ。けして悪いホテルでは無いのだが、そんな義理もないので断るといいじゃないかと逆ギレされる。
 なんじゃコイツはとこちらも頭にきて、俺達には時間がないから早く自転車を持ってきてくれよと言うと、遠くの自転車屋で借りて来るので10分待て、その間暇だろうから客引きを手伝えなどと寝ぼけたことをぬかす。
先程すぐ持ってくるといったから借りることにしたのに、それだったらキャンセルだと怒鳴りつける。すると一転して低姿勢になり、わかった悪かった3分で借りてくるから待ってて頂戴とお願いするので、仕方なくブツブツ文句を言いながらも待つことに。

 しかし自転車が届いたのはそれから15分後。しかも今にも壊れそうな超オンボロ自転車が2つ。斜めに反ったサドルに腰掛けると、ギコギコと首をふる。首ふり機能のついた扇風機なら知っているが、エジプトの自転車にはこんな機能もつけてあるのか。待っている間にどこからか部品を拾ってきて、組み立てたのかと思う程酷い。先程の仕返しとばかりに、後でイッヒッヒとほくそ笑むのかもしれない。性格悪いぞオイ。これが1人1日5ポンド、150円。

まずは昨日見損ねたカルナック神殿へ向かう。市街地から北へ10分程自転車を走らせると、夕べは薄暗くてよく見えなかった巨大な神殿が、僕達の視界にその姿を現す。自転車を入り口近くに止めて鍵をかけ、同じく入り口横にあるチケット売り場で、シライ君に学生証を借りて半額の10エジプトポンド、300円で入場する。自分で言うのも何だが相変わらずセコイ。

カルナック神殿は東西540m、南北に西辺600m、東辺500mもある世界最大級の神殿で、アメン大神殿、ムト神殿、コンス神殿など複数の神殿群からなる、古代エジプト宗教の聖地ともいえる場所。この中でもとりわけ有名なのが、ルクソールでも最も強く崇拝されたアメン神をまつったアメン神殿で、歴代のファラオ(王)達が自分の力を誇示しようと、我も我もと新たに増築を繰り返して巨大な建造物になった。
この遺跡の中でも、高さ23mと15mの2種の柱が134本も並ぶ大列柱室や、約40体もの羊頭のスフィンクスが並ぶ参道、フランスのパリのコンコルド広場にあるものと同じオベリスクなどが有名。ちなみにパリのオベリスクは、元々ここにあった対のうちの1本だとか。
 噂に違わず大列柱室は圧巻で、思わずその場に立ち尽くして柱に描かれたレリーフなどに見とれる。ここは写真などでイメージしていた、ルクソールの遺跡という趣。そして現存する世界最大級の神殿というだけあり、遺跡の規模はさすがにデカイ。でも神殿の全体的な感想としては結構破損が激しく、痛々しいと感じる場所も少なくない。現在でもまだこの壮大な神殿の、発掘と修復は続いているらしいのだが。

 お昼頃になりかなり暑くなってきたので先を急ごうと、カルナック神殿にあるアモン大神殿の付属神殿であるルクソール神殿に向かう。このルクソール神殿とカルナック神殿との間には、かつて3kmもの距離を、両脇にずらっとスフィンクスが並ぶ参道が続いていたとか。
そしてルクソール神殿の前から出ている船に乗って、ナイル川を渡り西岸へと向かう。
途中観光客向けの船の客引きにしつこく声をかけられたが、それをくぐり抜け僕達は現地人の利用する、24時間運行というボロ船に自転車を引いて乗り込んだ。これが往復0.5エジプトポンド、15円。

 ローカルの船が動き出してから、10分程して西岸の船着場に着く。そこからサトウキビや麦、ナツメヤシの畑の中に1本伸びたコンクリート道路を、ひたすら10分程自転車をこぎ続けると、2つの巨大な像が並ぶメムノンの王像の前まで辿り着く。しかし僕達が目指すのは、さらにずっと先にある西岸の遺跡の入場チケット売り場。まだ半分も来ていないのに、あまりの暑さでバテバテ。オマケにサドルは首振りっぱなしで、オケツも痛くてもう最悪。
ハアハアゼエゼエ、オケツ痛えと言いながら、やっとの思いでチケット売り場へと到着する。ここでは王家の谷にあるツタンカーメン王の墓を除く、西岸の遺跡全てのチケットを扱っており、ここでチケットを買っておかないとどの遺跡に行っても中に入れないとか。ここで僕達は王家の谷と、ハトシェプスト埋葬殿のチケットを買う。再び学生証で半額の16エジプトポンド、480円を支払う。

冗談キツイよ助けてくれえと呻き声をあげながら、さらに自転車をこぎ砂漠の中を抜けると、しばらくしてハトシェプスト埋葬殿に到着。はっきりいってもうヘロヘロ。僕の背中のデイバックにつけてあるミニ温度計を見ると、気温が軽く40度を越している。自転車での西岸の遺跡巡りは、やはり無謀だったのかも。でも来てしまった以上、もうどうしようもない。

 ここハトシェプスト埋葬殿は、1997年11月17日午前9時15分(日本時間午後4時15分)、イスラム原理主義の6人のテロリストによる、観光客を狙った大虐殺が起きた場所。その時日本人10人、スイス人43人、イギリス人4人、その他3人の計約60名のツーリストが、テロリストの乱射する銃弾によって皆殺しにされた。そうごく普通の何の罪も無い旅行者が、あっという間に皆殺しにされたのだ。
犯人はその後観光客のバスを奪って逃走したが、警察車両によって道路を閉鎖した100名以上の警官隊と激しい銃撃戦を繰り広げ、結果6名全員が射殺された。それに対峙した警官隊も3名が死亡。負傷者は85名。それまで平和だったルクソールを襲った、悲劇の事件。サファリホテルの情報ノートに張られていた、写真入りの新聞記事のことを思い出す。そして今こうしてこの遺跡を目の当たりにして、酷く胸が痛む。

 だが遺跡は現在ではかなり修復が進み、大虐殺事件時の銃撃戦の痛みを包み隠すかのように、一面鉄筋コンクリートで覆われた真新しい建物となっていた。
 しかしいくらセメントでその傷跡を埋めたとしても、亡くなった犠牲者はもう戻らない。新聞記事に載っていた写真には、新婚旅行でこの地を訪れていた日本人犠牲者の方々の写真もあった。おそらく結婚式場で撮影されたものであろうか、幸せそうに微笑むその写真が、よけいに言いようのない深い哀しみと虚脱感を誘っていた。

いったい何がいけないのだろう。罪の無い人の命を欲する宗教など、本当に必要なのだろうか。この地球上には様々な人々が暮らしている。数え切れない程の価値観が存在する。それぞれの言い分があるだろう。もちろんそれはテロリストにしても、言い分はあると思う。でも自分と違う価値観を持った人々と、互いに尊重しあうことはできないのだろうか。
人類はこれまでの歴史の中で革命とか聖戦だとか、正義の為と言って自分達の戦争を正当化してきた。様々な理由をつけて人を殺すことを正当化してきた。でも人の命を奪うことに、正義など存在しない。例えそれが愛する者を守る為だとしても、涙を流して行うのだとしても、やはりそれは許されるべきものではないと思う。

例えば目の前でテロリストが、自分に銃口を向けたとする。そして自分がこの手に、拳銃を握り締めていたとする。僕は殺される前に相手を殺すべきなのか?自分の命を脅かそうとしている相手に対し、殺られる前に殺らなくてはいけないのだろうか?
人はいつか必ず死ぬ。ならば銃を捨て黙って殺されるという選択肢は、本当に無いのだろうか。
僕だって訳もわからず殺されるのはゴメンだ。愛する者も守りたい。見殺しになんてできやしない。でも目の前の相手にだって、家族や恋人や大切な人がいるはずだ。もし愛するものを守るために人殺しが正当化されるとするならば、誰かが銃を手にとった瞬間、最後の1人になるまで僕達は殺しあわなくてはいけない。

この世界には様々な価値観がある。何が正しくて、何が正しく無いなんて誰にもわからない。そして戦争はいつも哀しい。

 しばらくして次なる目的地、王家の谷を目指すことに。だが近くにいたポリスに聞くと、なんでもここから山を1つ越さないといけないらしく、もう僕達はバテバテだったのでしかたなく自転車をその場に置いてタクシーに乗ることにする。
だがここの駐車場には、タクシーがポツンと2台停まっているだけなので、足元を見られて思うように値段交渉が進まない。それでも何とか粘り強く交渉を続けて、結局1人7エジプトポンド、210円を払って、王家の谷とハトシェプスト埋葬殿を往復してもらうことに。
 
 紀元前1500年頃の新王朝時代になると、歴代のファラオ達はピラミッドの建設を止め、盗掘を逃れる為町から離れた川を挟んだ西岸の谷へ墓を作るようになった。それが王家の谷である。
 墓といっても建築物があるわけではなく、岩山にくり抜いた長い洞窟に壁画などの装飾を施し、石棺や副葬品と共に遺体を安置したとされる。現在発見されているものは全部で62基。その62基目がかの有名なツタンカーメンの墓である。

 王家の谷に着き、ラムセス6世や4世などの墓を見て回る。墓の中の壁画はとても3500年前のものとは思えない程、鮮やかな色をしておりなかなかすごいものがある。
少ししてシライ君がツタンカーメンの墓を見たいというので、入り口でチケットを買う。これがバカ高く当然のように?学生証を借りて使うが、半額でもこれ1つで20エジプトポンド、600円。

 古代エジプト新王国時代第18王朝(紀元前1565~紀元前1310年)のファラオ(王)の1人で、若くして暗殺されたと言われる悲劇の少年王、ツタンカーメンの墓は1922年11月4日、イギリス人ハワードカーターによって発見された。
盗掘されつくした他の王の墓と違い、埋葬された当時のままの姿で出土した、中に並べられたきらびやかな黄金の副葬品の数々は、20世紀最大の発見といわれ、一躍この王の名を世界中に知らしめることとなる。
この王の墓が現代まで盗掘にあわなかったのは、若くして亡くなりあまりにも墓の規模が小さかったからだといわれている。だが規模が小さいといっても、黄金のデスマスクを含めた出土品の数々は、カイロにある考古学博物館の2階のフロア約半分を要する程。この少年王の墓ですらこの規模なのだから、盗掘にあった他のファラオの遺品はいか程であったのだろうか。

墓の内部に入るとかなり狭く、あっという間に玄室へ辿り着く。その玄室の中には人型の棺に入れられた、ツタンカーメン王の本物のミイラが、レプリカの黄金のデスマスクをつけて眠っている。本物のデスマスクを含めたほとんどの副葬品は、現在カイロの考古学博物館にあるのだが、3重になっていた人型棺のうちの第2人型棺に入れられて、王のミイラが今もここに眠っているのだ。
シライ君はこの墓をすごく見たかったとかで、ウォーといって感動に打ち震えていた。かたや僕はというと、こんなに小さなお墓なのに正規の入場料金が1200円もするのかと、ヒエーッといってそんな衝撃に打ち震えていたのだけど。

 自転車とローカル船で来た道を引き返し、ルクソール神殿の前へと戻ってきたのが夕方の4時。気温は50度近くなり、自転車移動の疲れも重なり意識が朦朧としている。
 とりあえずエアコンのある場所に移動しようと、シライ君と2人で近くにあったマクドナルドに入る。ここで食べた、なんてことのないチーズバーガーとポテト、コーラのセットがなんとうまいことか。ファーストフードを食べて感動したのは、これが初めてかもしれない。ポテトはいかがですか?とエクストラを勧める笑顔のお姉さんに対して、いやいいですといつもブッキラボウに断る僕だが、今ここでそんなことをいわれたらじゃあそれも1つ貰おうかなと、ニッコリ笑って何でも買ってしまいそう。怪しげな壺を1つウン百万円で売りつける宗教団体は、この手口を使っているのかもしれない。

 宿に戻り自転車を返し、荷物を取って駅へと向かう。そして夕方6時頃、ルクソール駅に到着した列車に飛び乗ってアスワンへ。前日チケットを購入しようと、ルクソールに到着した際に駅のオフィシャルカウンターへ行ったのだが、40エジプトポンドとまた法外な金額を請求された。だが飛び込みなら正規料金で乗れるという噂を聞き、列車の空いている座席に勝手に座り車内で購入。これでアスワンまで15エジプトポンド、450円。どうやら噂は本当だったようだ。

 ルクソールから、南に200km離れたアスワンに到着したのは、それから約3時間後。そのまま駅近くにあったホテルの、ツインルームにチェックインする。ここがファン付で1人6ポンド、180円。
この日はさすがに疲れていたので、宿近くのチキン屋で鶏肉のあぶり焼きを食べて、そのまま宿に戻って就寝。
 
 次の日、疲れていたので何をする訳でも無く、だらだらと昼近くまで過ごす。本当ならここから南に280km離れたスーダンとの国境近くの、アブシンベル神殿に行きたかったのだが、なんでも今は道が水没し飛行機でないと行けないとか。
この神殿はかつてダムの建設で水没の危機にさらされ、ユネスコの国際キャンペーンによって救済されたという、ラムセス2世の巨大な立像が並ぶエジプト屈指の大遺跡。
ものすごく行きたかったのだが、実は旅の資金がもうあとごく僅かしかなく、ここで無理して行ってしまうと、日本に帰れなくなる恐れがあったので泣く泣く諦めたのだ。
それでもせっかくアスワンまでは来たのだからと、洗面所で手洗いの洗濯をした後町へ出てみることに。

ナイル川の東岸に位置するアスワンは、カイロから南に約850km離れた人口15万人の町。かつてこの辺りからスーダン方面にかけて、南1000kmにわたる広大な土地をヌーバ族という黒人が支配していた。そのためこの町では、カイロなどのエジプト北部のアラブ系民族とは明らかに違う、ヌーバ族の末裔であるヌビア人という色の黒い人が目立つ。彼達はアラブ人よりも人懐っこくて親切。その為かここアスワンに来ると、ホッとするという声をよく聞く。

