goo blog サービス終了のお知らせ 

拝啓、世界の路上から

ギター片手に世界を旅するミュージシャン&映画監督のブログ(現在の訪問国:104ヶ国)

拝啓、世界の路上から 第14話「ライヴ・イン・ピラミッド/エジプト」(後編)

2007-12-27 | 旅エッセイ2000「拝啓世界の路上から」
拝啓、世界の路上から 第14話「ライヴ・イン・ピラミッド/エジプト」(後編)

 翌朝サファリホテルに宿泊していた大学生、シライ君と朝7時半の列車でルクソールへ向かう。かなりオンボロな列車の2等座席で揺られること約10時間、カイロから南に約670km離れたルクソールに到着したのは夕方の6時頃。

 紀元前2000年頃発祥し、古代エジプト文明の中王国、新王国、末期王朝時代と3つの時代に首都として君臨した歴史を持つ、かつてテーベと呼ばれたルクソールは、人口5万人のナイル川沿いの町。
この町はナイル川を挟んで東岸と西岸に分けられており、東岸は現在も市民の暮らしの中心となっていて、カルナック神殿、ルクソール神殿などの有名な遺跡がある。また西岸はかつてネクロポリス(死者の都)と呼ばれ、王家の谷やハトシェプト埋葬殿などに代表される王族、貴族などの墓地となっていた場所。
ルクソールの語源は、アラビア語で城塞の意味を持つ「エル・ウスクール」で、ローマ帝国時代にこの町が、城壁に囲まれた大要塞であったことから名付けられたという。

ナイル川東岸にあるルクソール駅に着いた僕達は、ギザ以上にしつこくウルサイ客引きをくぐり抜け、カイロの日本人宿サファリホテルの情報ノートに書かれていた、駅から5分程歩いた所にある安宿にチェックインする。ここはシャワー、トイレ、ファン付きの部屋が1人6エジプトポンド、約180円。

 一日中列車の硬い座席に座りっぱなしで、体がなまっていた僕達は町に着いていざ行動開始と、部屋に荷物を置いたその足で流しの乗合タクシーに乗って、東岸の見所であるカルナック神殿に行く。
だが着いた時には既に入り口が閉まっており、そのままとぼとぼと歩いて帰ることに。

 その帰り道に商店街に立ち寄り水と野菜とメロン、そして店先につるされたマトンの肉を量り売りで切ってもらい購入する。
値段はそれぞれ水が2リットルで1.5エジプトポンド、45円。野菜がジャガイモ2個タマネギ1個、ナスとズッキーニが1本ずつ、ニンニク1個であわせて3エジプトポンド、90円。よく熟れたメロンが丸々1個で5ポンド、150円。そしてマトン(羊肉)が0.25キログラムで4ポンド、120円。これらをシェアすることに。

宿のキッチンで先程購入した野菜と、僕の持っていた固形のルウと日本米を使ってカレーを作る。今夜のメニューは久々のカレーだ。そして八百屋で買ったメロンは冷凍庫で冷やす。
 1時間程して出来上がったカレーを、ハフハフ言いながら口に運ぶ。マトンは少し硬かったがなかなかの味。本当は鶏肉か牛肉を探していたのだが、イスラム圏で肉といったら一般的にはマトンになってしまう。鶏肉も生きたままの鶏なら売っていたが、言い出しっぺの調理担当者である僕が、鶏の首をキュッと締めてさばかなくてはいけないので、さすがにそれはちょっとと思い諦めた。やってやれないことは無いのだろうが、当分鶏に襲われる夢を見そうな気がしたから。
 さらに食後のデザートにと冷やしておいたよく熟れたメロンを切って食べると、それはこの世の物と思えない程濃厚でねっとりまったぁりとした甘さ。これまでの人生の中で、最高に美味いメロンだと断言できる。このような絶品のメロンが出来るのは、気候のせいなのだろうか。
よくラーメンの為だけに東京から札幌や博多に行く人がいるが、このメロンの為だけにエジプトに来てもよいと思う程。でも本当にそうしたら、ものすごく高いメロンになってしまうのだけど。

