明日元気になれ。―part2

毎日いろいろあるけれど、とりあえずご飯と酒がおいしけりゃ、
明日もなんとかなるんじゃないか?

久しぶりのビリケンにて惑う

2007-06-25 22:52:05 | 美味しいもの
先週末、久しぶりにビリケンに行った。
およそ4ヶ月ぶり。
月に1度か2度通っていたことを考えると、信じられないくらい空いてしまった。
彼と二人で行くというと、マスターは結婚祝いといって、可愛らしいワイングラスのプレゼントを用意して待っていてくれた。

ビリケンで久しぶりに美味しい日本酒を飲んだ。
ここに来ると、やっぱりこの世で一番旨い酒は日本酒だと思う。
どんな料理にも合うのもいい。
世の中に出回っている、まがい物の日本酒しか飲んだことがなく、「日本酒だけは苦手」といっている人とよく出会うが、この酒を飲ませてあげたいと切実に思う。
せっかくアルコールを飲める身体に生まれてきたのに、これほど旨いものを飲まず、それどころか「日本酒はまずい」と思い込んで生きていくのは悲しい。

いつも憤ってしまうのは、もちろん日本酒の美味しさを知らない人にではなく、日本の誇るべき酒文化を台無しにしてしまった酒造メーカーにだ。
ヨーロッパの人々が自国のワインを誇るように、日本人も本当は世界に誇るべき酒文化を持っていたというのに。

日本人は米があれほど好きなんだから、本当に美味しく作った酒であれば、日本酒が口に合わないわけがないのだ。
もちろん、それでもワインのほうが好き、ビールのほうが好き、芋焼酎のほうが好きといった「好み」はあるにしてもだ。
私だって、ビールもウイスキーも芋焼酎も大好きだからなぁ。
ウイスキーに至っては、日本酒と甲乙付けがたい。

おっと、話がずれたが、とにかく久しぶりの美味しい日本酒にすっかりまいってしまい、ゆっくり飲んでるつもりがどんどんおかわりをし、結局6杯・・・
(いつも4杯までと決めているのに)
でも、長時間いたのと、楽しくてずっと笑いこけていたのとで、少しも酔わなかった。
彼も同じだけ飲んで、プラス、ビールも飲んで、それでも平気そうだった。

常連の男性がいて、東京に転勤されていたのだけれど、大阪に戻ってこられたということで、久しぶりにお会いして盛り上がった。
この人、本当に旨い料理と酒がわかる、とってもいい人なのだ。

お酒も堪能したけど、やっぱり料理がすごかった。
家に帰って数えてみたら、ちょっとしたアテも入れて15品も食べていた!!
全部美味しかったけれど、この日のベストは、イカ!!



何の変哲もない「イカの炊いたやつ」にしか見えないだろう。
この美味しさを語るのは難しい。伝わりにくいかもしれない。
大きくなる前の少し小ぶりの新鮮なイカを、ワタごとただ煮込んだだけ。
サントリーのコピーじゃないけど、
「何も足さない。何も引かない」
まさに、そんな料理。

このワタの少しだけほろ苦いような、逆に甘いような、なんとも絶妙の部分が口の中に広がると、どんなしかめっ面の人だって頬が緩んでしまうと思う。
そして、この料理に合う酒は、日本酒しかありえない。
食べた瞬間、「わぁー、酒、酒」と要求してしまった。
世の中でも稀に見る、ベストカップル。このイカと日本酒。

ちなみに、この器は、私がビリケンで一番気に入っている志野。
この器にだったら、私はかなりのお金を積んでもいいと思っている。
それくらい欲しい器だ。

志野って、なかなかいいのがないんだよなぁ。
不思議と。
こんな器、マスターは一体どこで見つけてきたんだろう。

卵かけご飯も旨かったな。

これはほんと、ヤバイです。
もう卵の黄身自体が芸術!
それに自家製の海苔が乗ってる。
本当に旨い卵かけご飯って、生まれてから覚えて好きになった味じゃなくて、はるかかなたの祖先からずっとDNAで受け継いできた、日本人が持ってる味覚で「美味しい」と感じる気がする。
かなり「ソウルフード」だ。