 アスワンの町をぶらつき、少しお腹がすいたので1件のケバブ屋に入る。そこでケバブ(羊肉のあぶり焼き)のサンドイッチを注文する。これが1つ1.5エジプトポンド、45円。味もなかなか良くボリュームたっぷり。
何か飲み物が欲しいと思ったが、水が出てきたのでそれを飲む。水道水であろうその水は、かなり消毒臭くけして美味くはないが飲めない程でもない。きっと一般の観光客は水道水の水など飲まないだろうが、現地人と同じ物を食すというこのスタイルでずっと来ているので、馴れてしまえばどうってことはない。

 さらに町をぶらついていると生ジュース屋があったので、マンゴージュースを飲んでみることに。するとこれがもう最高。ギュッと生のマンゴーをしぼった濃厚なジュースが、デカイ氷の入ったクーラーボックスで冷え冷えになっている。これを飲んだらもう他のものは飲めないというくらい美味い。カイロでも何度かマンゴーやオレンジの生ジュースを飲んだが、ここで飲んだマンゴージュースはまったくの別物。思わずもう1杯おかわりしてしまう。これが1杯1エジプトポンド、30円。

 それから町の郵便局で切手を買い、商店街で絵ハガキも買って宿に戻る。切手が1枚1.25エジプトポンド、38円。しかしやはりというか、郵便局でもおつりをごまかされそうになり少し口論となった。悪気があるのか、ちょっと頭が弱くて足し算が出来ないのかはわかないが、いつもおつりが違う。それも必ず少なめに。
シライ君と2人で来ていたのだが、僕の後に購入したシライ君の時も同じように間違う。2人で来ていると見ればすぐわかるのに、同じネタを繰り返すあたりはやはり頭が弱いのかもしれない。もうちょっとヒネリナサイ。
 
 夕方までホテルでハガキを書いた後、6時頃フルーカという小さな帆掛け船に乗りに行く。これは風のみを動力とする帆船なので、エンジン音も無く静かにのんびり川を漂うことのできる乗り物だ。僕達2人で船1隻借り切って、それで1人5エジプトポンド、150円。

 ナイル川でフルーカに乗ってしばし漂う。

 昼間あんなに暑かったのが嘘のように、心地よい風が頬を撫でてゆく。思わず目を閉じてうたた寝してしまいそうだ。

時計の針が6時半を回ると、さっきまでギラギラと真上で輝いていた太陽が、赤い衣をその身にまとったかのように真っ赤に染まり、西岸の生い茂る緑のジャングルの中へ少しずつゆっくりと沈みはじめた。これまであちこちでサンセットを見てきたが、ナイル川の船上で見る夕日も息を呑むほど幻想的。ただじっとその光景を見つめる。

それから1時間程して夕日が完全に沈んだ頃、僕達を乗せたフルーカは船着場へと帰ってくる。
 僕達のフルーカのキャプテン(船長)はヌビア系の若い青年だが、彼1人で船を切り盛りしているので、船の帆をしまおうとマストによじ登ると、船の舵を操る人間がいなくなってしまう。そこで彼に指示されるままに、なぜか僕が船の舵をとることになった。
普通ならここで、金を払っているのに助手扱いされるのか?と怒るところなのかもしれないが、好奇心のカタマリである僕はわーいフルーカが運転できる、やり方教えて教えて!などと言って2つ返事で了承する。子供かお前はとツッコまれそう。
 しかしこれがやってみるとなかなか難しく、思うように舵がとれない。せっかく船着場へ近づいてきたのに、また沖へと流されてしまう。キャプテンもハーッと溜息をついて呆れ顔。よく考えてみたら、僕は公園の手漕ぎボートですら満足に操れないんだった。ゴメン申し訳ない。

 夕食も昼のケバブ屋でサンドイッチを食べた後、宿に戻って2人でビールを飲む。基本的にエジプトはムスリムの国なので、めったに酒が手に入らないのだが、こうして外国人向けに酒を置いてあるホテルもあるようだ。
 冷えたビールをぐっとあおると、あまりのウマさに絶句。しばらく言葉が出ない。やはり熱帯ではキーンと冷えたビールに限る。しかし外国人向けだけあって値段は高く、500mlのビンビールが1本5.5エジプトポンド、175円。しかし調子に乗って2人で3本もあけた。久々にヨッパラッテすっかり上機嫌になり、ギター片手に思わず歌ってしまう。
歌い終わって時計を見ると、もう夜の12時。明日はまた、オンボロ列車に揺られてカイロへ戻る移動日だ。そして僕は、そのまま次の国へ向かうことになっている。

ものすごく賑やかで鬱陶しいくらい騒がしくて、でもいつも楽しいエジプトでの日々。古代文明の遺跡はもちろん素晴らしいけれど、でも決してそれだけじゃないエジプトの日々。そんなエジプトでの日々を、まるで祭りの後のような寂しさに包まれながら、そっとこの胸に包み込んでまた旅立とうと思う。

拝啓、世界の路上から 第14話「ライヴ・イン・ピラミッド/エジプト」(前編)

2007-12-27 | 旅エッセイ2000「拝啓世界の路上から」
拝啓、世界の路上から 第14話「ライヴ・イン・ピラミッド/エジプト」(前編)

 明日のルクソール行きの寝台席を1枚欲しいのだけれど。
オイ、ちゃんと聞いてる?オイってば!

 ギリシャのアテネからロンドンを経由し、エジプトの首都カイロの国際空港へ到着したのは深夜のこと。バスもすでに終わっていたので、そこからタクシーに乗って地下鉄ナセル駅から程近い、スルタンホテルのドミトリールーム(1泊6エジプトポンド、約180円)にチェックインする。そして朝方まで眠った後、僕はここカイロのラムセス中央駅に、ルクソール行きの列車のチケットを購入する為に来ていた。

 今から約5000年前に興った古代エジプト文明の中心地、メンフィスから約30km離れたナイル川沿いの町カイロは、人口1200万人のアフリカ大陸有数の大都市。西暦641年にアラブ軍がエジプトを侵略し、エジプト末期王朝の軍事拠点だったバビロン城跡に、エジプトの新たな首都として町を築いたのが始まり。またカイロという名前の語源は、アラビア語のカーヘラ(勝利者)をイタリア語読みにしたものだとか。

そんなアラブの町カイロの中央駅で、列車のチケットを購入しようとチケット売り場へやって来たのだが、10分程並びようやく自分の番が来たと思ったら、駅員が急にお札を数え始めた。最初は少し待っていようと思ったのだが、5分待っても終わらない。いつになったら切符を買えるのかと訪ねても、不機嫌そうな顔をして、いいから待っていろといったきりまた札を数えている。

 結局30分近くそのまま待たされ、ようやく何か用か?と不機嫌そうな顔をして聞いてきた。ルクソール行きの切符が欲しいのだと言うと、いつのだ?と続ける。できれば明日の夜行、無ければできるだけ早いやつで頼むと答えると、明日はない、明後日なら80エジプトポンドだという。同区間は3~40ポンドぐらいと聞いていたので、他に安い席はないのかと聞くと、また僕を無視して札を数え出した。

 ねえちょっともしもーし!と何度問い掛けても完全無視。しばらくそのままそこで待ったが、永遠に金を数え続けるので、おんどりゃ日本人なめとったら○ンポ引っこ抜いてイテマウゾコラ!と捨てゼリフを吐いて飛び出してきた。なぜ大阪弁なのかは不明だが、日本語がわからないことを良いことに、海外では捨てゼリフは思いっきり下品に!が僕のモットーである。意味はナンノコッチャか分らないだろうが、怒っていることはよく伝わる。すると自分がチケット売り場から離れたとたん、また他の客の対応を始めたではないか。バカにするにも程がある。

 他にもう1つ空いている窓口があったので、ここで駄目ならルクソールなど行くものかと、少し並んで先程と同じ内容を告げると、明後日の朝便があるという。一番安い席は?と聞くと31エジプトポンド、930円というのでそれを発券してもらう。80ポンドといえば3倍近い値段じゃないか。まったくエジプトでは公の駅員までこうなのか。

 地下鉄に乗り、カイロの考古学物博物館や大きなバスターミナル近くの、タフリール広場へ行く。本当はここでカイロきっての観光名所である、考古学物博物館を見物しようと思っていたのだが、少し町をぶらついていると急に体調が悪くなる。しかたなく宿へ戻って休むことに。ここのところ移動続きで疲れが出たのだろうか。地下鉄代0.5エジプトポンド、15円。

 宿に戻ってドミトリールームのベッドで横になり、体調も優れないのでしばらく昼寝をする。夕方頃に目を覚ますと少し元気になったので、何か食べようと通りに出て店を探していると、1件のコシャリ屋があった。その店に入りコシャリとコーラを頼む。
 コシャリというのはエジプトの大衆食で、パスタやライスなどに煮込んだレンズ豆や、ターレーヤ(オニオンフライ)などをまぶし、ドロッとしたトマトソースをかけたもの。これにカルというお酢と、シャッタという辛いソースをお好みでかけて食べる。
けして美味い物ではなかったが安くてボリュームがあるので、僕みたいな金の無い旅行者にはありがたい食べ物。これが1.5エジプトポンド、45円。コーラが1.25エジプトポンド、38円。
お腹も膨れたので宿に戻り入り口近くのソファに腰掛け、他の宿泊客が残していった日本の小説を読んで就寝。

 翌朝僕の宿泊先のすぐ隣にある日本人宿、サファリホテルが一杯とかでこちらに流れてきた、日本人観光客4人と一緒にギザに行く。
 昨日行ったタフリール広場まで歩き、そこからバスに乗りギザへ。バスターミナルを探すのに少してこずったが、なんとかギザ行きのバスを見つけてそれに乗り込む。バス代片道0.25エジプトポンド、7.5円。そして僕達を乗せたバスは30分程走り、カイロから約13km離れた郊外の町ギザに到着する。
 
 カイロからナイル川を挟んで西側に位置するギザは、世界7大不思議の1つである、クフ王、カフラー王、メンカウラー王の3大ピラミッドがあることで有名な町。この3つのピラミッドは、今から約4500年前の、古代エジプト王朝第4王朝時代につくられたもので、当時のファラオ(王)の墓であるとか、祭壇だったなど様々な説がささやかれる巨大な建造物。中でも最大のものは、紀元前2545年から約25年間在位したクフ王のピラミッドで、底辺長約230×230m、現状の高さ約137m(現在は頭頂部が無くなったが元は146m)、傾斜角51度52分、石組みの段数201(元は約220)、平均2.5トンの石が約270万個も使われている驚愕の遺跡。
またこのピラミッド群は観光地としても歴史が古く、今より2000年以上昔の紀元前の時代から既に、観光目的で世界中から人が訪れていたというからさらに驚きだ。

ギザ市街地の最寄りのバス停で下車すると、すぐに現地の客引きがわっと集まってきてしつこく声をかけてくる。エジプトでも有数の観光地であるギザの客引きは、かなり手強いと噂に聞いていたので、いろいろゴチャゴチャいわれたが、ニッコリ笑って相手にせずさっさと歩いてピラミッドを目指す。
ピラミッドの敷地内に入る時他の皆は国際学生証を持っていたので、チケット売り場でそれを提示し10エジプトポンド、300円になる。僕は持っていないので、正規料金である倍の20ポンドのはずだったが、ダメで元々と中の1人が僕に学生証を貸してくれたので、試してみると僕まで学割が使える。
学生証には顔写真がついており明らかに別人と判るはずだが、どうやらエジプト人には日本人の顔の区別ができないらしい。越後屋お主も悪よのぅ、いやお代官様こそフッフッフッなどとフザケながら、ありがたくその恩恵に授かる。

 まずは広場正面にある川岸神殿に入る。神殿内の細い道を通って先に進むと、かの有名なスフィンクスの前に出る。またスフィンクスの背後にはクフ王、カフラー王、メンカウラー王の三大ピラミッドがそびえ立っている。

 アラビア語でアブル・ホール(畏怖の父)と呼ばれるスフィンクスは、全長57m高さ20m、顔の大きさ5mという人面獣身の石で出来た遺跡。3大ピラミッドを守護する為造られたといわれているが、詳しいことはわかっていない。このスフィンクスは長年砂の中に埋まっていたのだが、現在のように掘り起こされたのは1936年頃。ナポレオン1世のエジプト遠征時には、首から上しか地表に出ていなかったといわれている。
またスフィンクスの鼻と顎鬚が壊れているが、この鼻は1380年に宗教的狂信者によって破壊されたとか。顎鬚もかなり昔に落ちていたらしいが、1818年にここを訪れたジョヴァンニ・バチスタ・カヴァリアが、前足の間に埋まっていたのを見つけ持ち帰った。現在その顎鬚は大英博物館に展示されているが、エジプト政府は返してくれといっているらしい。

スフィンクスの前で人間、人間とぶつぶつ呟きながらなぞなぞを出してくれるのをじっと待つが、何もいってくれないので来た道を引き返しクフ王のピラミッドへ向かう。

 クフ王のピラミッドの前にやって来ると、崩れ落ちた岩の破片があったので腰をおろしてギターを取り出し歌い始める。既にお約束となりつつある、ストリートならぬ世界遺産ライブだ。
するとラクダに乗り、白い制服に身を包んだツーリストポリスがやってきたので、注意されるかなとその様子を伺いつつ歌っていると、皆立ち止まってじっと聞き入っている。曲が終わると皆一斉に拍手喝采し、グッド!とかアリガートウなどといって去っていった。南米などラテンの国々でもそうだったが、エジプトも同じく音楽には寛容なのだろうか。
一緒に来た他の日本人は、この辺でたむろしているラクダ引き達と何か話していたので、ここでしばらく30分程歌うことにする。大きなピラミッドに負けないようにと、デカイ声を張り上げシャウトする。
曲を歌い終える度あちこちで拍手がおこる。エジプトに来てからというもの客引きがしつこく、何を買うにもふっかけてくるのでちょっと閉口ぎみだったが、エジプトも悪くないなと思い直す。