 翌朝部屋をチェックアウトした後、シライ君と2人で自転車を借りて遺跡を見て回ることに。しかし前夜泊まった宿で自転車を借りる際に、5分でいいから日本人観光客の客引きを手伝ってほしいと頼まれる。もし手伝ってくれたらお礼に、後でシャワーを使わせてあげるし、ミネラルウォーターもあげるからというのだ。けして悪いホテルでは無いのだが、そんな義理もないので断るといいじゃないかと逆ギレされる。
 なんじゃコイツはとこちらも頭にきて、俺達には時間がないから早く自転車を持ってきてくれよと言うと、遠くの自転車屋で借りて来るので10分待て、その間暇だろうから客引きを手伝えなどと寝ぼけたことをぬかす。
先程すぐ持ってくるといったから借りることにしたのに、それだったらキャンセルだと怒鳴りつける。すると一転して低姿勢になり、わかった悪かった3分で借りてくるから待ってて頂戴とお願いするので、仕方なくブツブツ文句を言いながらも待つことに。

 しかし自転車が届いたのはそれから15分後。しかも今にも壊れそうな超オンボロ自転車が2つ。斜めに反ったサドルに腰掛けると、ギコギコと首をふる。首ふり機能のついた扇風機なら知っているが、エジプトの自転車にはこんな機能もつけてあるのか。待っている間にどこからか部品を拾ってきて、組み立てたのかと思う程酷い。先程の仕返しとばかりに、後でイッヒッヒとほくそ笑むのかもしれない。性格悪いぞオイ。これが1人1日5ポンド、150円。

まずは昨日見損ねたカルナック神殿へ向かう。市街地から北へ10分程自転車を走らせると、夕べは薄暗くてよく見えなかった巨大な神殿が、僕達の視界にその姿を現す。自転車を入り口近くに止めて鍵をかけ、同じく入り口横にあるチケット売り場で、シライ君に学生証を借りて半額の10エジプトポンド、300円で入場する。自分で言うのも何だが相変わらずセコイ。

カルナック神殿は東西540m、南北に西辺600m、東辺500mもある世界最大級の神殿で、アメン大神殿、ムト神殿、コンス神殿など複数の神殿群からなる、古代エジプト宗教の聖地ともいえる場所。この中でもとりわけ有名なのが、ルクソールでも最も強く崇拝されたアメン神をまつったアメン神殿で、歴代のファラオ(王)達が自分の力を誇示しようと、我も我もと新たに増築を繰り返して巨大な建造物になった。
この遺跡の中でも、高さ23mと15mの2種の柱が134本も並ぶ大列柱室や、約40体もの羊頭のスフィンクスが並ぶ参道、フランスのパリのコンコルド広場にあるものと同じオベリスクなどが有名。ちなみにパリのオベリスクは、元々ここにあった対のうちの1本だとか。
 噂に違わず大列柱室は圧巻で、思わずその場に立ち尽くして柱に描かれたレリーフなどに見とれる。ここは写真などでイメージしていた、ルクソールの遺跡という趣。そして現存する世界最大級の神殿というだけあり、遺跡の規模はさすがにデカイ。でも神殿の全体的な感想としては結構破損が激しく、痛々しいと感じる場所も少なくない。現在でもまだこの壮大な神殿の、発掘と修復は続いているらしいのだが。

 お昼頃になりかなり暑くなってきたので先を急ごうと、カルナック神殿にあるアモン大神殿の付属神殿であるルクソール神殿に向かう。このルクソール神殿とカルナック神殿との間には、かつて3kmもの距離を、両脇にずらっとスフィンクスが並ぶ参道が続いていたとか。
そしてルクソール神殿の前から出ている船に乗って、ナイル川を渡り西岸へと向かう。
途中観光客向けの船の客引きにしつこく声をかけられたが、それをくぐり抜け僕達は現地人の利用する、24時間運行というボロ船に自転車を引いて乗り込んだ。これが往復0.5エジプトポンド、15円。