他にも、あなごのお造り、白子、自家製オイルサーディン、甘いとうもろこし(ただ、太白胡麻油でじっくり炒ったもの)、自家製のベーコン(生)、ローストビーフなどなど・・・。
隣の人が食べていた鯛の煮付けまでいただいちゃって、食べるわ、食べるわ15品!
ただし、全部彼と半分ずつにした。
全種類食べたかったので・・・。
(普段なら1人前全部食べられるけれど、私も彼も4時頃まで彼の実家で寿司をたらふくご馳走になっていたのです)

ひたすら料理と酒に舌鼓を打ち、いっぱいしゃべって笑った後、最後にはいつものようにマスターにオーラを見てもらった。
この日はヒーリングで使うカードも持ってきていたので、それもやってもらった。
彼は過去や現在の心の状況をバッチリ言い当てられていた。

私はというと、またいつもと同じ。
「自分自身を愛せるように」

これは本当に私の生きる課題みたいになっている。
どうしたって乗り越えられない壁・・・。

そして、初めてオーラの色が変わっていた。
ずっと赤系だったのに、初めて青になっていた。

今、私に必要なのは、自分自身と対峙することだと思う。

今日、晩ご飯のおかずにかぼちゃの面取りをしながらいろんなことを考えていた。
面取りという単純作業がよかったのかもしれない。
ふとあることに思い当たり、涙がポロポロこぼれてきた。

弱るといつも友達に会う。
自分を理解してくれる人がいることにホッとする。
不安なとき、自分の存在が崩れそうなときは、いつもこの世で何人の人が自分を愛してくれているのかを思い返す。

ああ、だけど本当は、こんなことをしているから、ずっと同じことの繰り返しなんだ。
自分が誰を好きかとか、誰が自分を好きかとか、
数人でも自分を理解してくれる人がいるんだから大丈夫だとか、
そんなことに安心感を求めているから、私は永久に不安定なんだ。

たぶん、安定している人はこんなことを考えない。
世界中の人すべてに愛されたって、私が自分を愛せなければ、私はずっと不安定なまま。

外部との繋がりで解決できる問題じゃない。
これは、私が私自身と対峙すべき問題。
誰が何を言おうと、私が変わらなければ、私は永久に壁の外にいることになる。

前に、家で「24時間ホームパーティー」をしたとき、マスターにその話をしたら言われたことを覚えている。
「なんでそんなことするんや?」と。「それは、たくさんの友達を集めて、自分がどれだけ人に慕われ、愛されているか、確認して、安心したくてやってる行為やで」と。

そう言われて、そのとき、「果たしてそうなんだろうか?」と素直に考えてみたけれど、そうは思えなかった。
単にみんなで集まって楽しめたらいいと、それだけであって、そんな深い意味をもって催したことではなかった。
後々もそのことを何度か思い出したけれど、やっぱりマスターの考えすぎというか、間違った診断だと思った。

だけど、今日、かぼちゃの面取りをしながら、初めてその「意味」が理解できた。
言葉や頭で考えていたのでは、それを実感することはなかったけれど、もっと深い部分でそれを理解してしまったのだ。

「文章を書くこと」
これもどうなんだろう。
もし、私が本当に自分を愛せる日が来たら、もう文章を書くということは必要なくならないだろうか。
それは、今の段階ではよくわからない。
ちなみにマスターは「書くことは続けたほうがいい」と言ってくれる。

私は子供の頃から劣等感の塊で、自分には「書くこと」しかできないと、ずっとそう思って生きてきたけれど、もし書くこともできず、何もできない自分自身を愛することができたら・・・、この世に生まれたことを肯定できたら・・・、もしかしたら、そのとき初めて変わることができるのかもしれない。

今、少し何かわかりかけている。

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