 歌い終わると、皆でクフ王のピラミッド内の玄室に入ろうというので、チケット売り場に向かう。そしてここでも学生証を借りて10エジプトポンド、300円のみで済ませる。   
僕は何て悪い奴なのだろうと、少し自虐的な気分になる。すると一緒に来た日本人のうちの1人が、カイロでは簡単に偽の学生証が数百円で作れるから、作ってみてはと教えてくれる。ちなみにその人の持っていたのは、平成女学院の国際学生証。発行元はテレビ東京?上には上がいるものである。
お金に関してエジプト人は信用ならないと散々文句をいっている僕達だが、彼達にしてみれば僕達もぼったくり日本人なのかもしれない。

玄室への入り口で、見張りのポリスの1人が僕のギターを指差し歌うのか?と聞いてくる。ああと答えると歌ってくれというので、ビートルズがカヴァーしたツイスト・エンド・シャウトを歌うと皆大はしゃぎ。ナウなヤングがフィーバーしてノリノリ。
しかしさすがにこれ以上付き合っていられないのだろう、僕が歌っている間に一緒に来た他の日本人4人は、お先にといって中へと入って行ってしまった。
 ポリス達にもっと歌ってくれといわれたが、僕も皆に置いてきぼりをくってしまうのでまたねといって、ポリスの1人にギターを預けてクフ王のピラミッド内へと入る。

 中に入ると通路はかなり狭く、人がすれ違うのも難しい。これは盗賊などの侵入者を防ぐ為の様々な仕掛けがあったからなのだが、場所によっては屈まないと通れない程。
そして少し進むと、上へと続くものすごく長い階段がある。それをヒーヒーハーハー言いながらひた上った先が、ようやく王の玄室だ。
玄室は思ったよりも広く、少しヒンヤリとしていて涼しい。そして奥にはポツンと1つ石棺が置かれている。そういえば以前に、数人の白人がピラミッドパワーを授かろうと、この玄室で手を繋ぎ瞑想していた写真を見たことがある。僕もジョークで真似してみようかと思ったが、一人でしゃがんで瞑想などしようものならソモサン、セッパと、一休さんにトンチ問答を申し込まれてしまうので止すことに。
そろそろ戻ろうかと長い階段を下へと引き返す。だが階段を降りたところで他の4人と遭遇。彼達は他の部屋を見ていたとかで、まだ王の玄室まで行ってないらしく、また長い階段を上るはめに。せっかく降りたのにまた逆戻りだ。おかげでピラミッドを出る頃にはムンムン蒸れ蒸れの汗だくになる。あー臭い。
 その後気温もかなり高くなってきたしと、宿に戻ろうということになるが、一緒に来た同じ宿のメンバーの内、大学生の青年2人組みがここに残りたいというので2人と別れ、残りの3人だけで行きに降りたバス停へと向かう。

 しばらく待ってやって来たバスに乗り込むと、車掌にバス代1エジプトポンドといわれる。来る時は0.25ポンドだったので、またふっかけているなと他の乗客にいくらで乗ったか聞き、正規料金分だけきっちり払う。駅員といいバスの車掌といいオフィシャルな立場の人間すら、まったくといっていいぐらい信用できない。なかなかスゴイ国だ。

 カイロ市内へ戻るともう夕方だった。僕の宿泊しているスルタンホテルのお隣さんである、サファリホテルで他の日本人と一緒に話していると、今夜スーフィーダンスという踊りがあるという。楽団の音楽も素晴らしくしかも無料というのでじゃあと、皆でタクシーを1人1.5エジプトポンドでシェアして見に行くことに。

 スーフィーダンスというのは、イスラム教のスーフィー神秘主義者達の舞と音楽で、なんでも神秘主義というのは密教のようなものらしく、瞑想、断食、勤行などによって、悟りを開くことを目指しているとか。
 その悟りを開く為の手段というのが、回転舞踊とも呼ばれるこの舞で、数々の打楽器の演奏に乗せて、カラフルな全身スカート?みたいな衣装をつけたオヤジが、くるくると30分以上も回るらしい。くるくると回り続けることで煩悩を忘れトリップし、悟りの境地が開けるのだという。

 会場に入ると、ものすごい数の観客でほぼ満席状態。話では皆トリップしてかなりヤバイ状態になると聞いていたが、演奏と舞いが始まるとそれも頷ける程その音楽と踊りは神秘的な雰囲気で、あっという間にその世界に引きずりこまれてしまう。ほとんど宇宙刑事ギャバンに出てくる魔空空間に近い。思わずサイバリアーンと叫んでしまいそう。(今時このネタわかる人が何人いるのか)
そして楽団が奏でるアラブの調べに乗せて何か神話の物語であろうか、喜怒哀楽を具現するかのように、幾幕からなるその踊りが続く。そしていつもその踊りの中心には、カラフルな全身スカートを身に付けたオヤジが、くるくると回り続けている。よく目が回らないなと感心してしまう。この人達もお正月になると、いつもより多めに回るのだろうか。

ふと周りの人を見ると、やはり皆集団催眠に掛かったかのようにウットリと放心状態になっている。そして舞が終わると皆ハッと我に返り、惜しみない熱狂的な拍手が会場全体からドッと起こる。そして思わず興奮してウォーとかブラボーとか、お金が欲しいーとかあちこちでそんな叫び声が湧き上がる。

 ピラミッドはもちろんよかったのだがある意味このスーフィーダンスも、ピラミッドのそれに匹敵する程素晴らしいものだと思う。これだけの為にエジプトに来てもいいと思うくらいだ。宗教的なことはよく解らないが、この舞と音楽は単純に良いと思う。
興奮さめやらぬままタクシーを拾い、宿に戻ってくる。そしてお隣のサファリホテルに顔を出して、他の日本人旅行者と情報を交換していると、中に翌朝ルクソールへ旅立つ予定だという青年がいたので、明日から行動を共にすることに。

拝啓、世界の路上から 第13話「エーゲ海でのBirthday/ギリシャ」

2007-12-27 | 旅エッセイ2000「拝啓世界の路上から」
拝啓、世界の路上から 第13話「エーゲ海でのBirthday/ギリシャ」

 何だって?予約が入っていない?
ここはスペインの首都マドリッドにあるバラハス空港。僕の持っている航空券には、間違いなく今日の日付で、マドリッド発アテネ行きとプリントされている。そしてこのチケットは、リコンファームの必要が無いと発券の際にいわれていた。それなのに空港のチェックイン(搭乗)カウンターに行くと、僕の名前で予約は入っていない、さらに席は満席そしてこの路線は1日1便で数日先まで一杯だといわれる。何が何だかわからない。どういうことなのだ?

 僕はイタリアのナポリを後にし、列車で北上しミラノへ。そしてジェノヴァ、南仏を経由し、スペインのバルセロナへと旅を進めた。バルセロナでは念願だったサグラダファミリアをはじめとする、アントニオ・ガウディの建築物を観て回る。そしてストックホルムから始めたヨーロッパ列車の旅は、ここマドリッドを最終地点とし、僕はこれから飛行機でギリシャの首都アテネへ移動するところなのだ。しかし予約したはずのフライトに、僕の名前が無いという。

 なぜこんなことが起こるのかと訪ねるが、カウンターの係員は僕のチケットを見つめながら、事情はわからないがコンピュータに予約が入っておらず、今日は満席だからあなたはこの飛行機に乗ることができないといわれる。
でもどうしても今日アテネに行きたいのだと言うと、リザベーション(予約)カウンターへ行ってみてはというのでとりあえずその指示に従うことに。
 リザベーションカウンターの係員にチケットを手渡し、先程と同じく事情を説明する。するとウェイティングリスト(予約キャンセルによる空席待ちリスト)に載せるから、チェックインカウンターに並べと、先程までいたカウンターを指差す。あっちといったりこっちといったり、いったいどっちなのだ。俺はちゃんと予約を入れたのにとブツブツ文句を言いながら、再度その指差す方向へと向う。

 先程の女性と話すのも何だか癪に障るので、すぐ隣のカウンターに並ぶ。するとここでは1度今日の便は無理だといわれたものの、リザベーションカウンターで事情を説明すると、スタンバイ(座席番号の入っていないキャンセル待ち)のボーディングチケットを渡され、搭乗ゲートで待つよう指示される。

どれぐらい待っただろうか。もう随分と待っているのに、いくら待ってもなかなか自分の名前が呼ばれない。時計を見るともう少しで出発の時間だ。
 やはり無理なのかと諦めかけた頃、自分の名前がアナウンスされる。大急ぎでカウンターに行くと、ようやく正規の搭乗券を渡された。
 その後はあっちに行け、こっちに行って座席番号書いてもらえと、右に左に駆けずり回って何とか予定していた飛行機に乗り込む。

 そこからアテネの国際空港に着いたのは夕方近く。しかしここでまたもやトラブルだ。なんと預けていた僕のバックパックが出てこない。
 ギターだけは無事出てきたものの、自分達の荷物が出てくるはずのターンベルトには、後から到着したフライトの荷物が回り始めている。どこかに荷物が置かれていないか何度もチェックしたが、やはりどこにも見当たらない。
 しかたなくバゲージカウンターに行くと、どうやら他の場所へ行ってしまったみたいなので、ホテルが決まったら電話して欲しいと連絡先を告げられる。今回の旅で自分の荷物が届かないのは、これで3度目。以前ならビシッと1本中指くらい立てているところだが、さすがに少し慣れああまたかといった感じ。わかりましたと答えて、受け付け担当者名と連絡先をメモして引き下がる。でもこんな手続きに手馴れたくは無い。

ギリシャ共和国の人口の約半分である、420万人近い人が住む首都アテネは、紀元前12世紀にポリス(都市国家)の形成によって興ったとされる、ギリシャ神話にも登場する古の都。神話によると、アテネ最初の王ケクロプスは下半身が蛇だったとか。
またこの都市の名前の由来も神話に語られており、そのエピソードによると神々がこの地の守護神を決めるよう王のケクロプスに命じたところ、名乗り出た海神ポセイドンと知恵の女神アテナが、それぞれこの地の民に贈り物をすることで勝敗を争ったという。
結果はポセイドンの贈り物である、地を切り裂いて湧き上がらせたエレクテウスの海より、アテナの贈り物であるオリーブの木を民が選んだ為、軍配はアテナに上がりその名にちなみアテネと呼ばれるようになったらしい。
どこまで本当かわからない話だが神話は史実が基になっているらしいので、ひょっとしたらその通りなのかもしれない。かの木馬伝説で有名な発祥紀元前3000年といわれるトロイ遺跡も、シュリーマンが発見するまでは神話だと思われていたのだから。でもこんなことを正気で書いていると、不思議少女と同じカテゴリで括られてしまいそう。

 空港からバスで600ギリシャドラクマ、約180円払って、ギリシャの下町の異名を持つオモニア広場まで行く。ここで宿を探そうとするが持っている地図の切れ端と、実際の道があまりにも違い迷う。また道の標識はすべてギリシャ語で書かれているので、さっぱり見当もつかない。
途中すれ違う現地の人に道を尋ねるがどうも要領を得ない。さすがに疲れてその場に立ち尽くし途方に暮れていると、いきなり背後から日本人ですか?と声をかけられる。
 振り返ると気の良さそうな青年が立っている。話してみると何だか困ってそうだったので声をかけたとのこと。アタシャお年寄りかいと思わないでもなかったが、とにかく助かった。
今宿を探しているのですが、どこか良いところは知りませんかね?と聞いてみると、彼の泊まっている宿なら1泊6000ドラクマだが、それでよければ案内しますという。他に当ても無いので好意に甘えて、彼にそのホテルを案内してもらうことに。

 10分程歩き、宿で部屋を見せてもらう。するとエアコンやファンは無いものの、バス、トイレ付きのツインルームが1泊6000ドラクマ、1800円というお値段。少し建物は古かったが受け付けの人も親切なので、ここにチェックインすることに。ホテルが決まれば次は、空港のバゲージカウンターに電話しなくてはいけない。

 部屋にギターを置いた後、ホテルのレセプションで事情を説明し電話が借りられるかどうか訪ねる。すると私が話してあげるわと、受け付けのおばさんが代わりに空港のバケージセンターへ電話してくれる。ギリシャ人同士なので話もスムーズに進み、夜の10時には荷物を届けてくれるとのこと。これで一安心だ。

 時計を見るとまだ8時過ぎだったので、おばさんにお礼を言って道案内してくれた青年と、オモニア広場近くの彼オススメのケバブ屋で、ピタというパンにケバブ(羊肉のあぶり焼き)をはさんだサンドイッチとビールを頼む。これがなかなか美味くて1950ドラクマ、約600円。
 その後、彼と話をしながらホテルのロビーで待つものの、11時を過ぎても荷物が届かない。仕方なく宿の近くにある駄菓子屋風の売店で、缶コーラを買って部屋に戻りとりあえず寝ることにする。これが200ドラクマ、約60円。

 シャワーをあびて、12時過ぎにベッドにもぐり込む。しかしあまりの暑さに眠れない。少し眠ってはまた暑さで目を覚ますといったことを何度も繰り返す。ここは部屋にサウナが付いているのかと思うくらい暑い。
そしてようやくウトウトしかけた頃、部屋の電話が鳴り叩き起こされる。ナンデスカー?と伸びた横髪を掻き分けながら電話に出ると、荷物が届いたから来いという。時計に目をやるとすでに深夜4時。何が10時に届けるだまったく。ギリシャ時間もいいところだ。このバカチンがあと愚痴りながらベッドから這いずり出る。
 すぐさま1階へと降りて行き荷物を受け取って中身をチェックするが、これといった異常は無い様子。アメリカのボストンの空港で荷物が届かなかった時は、寝袋がどこかへ消えてしまい、持っていたノートパソコンも壊れていて踏んだり蹴ったりだったが、まあ今回は無事手元に帰ってきたことだしこれで良しとする。
 