 ローカルの船が動き出してから、10分程して西岸の船着場に着く。そこからサトウキビや麦、ナツメヤシの畑の中に1本伸びたコンクリート道路を、ひたすら10分程自転車をこぎ続けると、2つの巨大な像が並ぶメムノンの王像の前まで辿り着く。しかし僕達が目指すのは、さらにずっと先にある西岸の遺跡の入場チケット売り場。まだ半分も来ていないのに、あまりの暑さでバテバテ。オマケにサドルは首振りっぱなしで、オケツも痛くてもう最悪。
ハアハアゼエゼエ、オケツ痛えと言いながら、やっとの思いでチケット売り場へと到着する。ここでは王家の谷にあるツタンカーメン王の墓を除く、西岸の遺跡全てのチケットを扱っており、ここでチケットを買っておかないとどの遺跡に行っても中に入れないとか。ここで僕達は王家の谷と、ハトシェプスト埋葬殿のチケットを買う。再び学生証で半額の16エジプトポンド、480円を支払う。

冗談キツイよ助けてくれえと呻き声をあげながら、さらに自転車をこぎ砂漠の中を抜けると、しばらくしてハトシェプスト埋葬殿に到着。はっきりいってもうヘロヘロ。僕の背中のデイバックにつけてあるミニ温度計を見ると、気温が軽く40度を越している。自転車での西岸の遺跡巡りは、やはり無謀だったのかも。でも来てしまった以上、もうどうしようもない。

 ここハトシェプスト埋葬殿は、1997年11月17日午前9時15分(日本時間午後4時15分)、イスラム原理主義の6人のテロリストによる、観光客を狙った大虐殺が起きた場所。その時日本人10人、スイス人43人、イギリス人4人、その他3人の計約60名のツーリストが、テロリストの乱射する銃弾によって皆殺しにされた。そうごく普通の何の罪も無い旅行者が、あっという間に皆殺しにされたのだ。
犯人はその後観光客のバスを奪って逃走したが、警察車両によって道路を閉鎖した100名以上の警官隊と激しい銃撃戦を繰り広げ、結果6名全員が射殺された。それに対峙した警官隊も3名が死亡。負傷者は85名。それまで平和だったルクソールを襲った、悲劇の事件。サファリホテルの情報ノートに張られていた、写真入りの新聞記事のことを思い出す。そして今こうしてこの遺跡を目の当たりにして、酷く胸が痛む。

 だが遺跡は現在ではかなり修復が進み、大虐殺事件時の銃撃戦の痛みを包み隠すかのように、一面鉄筋コンクリートで覆われた真新しい建物となっていた。
 しかしいくらセメントでその傷跡を埋めたとしても、亡くなった犠牲者はもう戻らない。新聞記事に載っていた写真には、新婚旅行でこの地を訪れていた日本人犠牲者の方々の写真もあった。おそらく結婚式場で撮影されたものであろうか、幸せそうに微笑むその写真が、よけいに言いようのない深い哀しみと虚脱感を誘っていた。

いったい何がいけないのだろう。罪の無い人の命を欲する宗教など、本当に必要なのだろうか。この地球上には様々な人々が暮らしている。数え切れない程の価値観が存在する。それぞれの言い分があるだろう。もちろんそれはテロリストにしても、言い分はあると思う。でも自分と違う価値観を持った人々と、互いに尊重しあうことはできないのだろうか。
人類はこれまでの歴史の中で革命とか聖戦だとか、正義の為と言って自分達の戦争を正当化してきた。様々な理由をつけて人を殺すことを正当化してきた。でも人の命を奪うことに、正義など存在しない。例えそれが愛する者を守る為だとしても、涙を流して行うのだとしても、やはりそれは許されるべきものではないと思う。

例えば目の前でテロリストが、自分に銃口を向けたとする。そして自分がこの手に、拳銃を握り締めていたとする。僕は殺される前に相手を殺すべきなのか?自分の命を脅かそうとしている相手に対し、殺られる前に殺らなくてはいけないのだろうか?
人はいつか必ず死ぬ。ならば銃を捨て黙って殺されるという選択肢は、本当に無いのだろうか。
僕だって訳もわからず殺されるのはゴメンだ。愛する者も守りたい。見殺しになんてできやしない。でも目の前の相手にだって、家族や恋人や大切な人がいるはずだ。もし愛するものを守るために人殺しが正当化されるとするならば、誰かが銃を手にとった瞬間、最後の1人になるまで僕達は殺しあわなくてはいけない。

この世界には様々な価値観がある。何が正しくて、何が正しく無いなんて誰にもわからない。そして戦争はいつも哀しい。

 しばらくして次なる目的地、王家の谷を目指すことに。だが近くにいたポリスに聞くと、なんでもここから山を1つ越さないといけないらしく、もう僕達はバテバテだったのでしかたなく自転車をその場に置いてタクシーに乗ることにする。
だがここの駐車場には、タクシーがポツンと2台停まっているだけなので、足元を見られて思うように値段交渉が進まない。それでも何とか粘り強く交渉を続けて、結局1人7エジプトポンド、210円を払って、王家の谷とハトシェプスト埋葬殿を往復してもらうことに。
 
 紀元前1500年頃の新王朝時代になると、歴代のファラオ達はピラミッドの建設を止め、盗掘を逃れる為町から離れた川を挟んだ西岸の谷へ墓を作るようになった。それが王家の谷である。
 墓といっても建築物があるわけではなく、岩山にくり抜いた長い洞窟に壁画などの装飾を施し、石棺や副葬品と共に遺体を安置したとされる。現在発見されているものは全部で62基。その62基目がかの有名なツタンカーメンの墓である。

 王家の谷に着き、ラムセス6世や4世などの墓を見て回る。墓の中の壁画はとても3500年前のものとは思えない程、鮮やかな色をしておりなかなかすごいものがある。
少ししてシライ君がツタンカーメンの墓を見たいというので、入り口でチケットを買う。これがバカ高く当然のように?学生証を借りて使うが、半額でもこれ1つで20エジプトポンド、600円。

 古代エジプト新王国時代第18王朝(紀元前1565~紀元前1310年)のファラオ(王)の1人で、若くして暗殺されたと言われる悲劇の少年王、ツタンカーメンの墓は1922年11月4日、イギリス人ハワードカーターによって発見された。
盗掘されつくした他の王の墓と違い、埋葬された当時のままの姿で出土した、中に並べられたきらびやかな黄金の副葬品の数々は、20世紀最大の発見といわれ、一躍この王の名を世界中に知らしめることとなる。
この王の墓が現代まで盗掘にあわなかったのは、若くして亡くなりあまりにも墓の規模が小さかったからだといわれている。だが規模が小さいといっても、黄金のデスマスクを含めた出土品の数々は、カイロにある考古学博物館の2階のフロア約半分を要する程。この少年王の墓ですらこの規模なのだから、盗掘にあった他のファラオの遺品はいか程であったのだろうか。

墓の内部に入るとかなり狭く、あっという間に玄室へ辿り着く。その玄室の中には人型の棺に入れられた、ツタンカーメン王の本物のミイラが、レプリカの黄金のデスマスクをつけて眠っている。本物のデスマスクを含めたほとんどの副葬品は、現在カイロの考古学博物館にあるのだが、3重になっていた人型棺のうちの第2人型棺に入れられて、王のミイラが今もここに眠っているのだ。
シライ君はこの墓をすごく見たかったとかで、ウォーといって感動に打ち震えていた。かたや僕はというと、こんなに小さなお墓なのに正規の入場料金が1200円もするのかと、ヒエーッといってそんな衝撃に打ち震えていたのだけど。