 翌日起きるとすぐにホテルをチェックアウトし、オモニア広場から北西に少し行った所にある、ヴァティス広場近くのユースホステルへ向かう。しかしまだ朝の10時過ぎだというのに満室だといわれる。しかたなくあちこち飛び込みで聞いてまわるが、予算オーバーだったり安くても部屋に空きがなかったりで、なかなか良い宿が見つからない。
 しかしそのまま宿を探して歩いていると、オモニア広場からほど近い場所で朝食とファン、バス、トイレ付で7000ドラクマ、約2100円のホテルが見つかる。少し高いが部屋もキレイでこれなら悪くない。
 一応ディスカウントしてみるが、この部屋でこの値段なら悪くないだろうといわれ、それも道理だとそのままここに決めてしまう。僕的にはかなり背伸びしたホテルだが、明日は自分の誕生日なのでこれが自分へのバースデープレゼント代わりだ。

 部屋に荷物を置いて身の回りのものをチェックしていると、重大なことに気付く。残り確かに6000ドラクマあったはずが、5000ドラクマ札が消えている。朝ホテルを探しながらサイフの中身を確認した際、まだ持っていた覚えがあるのでどうやらどこかで落としたみたいだ。日本円にすればたかが1500円だが、今の僕にとっては大金だ。まったくどうかしている。体調もあまりすぐれないし、少し疲れているのだろうか。今日はあまり無理をしないようにしよう。

 午後から地下鉄に乗ってシンダグマ広場へ行く。1834年にここで最初の憲法が発布されたため、シンダグマ(憲法)と呼ばれるようになった、アテネ市街の中心地である広場から歩いてアクロポリスの丘へと登る。アクロポリスとは高い丘の上の都市という意味で、ここはかつて古代ギリシャの聖域であった場所。

途中大阪在住という大学生と知り合い、一緒にアクロポリスで最も有名な遺跡、パルテノン神殿へ向かうことにする。なんでも彼の話によるとこの日は祝日とかで、入場料2000ドラクマが無料だとか。ちょっとラッキーだ。

古代ギリシャの栄光を象徴するパルテノン神殿は、紀元前438年に完成の縦70m横31m、柱の高さ10mという46本の、ドリア式と呼ばれる大理石の石柱に囲まれた、世界遺産にも指定されている遺跡。現存しないが昔ここには高さ12mもある、女神アテナの立像が建っていたとか。

 しかしパルテノン神殿は今修復中で、周りに鉄のやぐらが組まれていて少し味気ない。海抜150m、市街地からも70mの高さにあるアクロポリスの丘からの眺めも、決して悪くはなかったが、期待が大きすぎたのかこんなものかとやや拍子抜けする。本当はここで1日ゆっくりしようかと思っていたのだが、何だかそんな気も失せ30分程で切り上げてきてしまった。

 大阪の大学生はまだもう少しあちこち見て周るというので、夕方6時にオモニア広場で待ち合わせをし、あまりに暑かったので宿に戻ってシエスタ(昼寝)をすることに。しかしベッドにもぐり込むとなかなか良いメロディが浮かんできたので、そのまま起き出してギター片手に、結局待ち合わせ時間まで部屋で曲を書いていた。

 夕方大阪の大学生と一緒に食事をしようということになり、待ち合わせたオモニア広場近くにある、昨日行ったケバブ屋に行きケバブピタを注文する。食事しながら話しているとなぜか話題は急に恋愛の話になり、いつの間にか彼の恋愛相談になる。
彼いわく最近彼女とうまくいっていないが、それでも彼女のことがすごく好きだという。僕はひたすら聞き役に回りたいした言葉もかけられなかったが、それでも話してすっきりしたのか頑張りますと笑っていた。どんなに喧嘩したり悩んだりしても、ちゃんと精一杯の自分で相手と向き合っている姿はやはりいいものだと思う。

 食事の後、ギターを持ってリカビドスの丘へ登る。ここは標高273mのシンダグマ東部にそびえる、アクロポリスと並ぶアテネのランドマークで、頂上からはアテネ市内がよく見渡せる。
本当はケーブルカーで行くつもりだったのだが、乗り場が見つからないまま結局歩いて傾斜のキツイ坂を登ってしまう。夕日を見るはずがなぜか夜景をみるはめに。最近このパターンがやたらと多い気がするのは、気のせいだろうか。

 星空のように明かりが灯る、アテネの町並みに向かって歌う。夜になると少し肌寒くなり、昼間あれ程暑かったのがまるで嘘の様。でも切なげなバラードを歌うにはちょうど良いと、そのまま歌い続ける。
歌い終えると、大阪の大学生が良い歌ですねといってくれた。どうしてこんな風にあちこちで歌う旅を続けているのかと訪ねられ、最初は自分の人生の中でいろんな辛いことがあり、その呪縛から解き放たれたいと思って旅を始めたのだけど、今はこうして歌っているのが好きだからかなと答える。そう僕はこうして世界のあちこちで歌っているのが、たまらなく楽しいのだ。
1時間程歌った後、来た道を歩いて戻る。そして彼と別れて宿に戻ったのが夜の11時過ぎ。シャワーを浴びてから、そのままベッドにもぐり込む。

 3日目、この日は自分の誕生日。少し前から誕生日をどこで過ごすか迷っていたのだが、トルコのイスタンブールはバスで片道20時間もかかり、しかもバス代は往復1万円近い。肉体的にも金銭的にも少しキツイ。またエーゲ海屈指のリゾート地ミコノス島にも少し引かれたが、滞在を延期する為だけに空港まで、予約したフライトの変更をしに行かねばならずそれも少し面倒くさく思う。それで日帰りで行けるエーゲ海の島の中では、最も遠くにあるハイドラ島へ行くことに。

 オモニア広場から地下鉄に20分程乗り、アテネの南西約10kmにある紀元前490年に将軍テミストクレスが、海軍の軍事基地として作ったというピレウス港まで行く。そこからさらにバスで15分走ったところにある、入り口が幅100m長さ200mしかない小さな港、ゼア湾へ移動。そしてここから出ている高速艇に乗り、本日の目的地ハイドラ島へと向かう。
ちなみに料金はそれぞれ地下鉄が200ドラクマ、60円にバスが150ドラクマ、45円。そして高速艇が4400ドラクマ、約1320円。

 船のチケットを購入するとまだ出発まで1時間程あったので、高速艇乗り場前でぼおっとしていると、自分の両親ぐらいだろうか年配のご夫婦に声をかけられる。

 話してみるとこちらのご主人は、横浜在住の紳士服のデザイナーさんとのこと。旅行が趣味とかで毎年お二人であちこち旅しているらしい。ご主人は日本酒好きで、紙パックのお酒を何箱も持参しており1つ勧められる。だが僕は日本酒がまったくダメなので辞退すると、日本のあられやうるめイワシ、スルメなどのおつまみをいただく。
ひたすらスルメをしゃぶりながら時間を潰していると、予定時刻通り僕達を乗せた高速艇は、ハイドラ島へ向かって動き出す。

 ハイドラ島はピレウスの南約70kmにある、人口2万8千人の東西20km、南北5kmの細長い島。その名前は神話のドラゴンから来ているのだが、僕などはハイドラといえば1979年リリースの、TOTOのセカンドアルバムを思い出してしまう。

 高速艇でもそのご夫婦と一緒で、話題の中で今日が自分の誕生日であることを話すと、それはお祝いしなきゃといわれる。2時間弱のエーゲ海クルーズを楽しんだ後、僕達を乗せた高速艇はハイドラ島に到着。
そして島に着くなりご夫婦に誕生日のお祝いをしようといって、タベルナ(大衆レストラン)に誘われ、ビールとイワシやイカのシーフードをご馳走してもらう。今年は1人きりのバースデーだと思っていたのでうれしい誤算だ。
 でもこうしてこのご夫妻と一緒に食事をしていると、その姿が自分の両親の姿と重なりまるで十数年ぶりに、家族と一緒に自分の誕生日を過ごしているような気持ちになり、なんだが不思議な感じ。日本の親父達は元気でやっているだろうか。

 お二人と別れた後、せっかくエーゲ海の島へ来たのだからと、ビーチでのんびりと過ごすことに。さてどこのビーチに行こうか。
 そのまま島をぶらぶら歩いてみると、この島は思っていた以上にのんびりとして良さげな雰囲気。小さな町にはギリシャ風の白い家が建ち並び、島内は車やバイクが禁止の為細い路地を唯一の移動手段であるロバが、パカパカと蹄を鳴らして行き交っている。かといって田舎臭い雰囲気がしないのは、昔から世界中のアーティストの卵が集まる、芸術家の島という一面を持っていることと関係しているのかもしれない。

港から歩いて西の方角へ20分程行くと小さなビーチが点在しており、この辺りで少しのんびりすることに。地上の気温と比べ海の水はかなり冷たく感じたが、それでも真っ青な海と空、澄んだ空気と暑い日差しの中で、ゆっくりと時間が流れていくこの場所はなかなかいい。できれば恋人と2人で来たかったが、こうして20代最後の誕生日をたった1人、遠い異国の小さな島で自分自身を見つめなおすのも悪くない。

 2時間程ビーチでのんびりした後、夕方5時半過ぎに港まで歩いて戻り帰りの船の予約を入れる。行きは高速艇で2時間弱だったが、帰りは3時間半のクルーズ船。時間は倍だがその分値段が約半分だ。そして船に乗り込み10分もすると、大型の客船はゆっくりと港を出港し航海を始める。

どれぐらいの時間がたっただろうか。ふと船の甲板に出てみたくなり、客室の大きなドアを開ける。そして爽やかなエーゲ海の潮風を、大きな深呼吸1つでたっぷりと吸い込む。

しばらく甲板の白い鉄の柵を握りしめながら、海風を頬に受け1人物思いに耽っていると、船がポロス島を通り抜けエギナ島へと差し掛かる頃、西の空は真っ赤に染まり遠くオリンピアの方角へ大きな太陽がみるみる沈み始める。青い海と赤い空とが調和するグラデーションというのも、何とも言えない幻想的なものだ。

 どこまでも続く水平線に向かって問い掛けてみる。28歳の自分と29歳の自分。昨日の僕と今日の僕との間に、どれ程の違いがあるのだろうか。僕は僕のまま何も変わってはいない。これまでもそうだったし、きっとこれからもそう。僕はずっと何も変わらぬままこうして歳を重ねてゆくのだろうか。

 しかし人は日々の暮らしの中で何かを失いながら、新しい人や新しい場所、新しい何かと出会ってゆく。そしてその度に何かをこの身体と心で感じ、覚えてゆく。そうして少しずつ、少しずつ成長し変化していく。そう考えると昨日の僕も今日の僕も、どちらも間違いなく僕自身なのだけれど、今日の僕はひょっとしたら昨日の僕ではないのかもしれない。なんだか少し矛盾しているかな。

 まだよくわかないことが多いけれど、いつか迎えるであろう人生最後の瞬間が訪れた時、笑って楽しかったと言えるように、一日一日を精一杯の自分で生きて行けたらって思う。

エーゲ海で向かえた20代最後のバースデーが、静かに終りを告げようとしていた。

拝啓、世界の路上から 第12話「I for you /イタリア」

2007-12-27 | 旅エッセイ2000「拝啓世界の路上から」
拝啓、世界の路上から 第12話「I for you /イタリア」

 ん?雨か。しかたない、ちょっと雨宿りしていくとしよう。
キリスト教カトリックの総本山である、ヴァチカンのサンピエトロ寺院から、ローマの市街地へ戻る途中に雨が降り出した。少しぐらい濡れてもかまわないと、そのまま歩き続けていたが、雨足が次第に強くなってきたのでどこかで雨宿りできる場所をと、近くにあったカフェに小走りに駆け込む。

ドイツのフランクフルトの後、列車でスイスのアルプスの山々を抜けてイタリアのミラノへ。そこからヴェネツィアに立ち寄った後、ここローマへと僕は旅を進めていた。
 
 映画ローマの休日でオードリーヘップバーン演じるアン王女が、ジェラートを食べたスペイン階段の近くにあるカフェでしばらく雨宿りをしていると、少し小降りになってきたのでまた街の散策を続けることに。
そして一時は土砂降りだったこの雨も、トレヴィの泉に着く頃にはすっかり止み晴れ間も出だした。ここは6年前にも1度訪れており、そういえばその時も雨だったと思い出す。そうかまたここにやってきたのだな。
トレヴィの泉には、背を向けてコインを右手で左肩越しに1枚投げ入れると、再びローマを訪れることが出来るという言い伝えがある。そこでものは試しと前回ここを訪れた際にコインを投げてみたのだが、その効果がどうかはわからないが、また僕はこの場所に戻ってくることができた。
他にも2枚コインを投げると好きな人と結婚できるとか、3枚で別れられるなどという話もあるが、縁結びの神と縁切り地蔵が仲良く肩を組んで並んでいるようなもので、ちょっと無理がある気がする。しかも最近では4枚投げると、新しい恋人ができるなどという言い伝えも出来たとか。さらにその話の出所が、コインを回収している市のお役所というからたまげたものだ。歌舞伎町のぼったくりバーと大して変わらないような気がする。第一言い伝えとか伝説という類のものは、新しく出来ましたなどというものでも無いと思うのだけど。パチンコ屋の新装開店じゃあるまいし。
しかしこれだけ散々扱き下ろしておきながら、験を担ぐ他力本願者である僕は、もう1度と後ろを向いて肩越しに1枚コインを投げ入れてみる。言ってることとやってることが全然違うけれど、この1枚目のエピソードくらいは信じたいと思ってしまう。でもきっとこういう人間が、悪い人に騙されるのかもしれない。