 自転車とローカル船で来た道を引き返し、ルクソール神殿の前へと戻ってきたのが夕方の4時。気温は50度近くなり、自転車移動の疲れも重なり意識が朦朧としている。
 とりあえずエアコンのある場所に移動しようと、シライ君と2人で近くにあったマクドナルドに入る。ここで食べた、なんてことのないチーズバーガーとポテト、コーラのセットがなんとうまいことか。ファーストフードを食べて感動したのは、これが初めてかもしれない。ポテトはいかがですか?とエクストラを勧める笑顔のお姉さんに対して、いやいいですといつもブッキラボウに断る僕だが、今ここでそんなことをいわれたらじゃあそれも1つ貰おうかなと、ニッコリ笑って何でも買ってしまいそう。怪しげな壺を1つウン百万円で売りつける宗教団体は、この手口を使っているのかもしれない。

 宿に戻り自転車を返し、荷物を取って駅へと向かう。そして夕方6時頃、ルクソール駅に到着した列車に飛び乗ってアスワンへ。前日チケットを購入しようと、ルクソールに到着した際に駅のオフィシャルカウンターへ行ったのだが、40エジプトポンドとまた法外な金額を請求された。だが飛び込みなら正規料金で乗れるという噂を聞き、列車の空いている座席に勝手に座り車内で購入。これでアスワンまで15エジプトポンド、450円。どうやら噂は本当だったようだ。

 ルクソールから、南に200km離れたアスワンに到着したのは、それから約3時間後。そのまま駅近くにあったホテルの、ツインルームにチェックインする。ここがファン付で1人6ポンド、180円。
この日はさすがに疲れていたので、宿近くのチキン屋で鶏肉のあぶり焼きを食べて、そのまま宿に戻って就寝。
 
 次の日、疲れていたので何をする訳でも無く、だらだらと昼近くまで過ごす。本当ならここから南に280km離れたスーダンとの国境近くの、アブシンベル神殿に行きたかったのだが、なんでも今は道が水没し飛行機でないと行けないとか。
この神殿はかつてダムの建設で水没の危機にさらされ、ユネスコの国際キャンペーンによって救済されたという、ラムセス2世の巨大な立像が並ぶエジプト屈指の大遺跡。
ものすごく行きたかったのだが、実は旅の資金がもうあとごく僅かしかなく、ここで無理して行ってしまうと、日本に帰れなくなる恐れがあったので泣く泣く諦めたのだ。
それでもせっかくアスワンまでは来たのだからと、洗面所で手洗いの洗濯をした後町へ出てみることに。

ナイル川の東岸に位置するアスワンは、カイロから南に約850km離れた人口15万人の町。かつてこの辺りからスーダン方面にかけて、南1000kmにわたる広大な土地をヌーバ族という黒人が支配していた。そのためこの町では、カイロなどのエジプト北部のアラブ系民族とは明らかに違う、ヌーバ族の末裔であるヌビア人という色の黒い人が目立つ。彼達はアラブ人よりも人懐っこくて親切。その為かここアスワンに来ると、ホッとするという声をよく聞く。

 アスワンの町をぶらつき、少しお腹がすいたので1件のケバブ屋に入る。そこでケバブ(羊肉のあぶり焼き)のサンドイッチを注文する。これが1つ1.5エジプトポンド、45円。味もなかなか良くボリュームたっぷり。
何か飲み物が欲しいと思ったが、水が出てきたのでそれを飲む。水道水であろうその水は、かなり消毒臭くけして美味くはないが飲めない程でもない。きっと一般の観光客は水道水の水など飲まないだろうが、現地人と同じ物を食すというこのスタイルでずっと来ているので、馴れてしまえばどうってことはない。

 さらに町をぶらついていると生ジュース屋があったので、マンゴージュースを飲んでみることに。するとこれがもう最高。ギュッと生のマンゴーをしぼった濃厚なジュースが、デカイ氷の入ったクーラーボックスで冷え冷えになっている。これを飲んだらもう他のものは飲めないというくらい美味い。カイロでも何度かマンゴーやオレンジの生ジュースを飲んだが、ここで飲んだマンゴージュースはまったくの別物。思わずもう1杯おかわりしてしまう。これが1杯1エジプトポンド、30円。

 それから町の郵便局で切手を買い、商店街で絵ハガキも買って宿に戻る。切手が1枚1.25エジプトポンド、38円。しかしやはりというか、郵便局でもおつりをごまかされそうになり少し口論となった。悪気があるのか、ちょっと頭が弱くて足し算が出来ないのかはわかないが、いつもおつりが違う。それも必ず少なめに。
シライ君と2人で来ていたのだが、僕の後に購入したシライ君の時も同じように間違う。2人で来ていると見ればすぐわかるのに、同じネタを繰り返すあたりはやはり頭が弱いのかもしれない。もうちょっとヒネリナサイ。
 
 夕方までホテルでハガキを書いた後、6時頃フルーカという小さな帆掛け船に乗りに行く。これは風のみを動力とする帆船なので、エンジン音も無く静かにのんびり川を漂うことのできる乗り物だ。僕達2人で船1隻借り切って、それで1人5エジプトポンド、150円。

 ナイル川でフルーカに乗ってしばし漂う。

 昼間あんなに暑かったのが嘘のように、心地よい風が頬を撫でてゆく。思わず目を閉じてうたた寝してしまいそうだ。

時計の針が6時半を回ると、さっきまでギラギラと真上で輝いていた太陽が、赤い衣をその身にまとったかのように真っ赤に染まり、西岸の生い茂る緑のジャングルの中へ少しずつゆっくりと沈みはじめた。これまであちこちでサンセットを見てきたが、ナイル川の船上で見る夕日も息を呑むほど幻想的。ただじっとその光景を見つめる。

それから1時間程して夕日が完全に沈んだ頃、僕達を乗せたフルーカは船着場へと帰ってくる。
 僕達のフルーカのキャプテン(船長)はヌビア系の若い青年だが、彼1人で船を切り盛りしているので、船の帆をしまおうとマストによじ登ると、船の舵を操る人間がいなくなってしまう。そこで彼に指示されるままに、なぜか僕が船の舵をとることになった。
普通ならここで、金を払っているのに助手扱いされるのか?と怒るところなのかもしれないが、好奇心のカタマリである僕はわーいフルーカが運転できる、やり方教えて教えて!などと言って2つ返事で了承する。子供かお前はとツッコまれそう。
 しかしこれがやってみるとなかなか難しく、思うように舵がとれない。せっかく船着場へ近づいてきたのに、また沖へと流されてしまう。キャプテンもハーッと溜息をついて呆れ顔。よく考えてみたら、僕は公園の手漕ぎボートですら満足に操れないんだった。ゴメン申し訳ない。

 夕食も昼のケバブ屋でサンドイッチを食べた後、宿に戻って2人でビールを飲む。基本的にエジプトはムスリムの国なので、めったに酒が手に入らないのだが、こうして外国人向けに酒を置いてあるホテルもあるようだ。
 冷えたビールをぐっとあおると、あまりのウマさに絶句。しばらく言葉が出ない。やはり熱帯ではキーンと冷えたビールに限る。しかし外国人向けだけあって値段は高く、500mlのビンビールが1本5.5エジプトポンド、175円。しかし調子に乗って2人で3本もあけた。久々にヨッパラッテすっかり上機嫌になり、ギター片手に思わず歌ってしまう。
歌い終わって時計を見ると、もう夜の12時。明日はまた、オンボロ列車に揺られてカイロへ戻る移動日だ。そして僕は、そのまま次の国へ向かうことになっている。

ものすごく賑やかで鬱陶しいくらい騒がしくて、でもいつも楽しいエジプトでの日々。古代文明の遺跡はもちろん素晴らしいけれど、でも決してそれだけじゃないエジプトの日々。そんなエジプトでの日々を、まるで祭りの後のような寂しさに包まれながら、そっとこの胸に包み込んでまた旅立とうと思う。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。