 そこからさらに歩いてヴェネツィア宮殿の前を通り、ローマのシンボルであるコロッセオへとやってくる。
 西暦80年に作られたというこのローマのコロッセオは、直径が最大188メートル、外周527メートル、収容人数約5万人という現代のスタジアムにも匹敵する大きさの円筒形の格闘技場。
 このコロッセオはかつて、剣闘士達がそのプライドと命をかけて戦ったとされる場所だが、キリスト教がローマ帝国で国教となるまでは、異教徒であったキリスト教の信者やその他の囚人達を、ライオンなどの猛獣に襲わせる残忍なショーも催されていたとか。当時の見世物小屋的な場所でもあったようだ。格闘技場というと何だかすごくカッコイイ場所のような響きがあるが、国立見世物小屋といってしまうとかなり怪しげな場所に思えてくる。
そういえば見世物小屋といえば、自分の知り合いのある大学教授がやたら見世物小屋が好きらしく、蛇女がどうだとか昔の新宿ではこんな場所があったとか、酒を飲むとよく嬉しそうにそんな話をしていたが、ホラー映画ですら目を背けまともに凝視できない僕には、その辺の感覚があまりよく分らない。
 しかし西暦80年頃といえば、日本ではまだ弥生時代。日本の当時の最先端テクノロジーが高床式倉庫とネズミ返しであった時代に、こんなものを建築していたとはまったくものスゴイ話である。

さてコロッセオにやってきたのは他でもない、ストリートライブをする為だ。実はローマでもどこかで歌おうとギターを持ってきており、あれこれ考えているうちに気付いたらここに足を向けていた。ニューヨークといったら自由の女神、ローマといったらコロッセオ、まったくおのぼりさん丸出しである。自分では世界一周ストリートライブの旅などとうたっているが、これでは世界遺産ライブの旅といわれてしまいそうだ。

もう空はすっかり晴れ渡り暑いぐらい。入場料10000リラ、約540円を支払って中に入る。すると修復された内部には椅子やステージが組まれていた。そういえばミレニアムイヤーを記念して、ここで野外オペラが開催されると聞いたような気がする。

 階段を上り2階へ。なかなか良い眺めだ。そしてしばらくコロッセオの中を歩いていると、大きな石の破片があったので、それに腰を下ろしてギターを取り出し歌いはじめる。
僕の歌声がコロッセオの中に響き渡っている。係員につまみ出されてもいいと覚悟してきたのだが、ここがラテンの国だからなのか誰も何もいってこない。南米でも同じくどこでも暖かく受け入れられたが、ラテン民族は音楽やパフォーマンスには寛容なのかもしれない。
調子に乗って気が付くと1時間以上歌っていた。U2やビートルズ、そして旅で書いた自分のうたなどを歌っていると、他の観光客がチラチラとこちらを見ていく。
だがこの日の収穫はゼロ。これまでの傾向としては遺跡よりも、何気ない街角の公園や駅周辺の方が稼ぎはいい。だがこういった場所で歌うのは、小銭の為ではないのだからと少し満足げにギターをしまう。
稼ぎが無いのに満足だって?と他のストリートパフォーマーには笑われるかもしれないが、今回の旅は「自分の歌いたい場所で、自分の歌いたいものを歌う」という、自身で選択したスタイルなのだから、これで良いのではないかと思う。胸を張ろう。

 しばらく歩くとジェラート屋があったので食べてみる。これがなかなか美味い。日本にいる時にはアイスクリームを食べる習慣などなかったが、イタリアのジェラートが自分にあっているのか、すっかりハマってしまい多い日は3個、昼食がジェラートだけという日もあるぐらいだ。でもこんな生活を続けていたら今にブタになりそう。しかも糖尿病持ちの家系なのに。尿酸値をマメにチェックして、痛風が出ないように気をつけないと。うーん爺臭い。

 地下鉄に乗ってテルミニ駅近くにある宿に戻り、キッチンでお湯を沸かし手持ちのインスタントラーメンを食べる。韓国製の辛(シン)ラーメンという、その名の通り辛いラーメンなのだが、あまりお腹は膨れないものの結構美味い。

 ローマ最後となるこの夜曲のイメージが涌いたので、夜中3時過ぎまで曲を書いて就寝。本当はASローマやラツィオの本拠地、オリンピコスタジアムでサッカーの試合が観たかったのだが、今は残念ながらオフシーズン。また次回の楽しみに取っておくことにしよう。

 朝9時に宿をチェックアウトし、ローマのテルミニ駅へ向かう。昨夜ベッドに入ったのは結局4時過ぎだったので、まだ少し眠い。

 今日はフランクフルトで再会した友人と、午後1時半にナポリ駅で待ちあわせをすることになっている。だがここで1つ訂正。カンボジアのシェムリアップ行きの飛行機で偶然知り合ったフランクフルト在住の友人とは、実はここに来る前に2週間程滞在したフランクフルトから付き合い始めていた。だから友人ではなく今は恋人だ。
 初めて会った時から綺麗な人だなと淡い恋心を抱いていたのだが、まさか本当に自分と付き合ってくれるとは思わなかった。まだ実は夢なんじゃないかな?と思うことすらある。

テルミニ駅構内のマクドナルドで時間を潰し、11時45分発の特急列車インターシティーに乗ろうとする。だが発車5分前になっても掲示板にそのゲートナンバーが表示されない。どうやら遅れているようだ。

 そのまま待ち続けると予定より20分遅れで、ナポリ行きの列車が出ると掲示板に標示される。それに従い到着した列車に乗り込む。しかし列車は発車予定時刻を過ぎても、一向に動き出す気配がない。
 隣に座ったイタリア人女性に何時に出発するの?と聞いてみる。しかしわからない、遅れているみたいねという返事が返ってくるだけ。
 ナポリでガールフレンドが待っているのに…と呟くと、今何て言った?これはミラノ行きだよといわれ慌てて列車を飛び降りる。
 何が起こったのだろう?ちゃんと行き先を確認して乗ったのにと、ホームに設置された掲示板を見ると、確かに乗るときにはナポリと表示されていたのに、いつの間にかミラノに変わっている。何だか訳がわからない。
 しかしいつまでもこうしている訳にもいかないので、急いで次の列車を探すが次はもう12時45分発の超特急列車ユーロスターしかない。とにかく最も早くナポリに着ける方法をと、追加料金を払ってその列車に飛び乗る。

 それから間も無くして列車が走り出す。そしてナポリについたのは午後2時半。約束よりも1時間遅れだ。しかし携帯電話も無く駅で待ち合わせの為、まったく連絡手段がない。列車の中でも無事に会えるだろうかと不安が募る。
駅につくなり彼女を探す。だが探しても探してもどこにも見当たらない。怒って帰ってしまったのだろうか。

 駅で弱り果て立ち尽くしていると、Arrival(到着)の電光掲示板が目に入った。そこに表示されていたローマからの、次に到着するローカル列車のホームに向う。するとそこに荷物を手に立っている彼女の姿が。いた!

 ゴメンと言って駆け寄ると、どうしたの?来ないかと思ったよといわれる。でも会えてよかったとほっとした様子。
 事情を話しひたすら平謝り。トラブルにあった場合のことを、あらかじめ考えておけばよかったと反省する。やはりなかなか物事は順調には進まないものらしい。

 「ナポリを見てから死ね」という言葉がある程多くの人々に愛されてきた、ヴェスビオ火山の裾野に広がる人口約120万人のこの都市は、熱い日差しと紺碧の海が広がる南イタリアの中心地。またソレント半島やイスキア島、青の洞窟で有名なカプリ島などを結ぶ、地中海に面したナポリ湾を持つ港町でもある。他にもスパゲッティやピッツァ、ジェラートなどの発祥地であるとか、オー・ソーレ・ミオやサンタ・ルチアといったイタリアを代表する歌曲を生んだなど、この街を賞賛する言葉は限りない。
 一方イタリア北部に比べ高い失業率と所得格差に悩み、イタリア屈指の犯罪都市としての一面を併せ持つ街でもある。

 まずは寝床の確保と、中央駅の近くで安宿を探してチェックインする。そして荷物を部屋に置いた後、歌曲でも有名なサンタ・ルチア港へ歩いて向かうことに。

 ナポリを見て死ねという言葉の由来である美しい眺めを持つ、サンタ・ルチア港で夕日を見ようと思っていたのだが、予想以上に時間がかかり着いた頃には日も沈む8時頃。残念ながらサンセットには間に合わなかった。
しかしサンタ・ルチアから望む町の夜景は、まるで宝石箱を開けたかのようにキラキラと輝いて美しい。海岸線の東ヴェスビオ火山の裾野にソレント半島が広がる光景は、まさにイメージしていたサンタ・ルチアそのもの。思わずその光景に見とれてしまう。

帰りはメーターのタクシーに乗って、中央駅まで戻ってくる。すると行きには1時間以上も歩いたにも関わらず、車だと僅か5分程で帰ってきてしまった。炎天下の中を大変な思いをしてひた歩き、しかもそのせいでサンセットを見逃した僕達は、ちょっとおマヌケかもしれない。
 だが料金の支払いになりナポリらしい一面に遭遇する。タクシーのメーターは8000となっているので8000リラを払おうとすると、今日は日曜日なので18000リラだとドライバーが言い出す。なんで8000リラが18000リラにもなるのだと語気を強めて返すと、ほら日曜日には追加料金がかかると書いてあるだろうと、何やら用紙を見せられる。しかしよく見てみると、そこには追加料金3000リラと書いてある。3000リラだったら併せて11000リラじゃないかというと、うーんとうなった後とにかく18000なのだといって、頑として譲ろうとしない。じゃあ理由を言ってごらんと聞くと、うーん、うーん…とにかく18000リラという答え。お前はアホか。
 わかったじゃあ君の名前を教えてくれ、あと車のナンバーも控えておくがいいかなと言うと、俺を信用しないのか?それなら金は要らないと怒りだした。
 こりゃ下手な芝居だなと、11000リラだけ置いてさっさとタクシーを降りる。しかし追いかけてこなかったところを見ると、充分な値段だったのだろう。3000リラの追加料金さえ疑わしい。それにしてもさすがは泥棒の街と異名を持つだけのことはある。その後駅前のレストランで夕食をとり、宿に戻って就寝。

 翌朝宿をチェックアウトし中央駅の前から出ている、R2のバスに乗りベヴェレッロ港へと向かう。そこから10時半発の水中翼船で40分程移動すると、カプリ島のマリーナ・グランデ港に到着。

 青の洞窟で有名なカプリ島は東西約6km、南北約2kmの小さな細長い島。古のローマ皇帝アウグストゥスも、気に入って住みついてしまったというエピソードを持つ、地中海きってのリゾート地だ。

 マリーナ・グランデからさらに、ケーブルカーとバスに揺られアナカプリという小さな町へ。しかしハイシーズンの為かどこも人で一杯だ。長時間並んで乗ったバスの車内も、蒸し風呂状態で嫌になる。
 手頃な宿は無いかと町のインフォメーションに行くと、安い宿は全て満室だといわれる。でも少し高いがそこで勧められた、ヴィッラ・エヴァという町外れの小さな宿に空きがあったので、予約を入れてもらい迎えの車で宿へと向かうことに。

 宿に着くと驚いたことにそこは、緑に囲まれたプール付きの小奇麗なリゾートペンションといった感じ。2人で15万リラ、約8000円という随分しっかりとした値段も、これなら納得という感じだ。
 とはいっても長期旅行者の僕には、簡単に払える額ではない。彼女がいいよ私が出しておくからといってくれたが、やはり男としては情けない気持ちになる。しかもナポリに着いてからというもの、食事代から宿代とほとんど彼女が出してくれているのだ。
日本に帰った時にご馳走してもらうからといってくれるが、まるでヒモ状態の自分が情けない。金が無いのだからしかたないとはいえ、少し自己嫌悪に陥る。

 この日はプールサイドでだらだらと過ごして、夕方に夕日が綺麗だというレストランで白ワインを片手に前菜とパスタを食べる。前菜はオリーヴオイルとニンニクに漬けた、ナスとズッキーニのオーブン焼き。パスタはトマトソースとバジルのラビオリに、ボンゴレの太麺スパゲティ。とにかく美味い。
 そして水平線に沈んでいく真っ赤な夕日は、この世の全てのものを赤く染めてしまうのではないかと思える程。あまりの光景に声が出ない。でもこんなに良い思いをしていいのだろうか。夢ではないかとホッペをつねってみたが、痛いのでたぶん現実みたい。

 カプリ島2日目は、朝から歩いて青の洞窟へと向かう。緑の自然に囲まれた坂道を1時間も下ると、洞窟の入り口に到着。
ここから石の階段を下った先のボート乗り場で3万リラ、1人あたり約750円を支払って小さなボートに乗り込み青の洞窟へと入る。

すると洞窟内の海水は驚異的に透き通った青色をしており、神秘的な雰囲気を醸し出している。絵の具でもこんなに鮮やかな色は出ないのではないか。思わず息を飲む。

 船頭の歌うイタリアの名曲「ソレントに帰れ」が洞窟の中に響き渡る。また海の水の青色が入り口の穴から差し込む日差しを受け、洞窟中を真っ青に染めている。
賛美の言葉を探すが、適切な言葉が見つからない。美しいという言葉など、あまりにも陳腐に思える程の青。

それから5分程洞窟の中をぐるりと回って外に出てくる。たった数分の出来事ではあったが、その不思議な一時はウサギを追いかけ不思議の国に迷い込んだ、おとぎ話のアリスにでもなったかのようだ。アリス?バカボンの間違いじゃないの?と笑われそうだが、本当にそんな不思議な体験。夢でも見ていたのだろうかと、そんな気持ちにさせられる。

 午後はここからバスに乗ってアナカプリの町へ行き、さらにリフトに乗って標高589mの、島内随一の高台であるソラーロ山へ上る。するとそこは360度広がる青い空と海。その美しさは形容する言葉さえ必要としない程。思わず目と心を、そして魂までもクギ付けにされるそんな風景。頬を撫でる風も心地よく、2人して何をする訳でも無くベンチに座ってひたすらぼぉっと時を過ごす。

 イースター島でも感じたが、このような場所でこうしてぼぉっと過ごしていると、幸せはそれ程難しくはないなとそんな気持ちにさせられる。美しい自然と美味しい食べ物、そして楽しい仲間や大切な人がそこにいれば、他には何も必要ないのだとそう感じさせてくれる場所だ。

 ああ海ってこんなに青かったのだねと一言そう呟き、また言葉を交わすでもなくただこの美しい風景に見とれていた。

 夕方宿に戻って2時間程プールで過ごし、また昨日のレストランまでトボトボと歩く。今日も白ワインと前菜、パスタで至福の時を過ごす。
え?食べたことないの?と彼女に笑われたが、生まれて初めて食べた生ハムとメロンの前菜は最高だった。
 
 次の朝11時10分の高速船でナポリに戻る。しかしカプリ島に発つ前に泊まった宿の主人が、僕達の事を覚えておらず高い値段をふっかけてくる。3日前はこの値段だったぞと当然値引き交渉をするが、頑として下げようとしないので、そのすぐ前の別の宿にチェックインすることに。値段は大して変わらなかったが、こちらの部屋の方がずっと綺麗だ。これが2人で9000リラ、約4800円。

 午後からローカル鉄道に乗って、郊外に40分程行った所にあるポンペイ遺跡に行く。紀元前に作られたというこの遺跡は周囲3kmの城壁に囲まれ、総面積は66ヘクタールにも渡る。最盛期には1万数千人が住み市民広場や円形闘技場の他、1200戸もの邸宅が並ぶ広大な遺跡だ。しかし西暦79年におきたヴェスビオ火山の大噴火で、1夜にして消え去って以来1748年に発掘が始められるまで、厚さ6mにもなる火山灰に埋もれていたという。

 ローマのフォロロマーノを髣髴させる教会跡や、コロッセオを1回り小さくしたような円形闘技場は、古ぼけていてとても味わいがある。当時の人々の生活や動物が書かれた壁画など、他にも色々とありすぎてとてもじゃないが1日では回りきれないくらいだ。しかし炎天下の中で歩き回るのは2時間が限度で、ハイライト的なものだけを見て帰ることに。

 駅前で夕食を食べて宿に戻ったのは、もう深夜に程近い時間だった。明日彼女はフランクフルトへ戻り、その足で日本の実家に里帰りするという。僕も明日からまた1人旅。とりあえず明日は、また北に向かって移動することにしよう。

 それにしても本当に長い旅の中の安らかな一時だった。またカプリ島で過ごした日々は、心から幸せだったとそう言える。幸せってそんなに難しいものじゃない。それはイースター島でも、そして昨日のカプリ島でも感じたこと。

 美しい自然と美味しい食べ物、そして楽しい仲間や大切な人がそこにいれば、何も必要ないのだとそう感じた。そして僕にはあとそこに音楽があれば、それ以上何もいらないと心からそう思える。

 日本にいる時はいつも、自分のことだけで必死だった。他に目を向ける余裕もなかったし、自分の為に生きるというのは当然のことだとそう信じていた。でもカプリの青い空と海を、じっと見つめていた時の僕は少し違っていた。

 僕がずっと自分に問いかけている言葉がある。それはなぜ自分は今ここにいるのか?という、他人が聞いたら何をバカな事をいっているのだと、笑われてしまうそんな言葉。
 でも僕にとってそれはすごく重要なことで、他人が幾ら笑おうが僕はその意味をずっと知りたいと欲していた。でもいつかその答えに「大切な人がそこにいるから」と答えられたらいいなとそんな風に感じていた。

 現実の自分はもっと汚れた醜い生き物かもしれない。でもその汚れが大きい程、浄化されることを欲しているのではないかと思う。
 
 先日思いついたフレーズがある。少し甘いバラードでそれにいつか歌詞をつけようと思っているのだけれど、今のこの気持ちを歌に出来たらいいなと思う。君のための僕、I for you。そんな歌を書いてみようと思う。

さあ明日はまた移動だ。今日はもう眠るとしよう。

拝啓、世界の路上から 第11話「真夏の夜のEurope/オランダ・ベルギー・フランス」

2007-12-27 | 旅エッセイ2000「拝啓世界の路上から」
拝啓、世界の路上から 第11話「真夏の夜のEurope/オランダ・ベルギー・フランス」

ええっ、この宿も満室なの?マジ?
ここはオランダのアムステルダム。先程から今晩の宿を探してあちこち何件もあたっているのだが、さすがは観光シーズン真っ盛りの真夏のヨーロッパ、どこも満室で宿泊できない。その後も3時間近く計20件以上の宿をあたってみるが、やはり一杯だといわれる。時計を見ると既に夜9時を過ぎている。疲れた。もう一歩も歩けない。

アルゼンチンの首都ブエノスアイレスから始まった、南米大陸縦断バスの旅。前話の世界最大といわれるイグアスの滝を後にした僕は、その後ブラジルのサンパウロに入る。そこでサッカーの試合などを観戦し、そのままリオデジャネイロへ。リオでは憧れだったブラジルサッカーの聖地、マラカナンスタジアムでストリートライブをする。
旅はさらに進みロンドン、そしてスウェーデンの首都ストックホルムに移動。ここからは鉄道でデンマークのコペンハーゲンを通り、今しがたここアムステルダムへと到着したところだ。

 しかし重い荷物を担いで歩きまわったせいかさすがに疲れ果て、もう煮るなり焼くなり好きにしてくれという気持ちになる。お腹もグウグウさっきから鳴りっぱなし。とりあえずまだ朝から何も食べていないので、食事を取りながら休むことにする。

 13世紀にアムステル川をダムでせき止めて町を築いたことから由来する、オランダの首都アムステルダムは、貿易港とたくさんの運河に囲まれた水の都。またドイツの占領下にあった第ニ次世界大戦中に、アンネフランクとその家族をはじめとするユダヤの人々を、危険を犯してかくまうなど自由を愛する町でもある。
現在ではその自由な気風もエスカレートして、他国で禁止されているマリファナなどを合法にしたり、下着姿の娼婦が窓辺に腰掛けお客を待つ「飾り窓」を、観光名所にしたりするなどなかなかスゴイ町だったりする。

 その飾り窓の近くで、偶然見つけたケバブ屋(※羊肉のあぶったもの。日本ではシシカバブともいう)で夕食を取りしばらく休む。
ビールなども飲んでかなり良い気分。1時間半程飲み食いしているうちに、ちょっと元気が出てきた。しかし問題は今日の寝床をどうするか。おそらくこれ以上探しても、空室のある安宿を見つけるのは難しい。ならば野宿をしようと、東京駅のモデルにもなったというアムステルダムの中央駅に向かうことに。

 しばらく歩いて駅に着くと、駅構内に入ってすぐ左手の壁沿いに荷物を下ろしてしゃがむ。ニューヨークでの事件以来、駅で野宿というのはできるだけ避けてきた。しかし他に行くところもないし中央駅なら人も多いので安心だろうと、とりあえずここまでやってきたのだ。今日はこの辺で一晩明かすことにしよう。

時計を見ると夜の11時。まだ電車がある時間の為か人通りもかなり多い。この状況で横になって平気で眠れると、日本に戻ってダンボール生活を送ることぐらい楽勝かもしれない。でも日本ホームレス協会(そんな団体あるのかどうか知らないけど)に、アナタ即戦力です!とスカウトされても困るので、人通りが少し減るまで眠るのは待つことにする。

しかしそのまましゃがんでぼおっとしていてもツマラナイので、おもむろにギターを取り出し1曲歌うことに。

 1曲のつもりが調子に乗っていつの間にか2曲3曲と歌っていると、ホームレス風の自転車に乗った小汚いオヤジがやってきて、なかなか良いじゃないかと目の前に小銭をばらまかれた。お金をくれるのはありがたいが、アンタお金無いと困るんじゃない?と思わず心配してしまうの身なりのオヤジ。でも日本でもベンツを乗り回すホームレスがいるというし、人は身なりで判断できないからなあと思い直し、ありがたく頂戴することに。貰えるモノは貰っておけ。まさに人生の哲学である。
お金をせっせと拾う僕にそのオヤジも気をよくしたのか、ここだと人通りから離れているからもっとドアの近くでやりな、きっと儲かるからとご丁寧にアドバイスまでされる。一応ありがとうとは答えるが、実をいうと疲れてあまり気力が無かったので次の曲で終了。ホームレスと同じ目線で会話ができるようになったことは、喜ぶべきことかはたまた哀しむべきことなのか。

 夜も1時を過ぎると完全に人通りが無くなる。その身なりから僕と同じように宿が取れず、翌朝の列車待ちをしているだろう白人が3人、おそらく単なるホームレスだろう黒人が2人、そして僕を入れた6人が広い駅構内で横になっている。

 しばらく横になってみたが眠れそうにないので、ノートを取り出して詞を書くことに。以前曲だけ書いたものがあり、それを完成させようと思ったのだ。
 この曲は自分なりに結構気に入っていたのだが、いざ歌詞をつけようと思うとなかなか気持ちがのらなかった。しかしこの日は面白いようにペンが進む。
 
 そういえばこの旅に出てから1つ解ったことがある。それは僕の持っている価値観なんて、この広い世界の中でほんの僅かな1握りの中でしか通用しない、頼りないものなのだということ。何が正しくて何が間違っているかなんて、実は非常に曖昧なものだということ。
僕達は子供の頃から常に学校などのテストに、正解を記入することを要求されてきた。目の前の四角い空欄に正しい答えを記入できる者が優秀とされ、先生や親から誉められる。クラスメイトからも羨望の眼差しを受ける。しかしその空欄に正しい答えを記入できないと、まったくその逆の扱い。ちゃんと正しい答えを記入できるように、もっと努力しなさいとそう教わってきた。それが当たり前のことだと思ってきた。

その為なのだろうか。いつの間にか僕はいつも無意識に、正しい答えを探していたような気がする。今の自分は正しいのだろうか?間違ってはいないだろうか?といつも不安だった。ひょっとしたら自分の人生というものに対して、誰かに赤色で大きくマルをつけてもらいたいと、そう思っていたのかもしれない。

 でも本当は正解なんてどこにも存在しないのではないか?と、そんな風に最近よく思うのだ。何が正しくて間違っているかなんて、誰にもわからない。だから正しい人生も、間違った人生も存在しない。あるのは自分自身のたった1つの人生だけ。
そしていつかたぶん生涯愛したいと思う人と出会って、その人と互いに幸せだと感じて生きて行けたらそれだけで充分だと思う。

 そんなことを考えながら書き上げたこの曲に、「Maybe(たぶん)」というタイトルをつける。曲が出来上がって時計を見ると、すでに早朝4時を回っていた。さすがに眠くなってきたので、目を閉じて少し横になる。

 どれぐらい時間がたったのだろうか。何やらガサゴソ音がするので目を覚ましハッと飛び起きると、誰かがギターを持って行こうとしている。キッと睨みつけ何してるんだ?と言うと、こんな所に寝ていたらあぶないよと男は呟き去って行った。辺りを見回すとさっきまで眠っていた他の人の姿はどこにもなく、たくさんの人が流れるように行き交っている。

 時計を見ると朝の6時前。もう電車の走り出す時間だ。このまま少し待って宿を探そうかと迷ったが、昨夜探し回った時に随分と冷たくあしらわれたこともあり、もうこの町はいいやという気分になっていたのでそのまま移動することに。
 手持ちのオランダ通貨、ギルダーを次なる目的地ベルギーのフランに両替して、足早に列車に乗り込む。
 
ウトウトしながら3時間もすると、僕を乗せた国際列車はベルギーの首都ブリュッセルに到着する。

ベルギーといえば、あのチルチルとミチルの青い鳥の童話が生まれた国。そして最近ではお菓子のベルギーワッフルでも有名だ。
そのベルギーの首都ブリュッセルは、EU(ヨーロッパ連合)の本部や小便小僧の銅像があることで有名な町。なんでも本当は美術や歴史に縁ある由緒正しき町らしいのだが、僕が思い浮かぶのはこれぐらいしかない。15世紀からベルギー西部からフランスにかけて起こった、フランドル派の絵画の中心といわれても何が何だかよくわからない。唯一知っているのは、童話フランダースの犬(フランドルを英語読みすると、フランダースになる)で少年ネロが見たがっていた、ノートルダムの教会に飾られたその絵を書いたとされる、ルーベンスぐらいのものだ。
こんなことを書いていると、なんだか僕はすごく童話に詳しい人間みたいに聞こえるが、童話といってすぐ頭に浮ぶのがグリムとかアンデルセンじゃなくて、桃太郎や金太郎というあたりが全てを物語っていたりする。

偶然この列車で相席になった大学生の日本人旅行者と一緒に、まずは宿をとブリュッセルのユースホステルを目指す。だが南駅から地下鉄に乗ってボタンキュア駅へ向かうつもりが、なぜか間違えてトラム(路面電車)に乗ってしまい、途中乗り換えるはめになった。
やっとの思いでユースホステルに着くと、ここでも満室だといわれる。昨日のことを思い出してまさか今日も駅で野宿なのか?と一瞬硬直するが、ここで紹介してもらった近くのユースホステルに空室があり、なんとかチェックインすることができた。ドミトリー1泊470ベルギーフラン、約1200円。
 このユースにはキッチンがあったので近くの八百屋に買出しに行き、昼食に列車で一緒だった日本人旅行者と、パスタをシェアして作って食べる。その後彼は町へ、僕は前日ほとんど寝ていないのでとりあえず眠ることにする。

 夜7時に起きて夕食のはずが、目を覚ますとと深夜12時。9時間近く寝ていたことになる。相部屋の日本人旅行者もまだ起きていたので、サンパウロで購入した食材を使いカレーを作って食べる。相変わらずどこでもカレーとパスタしか作っていない。そして3時頃再び就寝。本日は食べて寝ただけ。他に何もしていない。

 翌朝、相部屋の日本人旅行者がチェックアウトしていくのを、ベッドの中から手を振って見送る。しかしまたそのまま寝る。まったく寝てばかり。そのうち生物学的にヒト科から、アリクイ目ナマケモノ科に分類替えされてしまいそう。自分で書いといて何だが、ナマケモノってアリクイ(蟻食い)の一種だったのね。へー。

 昼頃になってようやく起き出し、せっかくだからと町をぶらついてみることに。
町の中心へ足を向けてしばらく歩いていると、世界で最も美しい広場と言われるグランプラスに出る。12世紀から15世紀にかけて建てられたという市庁舎が、さすがという一言に集約されるほど、壮麗で堂々とした貫禄を醸し出している。かつてジャン・コクトーが絢爛たる劇場と形容したらしいが、ジャン・コクトーが何をした人か実のところあまり良く知らない。いっこく堂なら知ってるんだけどね。

 それから市庁舎横の細い路地をさらに300mぐらい歩くと、ブリュッセルきっての観光名所、小便小僧の像の前に出る。
1619年に彫刻家デュノケアによって作られたこの小便小僧は、1747年にルイ15世の配下のある兵士によって盗み出されたことがあった。その謝罪としてルイ16世が金の刺繍入りの衣装をこの像に贈って以来、今もなお世界中からたくさんの衣装が送られ、その数は600にもなるとか。かなりの衣装持ちである。
ふと横を見るとすぐ隣の土産物屋のガラス戸に、その衣装を着せた写真のカレンダーが張られていた。サンタクロースや各国の民族衣装などもあり、日本のそれは桃太郎。ちゃんと犬、キジ、猿のぬいぐるみも一緒についており、かわいらしくて笑える。
またこの近くのブーシェ通り沿いの賑やかなレストラン街には、1987年に作られたパロディの女の子版小便小僧がある。しかしあまりにも精巧に出来ている為、賛否両論だとか。男女平等なのかシャレのつもりで作ったのかは知らないが、なんでもその像の周りに建つレストランはよく潰れるらしい。呪いの像なのか?

 その後スーパーで買い物をして宿に戻り、久々に溜まった洗濯物をやっつけることに。そういえば宿の1階の食堂と調理場を結ぶ通路に、洗濯機と乾燥機があったことを思い出し覗いてみる。すると空いていたので、じゃあと使ってみることにする。しかしこれが結構な値段で、洗濯機+乾燥機がセットになって1回500円近い料金。2回洗濯すると1泊分の宿泊費近くなる。これだったらいつものように、洗面所で手洗いした方が良かったかもしれない。

 夕方ギターを取り出して、アムステルダムで書いた曲に手を加える。これで1曲完成。

 さらに翌日、ショッピングストリートで靴を買う。日本から履いてきたアディダスのスニーカーは、酷使した結果靴底に穴が開きさらに何度洗剤で洗おうが、半径1m以内に他人を寄せ付けない程の異臭を放つ、殺人シューズになってしまった。このシューズがどれだけ臭かったかというと、狭いと感じる寝台電車や夜行バスなどでこの靴を脱いでそっと置いておくと、僕の隣はいつも空席になる程。
やたら酸っぱい臭いのする汗クサイ太った白人のオヤジが、車掌に頼んで座席番号を変更してもらっていた時にはショックを隠し切れなかったが、移動の際のかなり強力なアイテムとなっており、僕は密かにリーサルウェポンと呼んでいた。
だが旅が進むにつれこのリーサルウェポンは強力になり過ぎて、自分ですらあまりの高貴な香りに、時々フッと気を失うようになってしまったので、代わりの物をとコンバースの新しいスニーカーを購入したのだ。
なかなかしっかりとしたお値段だったが、これでようやくあの殺人的な臭いとオサラバできるかと思うと、真っ青な空のように気持ちも晴れ渡る。しかし数日後このおニューのシューズから再びあの忌まわしい臭いが放たれ、臭かったのは靴では無く自分の足だったのだという、衝撃の事実が待っていようとはこの時はまだ知る由もない。

 その後宿に戻り、部屋でギター片手に曲を書くことに。今日は哀しい恋の歌だ。そのテーマが今の自分にちょうどよかったのか、詞も曲も一気に出来てしまった。なんだかまだイケそうな気がしたので、もうちょっと頑張ってみる、さらにもう1曲詞曲共に出来あがる。ここのところあまり曲を書いていなかったのだが、久々にミュージシャンらしい生活。これでなんとかアリクイの仲間からオサラバできそうだ。

 出来あがった曲を口ずさんでいると、相部屋であるアルジェリア人の2人組の兄ちゃん達が帰ってきた。僕がギターを持っているのを見て、弾いてくれというので1、2曲歌う。すると他の部屋に宿泊している、ニューヨークに住んでいるという黒人の女の子がやってきて、いい声だねもっと聞かせてちょうだいと嬉しいことをいう。
調子に乗ってさらに何曲か歌っていると、僕達の部屋にはあっという間に7~8人の観客が集まってしまう。
 日本の歌、君のオリジナルを聞かせてほしいというので1曲歌う。歌い終わると、皆がいい歌だねといってくれた。しかしそれを英語に訳してくれといわれる。良い歌だと思う、でも詞がわかればもっとよくわかると思うからというのだ。
だが僕にそんな英語力はないので、アイラブユーこれは恋の歌なのさ、わかるかなあ?わかんねえだろうな、イェーイ!と適当なことを答える。お前は松鶴家千とせか!と思いつつ、確かにいわれる通り歌詞の内容を伝えられたら、また違った受け止め方をしてもらえるのでないかとも思う。難しい注文だったが、そこまでちゃんと聞いてくれていることにうれしく思う。
 おまけにアルジェリアの2人組も、奴の歌は最高だろ?と他の宿泊客に、まるで自分のことのように自慢している。つい先程初めて会ったばかりなのに、何だか昔からの仲間みたいだなと可笑しかった。それでも僕には歌があって、ミュージシャンをやっていてよかったなと思わずにはいられないそんな1日だった。

 次の朝早くに宿をチェックアウトし、南駅からタリスと呼ばれる真っ赤なTGVの特急列車に乗って、次なる目的地パリを目指す。ブリュッセルからは約1時間半の移動だ。
朝9時にフランスの首都である花の都パリの北駅に着くと、地下鉄の1日券70フラン、約1200円を買ってレピュブリック駅へとさらに移動。そして19世紀半ば反体制派の隠れ家だった路地を、時の知事オスマンが見通しのよい広場にしたという、レピュブリック広場から少し歩いた所にあるユースホステルへ向かう。
しかしまだ朝の9時台というのに、今日は満室とのこと。市内にある他のユースの予約ができないかと聞いてみたが、パリのユースは全部フルだから諦めろといわれる。
アムステルダムといいここパリといい、どうして夏のヨーロッパはこうなのだとブツブツ文句を言いながら、しかたなくそのままトボトボ歩いて地下鉄駅へ戻ってくる。
 せっかくだからと少し高いホテルを探すことも考えたが、パリは総じて物価が高く6年前にも1度来ているしと、この街は1日だけにして今晩中に移動することにする。

 さて問題は次なる目的地をどこにするか。鉄道駅まで行き窓口で、スペインのバルセロナ行き寝台列車の空席を聞くが、一部の区間ずつしか予約できないとかで全区間は無理だといわれる。一部の区間だけ予約ができる寝台列車というのは、夜中に車掌とかがやって来て、すいません今から3時間だけ他のお客様です、3時間たったら次の2時間またお休みください~などという列車なのか?いったいどんな寝台列車なのだ。
カンボジアで知り合った友人とこの後フランクフルトで会う約束をしているので、じゃあフランクフルトは?と聞いてみる。すると予約なしで乗れるというので予定より少し早いが、そのまま行き先をフランクフルトに変更することに。

 ドイツへはパリの東駅から電車が出るらしいので、地下鉄で一旦そこまで行きコインロッカーに荷物を預ける。これが20フラン、約340円。

 次に地下鉄を乗り継いでやってきたのは、大観覧車と高さ23mのオベリスクが建つコンコルド広場。このオベリスクは元々エジプトのルクソールにある、カルナック神殿にあったものなのだが、19世紀に当時のエジプト君主であったモハメド・アリが、懐中時計と交換にフランスのナポレオン3世にプレゼントしてしまったとか。時計と世界遺産級のオベリスクの交換というのは、日本でいえば奈良の大仏と、当たり年の年代物ワインとを交換するようなものだろうか。
エジプトの君主がアホだったといってしまえばそれまでなのだが、実はジョークのつもりで、持って帰れるものならやってみなさいとナポレオンにいったところ、ラッキー♪といってホンマに持って帰ってしまったというコトなのかもしれない。幕府の将軍様もまさかワイン1本で黒船ペリーが、大仏引きずって持ち帰るなどとは思わないだろうから。

コンコルド広場からシャンゼリゼ通りの並木道をまっすぐ歩き、19世紀にナポレオンが造らせたという、かの有名な凱旋門へとやってくる。そしておもむろにケースからギターを取り出し、自分の持ち歌を歌い始める。
 日本語のうたを歌っていると、それに気づいた日本人観光客がチラチラとこちらを見ていく。
夏休みのメジャーな観光地ということもあってか、さすがに日本人観光客が多い。やはりこのような場所で、同じ日本人が歌っているというシチュエーションが物珍しいのかもしれないが、遠巻きながらもはにかみ笑いをしてこちらを見ている。しかも皆一様に同じ表情をするのが可笑しい。

 シャンゼリゼ通りは6年前に来た時にも歩いたのだが、今日はまた少し違う印象がする。ただ歩いている時と違って、こうしてベンチに腰掛け通行人に向かって歌っていると、いつもより少しだけ低い視線から世の中を見上げて、物事が感じられるような気がしてなかなかいい。
 高い所から下を見下ろすのも気持ち良いかもしれないが、僕には低い所からの景色の方が楽しめるような気がする。高い所から僕達の住んでいる地上を見下ろすと、豆粒の如くすごくちっぽけなものに感じるのだが、下からの眺めというのは逆にいつもの何気ない風景が、すごく大きく感じられるものなのだ。子供の頃の視線というのをイメージしてもらうと、分りやすいかもしれない。下から覗いた風景というのは、普段見落としがちな大切なことが見えて案外良かったりする。

 しかしそれにしても凱旋門の建つシャルル・ド・ゴール広場は、ここから12本の道路がスター状に伸びているだけあり、とびきり車の交通量が多い場所だ。騒音に歌声がかき消され、自分のわずかな周りしか声が届かない。これではあまりにも効率が悪い。静かなバラードなんて歌えたものじゃない。
 
 早めに切り上げようかと思っていると、すぐ横のベンチに座っていた白人の女の子3人組が、僕にU2は歌える?と声をかけてきた。僕はもちろんと答え、「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」を歌い出す。
 切なげなこのバラードを歌い終えると、彼女達はすごく良かったよとうれしそうに笑う。話してみると彼女達はドイツから遊びに来たとのこと。僕も今晩フランクフルトへ向かう予定だと言うと、世界中を回っているの?いいねあちこち行けて、頑張ってねとそういい残し去っていった。

 それからもう少しだけ歌ってギターの弦が切れたところで、ギターをしまい地下鉄駅へと向かう。
 途中でお腹が空いているのに気が付き、シャンゼリゼ通りに出ていた屋台のお店で、フランスパンにトマトなどの野菜とモツァレラチーズをはさんだ、サンドウィッチを食べた。なかなか美味い。しかしパリは物価が高く、これとコーラで36フラン、約600円。

 夕方5時台の国際列車でドイツへ向かう。そして列車はひた走り夜もすっかり更けて、フランクフルトへと到着したのは夜11時半過ぎ。しかし残念ながらこの時間から探して僕の予算で泊まれる宿など無いので、今日はこのまま駅で寝ることにする。

 駅のマクドナルドでかなり遅い夕食をとっていると、日本の京都に住んでいるというハンガリー人の女の子が声をかけてきた。彼女は日本語が少し話せたので彼女は片言の日本語で、僕はつたない英語で会話する。
 話題が旅のルートのことになり、ヨーロッパの旅順を説明していると一都市ごとに彼女がスゴイ、本当?と返してくるのが可笑しい。英語でグッドとかファインと相槌を打つのには、違和感ないのになと興味深く思う。
スゴイね、いいねっていう相槌はすごく良いと思うのだが、日本語で合い槌といえばエエとか、ハイとかホウだったりする。日本でいいね、イイヨもう最高という相槌を打つのは、ウサンクサイ業界人など99パーセント怪しげな人だから、可笑しく感じるのかもしれない。

 しばらくして彼女のフランクフルト在住の恋人が迎えにきたので、元気でねと手を振って別れる。去り際に彼女がこれ食べてと、プラスチックの容器に入ったお菓子をくれた。パリで買った甘いお米のお菓子という言葉通り、カスタードの中にライスの粒が入っている。なかなか変わっていて面白い味だ。

 時計を見ると深夜1時。駅の待合室のベンチに横になって眠る。夏というのにフランクフルトの夜は寒く、冬着を重ね着して寝るがそれでも寒い。何度もくしゃみを連発し鼻水が止まらない。
 アルゼンチンのホテルで拝借して以来、持ち歩いているトイレットペーパーが大活躍。暖かいベッドで眠りたいが、1年でこの時期だけ慢性的な宿不足になる夏のヨーロッパでは、野宿が多くなるのもしかたない。

 真夏のヨーロッパの旅はまだまだ続く。せめて今夜は良い夢が見られるといいのだけれど。

拝啓、世界の路上から 第10話「わくわく?密入国入門/パラグアイ・アルゼンチン・ブラジル」(後編)

2007-12-27 | 旅エッセイ2000「拝啓世界の路上から」
拝啓、世界の路上から 第10話「わくわく?密入国入門/パラグアイ・アルゼンチン・ブラジル」(後編)

翌朝起きると、宿から徒歩10分程行った所にあるローカルバスターミナルから、片道2ドルの料金を支払いイグアスの滝へと向かう。

 アルゼンチンとブラジルの国境を跨って流れ落ちるイグアスの滝は、アメリカとカナダの国境にあるナイアガラの滝、南部アフリカのジンバブエとザンビアの国境にあるビクトリアの滝と並び、世界3大瀑布の1つに数えられる。滝幅4km最大落差80m、毎秒65000トンの水量を誇るまさに世界最大級の滝だ。
 先住民グアラニ族の言葉で大いなる水を意味するイグアスは、大小300もの滝で構成されており、その最大のものは悪魔の喉笛と呼ばれている。かつてイグアスの滝を訪れたルーズベルト大統領夫人がこの滝を見て、かわいそうな私のナイアガラと呟いたエピソードは今でも語り種になっている程。

ローカルバスで30分も走ると、アルゼンチン側のイグアスの滝へと到着する。ここは国立公園になっている為、入場料5ドル支払ってチケットを購入する。
 公園内は滝に沿って複数の遊歩道がある為、入り口のインフォメーションで無料の地図をもらう。しかしいざ遊歩道を歩いてみると、順路の標識があるのでほとんど必要ない。
さらに遊歩道を進んでいくと、熱帯雨林のジャングルの中に次々と美しい滝が現れる。滝の上側の遊歩道が行き止まりになったので、いったん遊歩道の入り口付近へ引き返し、今度は下へと続く遊歩道をひた歩く。なだらかだった滝上の遊歩道に対し、こちらはアップダウンが繰り返されてなかなかの運動量だ。
それでも歩いているといたるところに滝の水しぶきによって作られた、綺麗な虹が架かっていてしばし見とれてしまう。この遊歩道は結構歩き回るのだが、そんな疲れさえもそっと癒してくれる景色。深緑の木々に包まれて穏やかに流れ落ちる、大小様々な滝のあちこちに七色の虹が架かり、真っ青な空と強い日差しが何ともいえない絶妙なコントラストを作り出している。

 またしばらく歩いていると、急な下り坂になり岩場になった川岸へと出る。どうやらここが、滝によって作られたイグアス川のまん中に浮ぶ、サンマルティン島へ渡る船着場みたいだ。ここでは国境の境界線近くまで行く、有料のジャングルクルーズのボートと無料の渡し船がある。ボートは45ドル。無料という響きにうっとりとしてしまう僕は、もちろん渡し船の方に乗ることに。
 
 サンマルティン島に着くと、かなりキツイ坂道が続く。そしてナゼか所々に大きなウンコがある。動物がしたものか人がしたものかはわからないが、美しい景色を見てふんわりうっとりしていた気分から、急速に現実に引き戻される。これがアニメのちびまる子ちゃんなら、サーッと黒い縦線が入っているに違いない。
でもウンコごときにびびっている訳にもいかないので、坂道をひた登り島の3箇所にあるビューポイントへ急ぐ。足元も悪くかなりの勾配なので、さすがに疲れてさっきからヒーッ、ヒーッと湯沸しポットみたいな声しか出てこないが、このサンマルティン島から眺めるイグアスは、その労力を費やすに充分な美しさである。
 水しぶきが掛かりそうな程滝から近い為か、途中道を横切るようにいくつも虹が架かっている。触ってみようと近づくと虹はその姿を消し、ただの水しぶきに姿を変える。虹は空中の水滴粒子にあたった光の屈折と分光によって生じる為、近づけば見えなくなるのは当然なのだが、それでも思わず触れてみたくなってしまう。
滝に近づき過ぎた為か水しぶきが掛かり、うわっと叫んで慌てて逃げ出す。でも少し離れるとさっきまでいた場所に綺麗な虹が架かっているので、また同じことを繰り返してキャッキャッとはしゃいでしまう。言葉にするとなんだか微笑ましい光景だが、やっていることはサル並みで、しかもいい歳した大の男がやることでは無い。アンタはいったい:::とナレーションを入れられてしまいそうだ。

 しかし確かに滝は美しいものの、イグアスの滝のハイライトである悪魔の喉笛は、アルゼンチン側の国立公園内で最も近いこの場所でも、遠過ぎてほとんど見えない。何とか見える場所はないかと、先程から行ったり来たりしてその姿を伺うがやはり無理のようだ。悪魔の喉笛はブラジル側まで行かないと無理なのだろうか。

 来た道を引き返し歩き疲れたので、遊歩道の入り口近くの売店で少し休んでいると、売店のおっちゃんが話しかけてきた。スペイン語なのでほとんど内容はわからなかったが、悪魔の喉笛に行きたいことを話すと、何やら近くまで行くバスがここから出ているという。
 教わった通りバス停に行くと、プエルトイグアス行きと書かれた時刻表と、もう1つ別にプエルトカノア行きと書かれたものがある。おそらくこれのことだろうと思い、1時発のバスに50セント支払って乗り込む。
 
 15分程山道を走ると、バスはプエルトカノアに到着する。ここはかなり大きな湖みたいだ。その辺にいた現地人のおっちゃんに滝は?と聞くと、船着場を指差すので行ってみることに。そこに停まっていたボートの船頭に、滝か?と聞くとそうだというので、4ドル支払いそのボートに乗り込む。すると僕を乗せたボートは、大きな湖の中に作られた遊歩道へ。なんでも昔ここには橋がかかっていたらしいのだが、何年か前に大雨で流されてしまい、今は変わりにこのボートが活躍しているらしい。

 湖の中の遊歩道を抜けると、フェンスの網に囲まれたコンクリートの一角がある。どうやらその一角が悪魔の喉笛の真上にあたるようだ。もうここからは流れ落ちる滝の爆音だけでなく、はっきりと悪魔の喉笛がその雄姿を現している。早くその全容を見たいと思わず走りだしてしまう。そしてその悪魔の喉笛の真上から見た光景は:::すごい、すご過ぎる。

 これが世界一の滝なのか。言葉を失い思わずその場に立ち尽くしてしまう。ものすごい勢いで暴れ狂うようにして、滝壷へと落ちて行くおびただしい量の水、水、水。こんなものがこの地球上に存在するのだと、ただただ感動に打ち震える。
 僅か数ヶ月前に見たカナダのナイアガラも、確かに素晴らしかった。しかしこの光景を見てしまうと、ナイアガラは迫力不足という失礼な言葉が、ごく自然に思い浮かんでしまう。それ程この光景はスゴイ。これが見たかったのだ、これを見に来たのだぁと興奮して思わず絶叫し、ドンドコドコドコ、アイヤーッと踊りだしてしまう。アフリカに行って以来、どうも興奮すると先祖帰りしてしまうらしい。そのうち葉っぱ一枚とかフリ○ンでも街中を歩けるようになってしまうのでないか。そうなったらたぶん日本政府は、僕の帰国を認めないに違い無い。それにしてもスゴイ滝だ。先程までの国立公園内の遊歩道の滝も確かに美しかったのだが、これを見てしまうと所詮前座に過ぎないとさえ思えてくる。
 
 そのまましばらく滝に見とれていたが、帰りのバスの時間もあるからと後ろ髪引かれる思いで遊歩道を引き返し、ピストン輸送するように他の乗客を乗せてきたボートに、再び乗って船着場へと戻ってくる。

行きに降りたバス停に向かうと、残念ながらちょうどバスが出てしまったところのようで、次のバスまで1時間近く待つことに。その間さっきまでの興奮の余韻を反芻していると、現地の兄ちゃん達がやってきてどこから来たと声をかけてきた。
 日本からと答えるとそれはジョークだ、お前はどうみたってこの辺にいるパラグアイの先住民グアラニだといわれる。何が哀しくて日本人ですと言っているのに、それはジョークだと断定されねばならないのか。しかも現地のアルゼンチン人に、お前はこの辺の先住民だろうなどといわれるとは。あれ?ひょっとして先程先祖帰りしたのを見ていたのだろうか?
ならばとドンドコドコドコアイヤーッの踊りを教えてあげると、やっぱりグアラニじゃないかと、ニッコリ笑って肩をポンポンと叩かれる。もうどうでもいい。好きに呼んでくれ。
 
 帰りも2ドル支払い再びバスに乗って、プエルトイグアスのセントロ(町の中心)まで戻り、宿で預かってもらっていた荷物を受け取り再びバスターミナルへ。午後4時にブラジル側の、フォスドイグアス行きのローカルバスがあると聞いていたので急ぐ。あまり時間が無かったので、重い荷物を担いでゼエゼエいいながら走ったが、なんとか10分前には着くことが出来た。そして5分遅れで来たバスに乗る。バス代が1.5ドル。
 アルゼンチン側とブラジル側の間に架かる、タンクレードネベス橋を渡りバスの運転手にいわれるまま、ブラジル側のイミグレーションで降りて入国スタンプを貰う。手続きは簡単であっという間だった。しかし戻ってみるとバスがいない。どうやら置いていかれたようだ。エッ嘘?ちょっとどうするのオイ!
こんなところで一人ぽつんと置いていかれて、まじ?と思わず立ち尽くす。イミグレーションの役人に事情を話すと、1時間半後に次のバスが来るからそれに乗れといわれる。まったく日が暮れちゃうよ。

 どうしようと一瞬不安が過ぎったが、でもまあ何とかなるだろうとノンキに構えていると、ブラジル人のタクシードライバーが声をかけてきた。どこに行くのだと聞くので、サンパウロに行きたいので長距離バスターミナルまでと答えると、よし15ドルだという。そいつは高い。それなら僕は1時間半後のバスを待つよと返すと、すぐ10ドルに下がった。たがそれ以上は頑として譲らない。どうやらその辺が相場なのだろうか。
いくらなら乗るのだと聞くので5ドルならいいよと言うと、バカにしてやがると去って行った。

 しかし5分もしないうちに戻ってきて、アンタには負けた10ドルで手を打とうという。全然負けてないじゃないか。さっきと変わらないぞとさらに返すと、お兄さん商売が上手だねえとニッコリ笑って肩をポンポンと叩く。5ドルなら乗る、イヤあそこは遠いから10ドルだと同じことを繰り返して、運転手はまた怒って去っていく。でもすぐに笑顔で戻ってきて、シャチョーサンドウデスカ?とやる。誰が社長だ誰が。
 そんなことを何度も何度も繰り返すので、なんか可笑しくなってきてどこで折れるのかと少しこの状況を楽しんでいると、しばらくして5ドルでOKだといってきた。どうやら他の客を捕まえたらしく、風呂敷包みみたいなデカイ荷物を抱えたパラグアイのおっさんと一緒なら、5ドルでいいというのでそいつはありがたいとそのタクシーに乗りこむ。

 国境から20分程走って長距離バスターミナルへ。すると運転手がメータを指差し、ほら10ドルぐらいだろう?という。僕は笑顔でオブリガード(ありがとう)と言って、きっちり5ドル支払ってタクシーを降りる。

 サンパウロ行きのバス会社を探し、値段を聞くと60だという。他の会社を探そうとするがここ一社しかないみたいで、60ドルか高いなと思ってお札を出すと、おつりはブラジルレアルでいいかと聞いてくる。エッおつり?とキョトンとしていると、ドンッと目も前に40レアルを置かれた。どうやら60というのは、ドルではなくブラジルの通貨でのことだったらしい。60レアルは日本円で約2400円。
 次のバスの時間を聞くと5時だという。時計を見ると5時5分。もう過ぎているじゃないかというと、大丈夫いつも遅れるからといって、指定座席の番号の入ったチケットを差し出しバス乗り場を指差す。本当に大丈夫なのだろうか。まったくラテンの奴ときたらイイカゲンナンダカラと、ぷりぷり怒りながらバス乗り場へ走る。

 するとやっぱり全然大丈夫だった。慌てて走って乗り場に行くとバスの姿はない。置いていかれたのかと焦るが、周りにいた人に聞くとやはり遅れているようで皆待っているという。結局45分遅れでアスンシオンから来たバスに乗り込み、サンパウロへ向かう。聞くところによるとこのバスが今日の最終便らしく、もし国境であのまま次のバスを待っていたら、フォスドイグアスで1泊することになっていた。綱渡りのようだが、それでも何とかなっていくのが不思議だ。

 バスが走り出すと、次第に夜は更けていつの間にか真っ暗になる。キレイに舗装された暗闇の一本道を、バスのライトの灯りだけが2本まっすぐに伸びている。そしてゆっくりと少しずつ自分が、もうブラジルにいるのだということを実感し始める。
 ブラジルはコロンビアペルーと並び、南米でも屈指の治安の悪い国なので、気をひきしめないといけない。

 しばらくしてようやく少し落ち着き、この数日の出来事を振り返る。それにしてもこの数日は、本当にドタバタ続きだったと思い出し笑う。日本にいた時は本当に些細なことで一喜一憂し、慌てふためいたものだが、どんなに慌てても世の中はなるようにしかならないし、なるようにはなるものである。サッカーの試合結果から風まかせにこのパラグアイ経由のルートを選択したが、なかなか楽しい旅だったと思う。

風まかせが良いことなのか、悪いことなのかは分らない。でもやっぱり人生はなるようにしかならないし、きっとそれなりになるようになるのである。何も悩むことなどない。前を向いて足を踏み出せば、ちゃんとどこかに辿り着くものだ。
 この旅が終わっていつかまた自分が元の日本の生活に戻り、もしも未来の僕が以前と同じように些細なことで悩んでいたとしたら、今のこの気持ちを思い出して欲しいと思う。

暗くなった車窓を流れる風景を見ながら、ラテン色にすっかり染まった僕は、穏やかな気持ちで微笑みながらそんなことを考えていた。